第17話「コーディアラに吹く風」
ロアーナ王国、陥落。
蒼き姫騎士イレーネ、消息不明。
その報せがコーディアラへ届いた朝。
エターナルグリーンを渡る風は、ひどく冷たかった。
* * *
コーディアラ王国は、広大な森の外周に築かれた国だった。
王都の石畳には、朝から人々の足音が響く。
木組みの家々。
麦を積んだ荷車。
森から運ばれた木材を加工する工房。
町の外れでは、いくつもの風車がゆっくりと羽を回していた。
風は、コーディアラの暮らしを支える力だった。
麦を挽くために。
水を汲み上げるために。
森から町へ、季節の匂いを運ぶために。
そして今は。
遠い戦火の匂いを、運んできていた。
「北の見張り台より伝令!」
城壁の上で、兵士が叫ぶ。
「帝国軍の先遣隊が、北方の森道へ侵入!」
「エボルモンスターを確認! 数は二十以上!」
「避難民の一団が、渓流の木橋で足止めされています!」
城門の内側で、人々がざわめいた。
子供を抱き寄せる母親。
荷物を抱えた商人。
風車の羽を見上げたまま、立ち尽くす老人。
その城壁の上を、一人の姫騎士が駆けていた。
淡いミントグリーンの髪が、朝の風を受けて揺れる。
白銀の鎧。
深い緑のマント。
額には、煌めくティアラ。
風の姫騎士、エレゼリア。
「フリッツ!」
「ここに!」
城門の下から、男が応じた。
コーディアラ森林防衛隊隊長、フリッツ。
弓を背負い、深緑の外套を翻しながら、隊員たちへ指示を飛ばしている。
「避難は?」
「北側の住民を、迷いの大森林の外縁へ誘導しています!」
「ルディアガーデン周辺の保護地まで、道は開いてる?」
「ヴェンツェル様から許可をいただいています!」
「よし」
エレゼリアは、北の森を見た。
木々の向こうに、黒い煙が上がっている。
「町を空にできれば、あたしたちは森だけを守ればいい」
「姫様。ですが、森を抜ける前に敵へ追いつかれます」
「なら、道を作る」
エレゼリアは即答した。
「北の森道は、あたしが開ける!」
城壁の上から、彼女は跳んだ。
風が身体を受け止める。
落下は、滑空へ変わった。
白銀の鎧をまとった少女が、朝の風を裂いて森へ降り立った。
* * *
渓流に架かった木橋の前で、避難民たちは立ち尽くしていた。
橋の向こうには、黒い獣たちがいる。
狼に似た身体。
だが、肩からはもう一対の腕が生えている。
四本の前脚には、岩を砕くほど太い爪。
黒い外殻。
赤く濁った目。
エボルモンスターだった。
「下がって!」
エレゼリアが、橋の手前へ降り立つ。
怪物の一体が、低く唸った。
次の瞬間。
四本の腕を広げ、地面を蹴る。
「エアロブースト!」
翡翠色の風が、エレゼリアの足元から全身を包んだ。
鎧の隙間を風が駆け抜ける。
踏み込みが軽くなる。
怪物の爪が、ゆっくりと迫るように見えた。
振り下ろされた爪を、彼女は剣の腹で受け流す。
「アプゼッツェン!」
押し返すのではない。
爪の勢いを外へ逃がし、その流れへ自らの風を重ねる。
剣先が跳ね上がり、怪物の胸元を鋭く突き払った。
巨体が、大きく仰け反る。
そこへ、二体目が横から噛みついた。
素早くかわし、黒い外殻の継ぎ目を断った。
怪物の首が大きく逸れ、赤い目が揺らぐ。
だが、背後には三体目。
四本の爪が同時に迫る。
エレゼリアは振り返らなかった。
「ドゥルヒラウフェン!」
風が、彼女の身体を前へ押し出す。
爪の届く寸前。
彼女は怪物の脇を通り抜けた。
そのまま懐へ潜り込み、すれ違いざまに剣を振るう。
風を纏った刃が、黒い外殻を深く裂いた。
続く風の斬撃が何度も舞い踊り、怪物に再生する隙を与えない。
怪物は数歩進んでから、ようやく地面へ崩れ落ちる。
「姫騎士様……!」
避難民の一人が、震える声を上げた。
だが、森道の奥からさらに怪物が現れる。
帝国兵もいる。
魔導弩を構え、橋の向こうから矢を放とうとしていた。
エレゼリアは、剣を下げた。
周囲の風を感じる。
川を渡る湿った風。
木々の葉を揺らす風。
怯えた人々の頬を撫でる風。
すべてを、一つへ集める。
「みんな、目を閉じて!」
避難民の前へ、風の壁が立ち上がった。
エレゼリアは、剣を空へ掲げる。
「サイクロントルネード!」
翡翠色の竜巻が、森道の奥から巻き上がった。
木々を折らない。
橋を壊さない。
避難民には、一片の葉も触れさせない。
けれど。
帝国兵とエボルモンスターだけを飲み込み、空高く巻き上げる。
魔導弩が宙を舞う。
怪物たちが吠える。
黒い外殻の巨体が、森の外へ叩き出されていく。
竜巻が消えた時。
木橋の向こうには、倒れた帝国兵と、折れた武器だけが残っていた。
「今だよ!」
エレゼリアは振り返る。
「保護地まで走って!」
風が、逃げる人々の背を押す。
母親が子供を抱き上げる。
老人が杖を捨て、隣の青年の肩を借りる。
避難民たちは、森林内部へ続く道を走った。
風が舞う。
森を守るために。
そして、森で生きる人々を守るために。
* * *
森林内部、迷いの大森林の外縁には、古い石柱が半円を描くように並んでいた。
石柱には、読めない文字が淡く光っている。
その向こうは、ただの森には見えない。
視線を向けるたび、木々の配置がわずかに変わる。
道があるはずの場所に、いつの間にか深い茂みが現れる。
超古代の防衛機構。
悪意を持つ侵入者を迷わせ、聖域へ近づけさせない迷いの大森林。
その手前にある広い保護地へ、コーディアラの住民たちは集められていた。
人間が、ルディアガーデンの内部へ入ることはできない。
聖域を穢れから守るためだ。
けれど、世界樹を守る者たちは、炎の中へ人々を返すこともしなかった。
「これ以上、内側へは入れません」
銀白の長い髪を持つハイエルフが、避難民へ静かに告げる。
ルディアガーデンの長、ヴェンツェル。
「ですが、この保護地にいる限り、迷いの大森林は、あなた方を拒みません」
「ありがとうございます」
フリッツが、深く頭を下げた。
「コーディアラの民は、必ずこの恩を返します」
「事態は逼迫しています。第一に考えるべきは」
ヴェンツェルは、避難民たちへ視線を向ける。
「命です。まず、生き延びなさい」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
遠くの空には、黒い煙が上がっている。
森の匂いに、焦げた樹皮の匂いが混じり始めていた。
エレゼリアは、保護地の端で膝をついていた。
彼女の前には、小さな妖精がいる。
葉のように薄い羽を震わせ、炎の方向から目を離せずにいた。
「大丈夫」
エレゼリアは、ゆっくりと手を差し出した。
「ここには、火を入れさせない」
妖精は怯えていた。
だが、やがて。
小さな手が、エレゼリアの指先へ触れた。
近くでは、片腕に樹皮の模様を浮かべたドライアドたちが寄り添っている。
彼らもまた、不安そうに森の外を見ていた。
「本当に……森は守れるの?」
若いドライアドが、震える声で尋ねた。
エレゼリアは、答えるまでに一瞬だけ時間を置いた。
簡単に言えることではない。
けれど。
「守るよ」
彼女は言った。
「あたしがいる。フリッツも、防衛隊も、みんなもいる」
そして、空を見た。
遠い雲の向こう。
黒い影が、ゆっくりと近づいていた。
お読み頂き、ありがとうございます。
更新は週2~3回を目安に予定しています。
感想・評価・ブックマークを頂けると、今後の執筆の励みになります。
どうぞ宜しくお願い致します。




