第16話「開眼――飛燕剣」
「開眼――飛燕剣・初太刀!」
剣閃が走る。
熊の前脚そのものではない。
肩の黒い肉塊から腕へ伸び、爪を振るう力を異様に増幅させていた黒い侵食枝。
狩人へ届く爪を止めるため、その枝だけを斜めに断った。
黒いものが弾けた。
どろりとした液体が、土へ落ちる。
熊が、今までとは違う声で吠えた。
怒りではない。
苦痛に近い声。
前脚の力が抜ける。
振り下ろされかけた爪が、狩人のすぐ脇へ落ちた。
レフィーナは着地と同時に、狩人の肩を掴んだ。
「今です! 動けますか!?」
「脚が……!」
「一緒に引きます!」
レフィーナは倒木へ剣を差し込み、梃子のように力をかける。
狩人も歯を食いしばり、身体を引き抜く。
熊は数歩後ろへ下がっていた。
肩の傷口では、黒い肉塊がなお蠢いている。
切られた侵食枝の先から、煙のような瘴気が細く漏れていた。
赤く濁った目から、一瞬だけ焦点が外れる。
熊は傷ついた前脚を引きずり、苦痛から逃げるように森の奥へ背を向けた。
巨体は枝を折り、木々を揺らしながら、深い森の闇へ消えていった。
しばらく、誰も動けなかった。
風が吹く。
倒れた枝が、ゆっくり揺れた。
レフィーナは剣を下ろす。
手が震えていた。
怖かった。
今になって、全身が震え始める。
「……助かりましたか」
狩人が、苦しそうに笑った。
「ああ。助かった」
レフィーナはその場へ膝をついた。
「よかった……」
レフィーナは、森の奥を見る。
熊が消えた方向。
「苦しそうでした」
「……ああ」
狩人は、肩の傷を押さえながら頷く。
「あんな目の獣は、見たことがない。あれも、何かにやられたのかもしれんな」
レフィーナは答えなかった。
肩にあった黒い肉塊。
脈打つ黒い筋。
あれが何なのかは分からない。
ただ、あの熊は最初から、人を襲うためだけに動いていたようには見えなかった。
「傷を見せてください」
「俺より、嬢ちゃんのほうが――」
「大丈夫です」
レフィーナは荷袋から薬草を取り出した。
白鈴草ではない。
ランドルフから持たされた、傷薬用の乾燥薬草。
水で戻し、狩人の裂けた脚へ当てる。
手はまだ震えていた。
けれど、やるべきことは分かっていた。
「ポートハーベンは」
手当てをしながら、レフィーナは尋ねた。
「どんな町ですか」
狩人は、痛みをこらえながら笑う。
「海の匂いがする町だ。船が多くて、人も多い。魚と荷物と、知らない国の言葉が毎日流れてる」
「海……」
「行ったことはないのか?」
「ありません」
レフィーナは、狩人が荷車を引いて何とか歩けることを確かめ、森の外れへ続く道まで付き添った。
「嬢ちゃん、ありがとう。助かったよ」
狩人は森の向こうを見る。
「さっきの町の話だが、機会があったら一度行ってみるといい」
「世界は、ここよりずっと広い」
狩人は町へ向かう道をゆっくり歩きながら別れを告げた。
レフィーナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
世界は広い。
姉がいる場所も。
帝国がいる場所も。
自分がこれから進む場所も。
森の外にある。
* * *
小屋へ戻った頃には、空が暮れ始めていた。
ランドルフは、戸口の前に立っていた。
帰りが遅いことを、心配していたのかもしれない。
けれど、レフィーナを見ると、まず剣へ目を向けた。
「何があった」
レフィーナは、狩人のこと。
熊のこと。
黒い肉塊と黒い筋のこと。
そして、自分が剣を振ったことを話した。
ランドルフは途中で口を挟まなかった。
全部を聞き終えてから、ゆっくりとレフィーナの剣を受け取る。
刃には、黒いものがわずかに残っていた。
それを見た老人の目が、少しだけ険しくなる。
「……これは」
「知っているんですか」
ランドルフは、刃に残った黒いものを見つめたまま、すぐには答えなかった。
「似た記録を、わしは知っておる」
「記録……?」
「生き物の中へ入り込み、内側から形を変える。そういう、禁じられたものの記録じゃ」
レフィーナは、森で見た熊を思い出す。
赤く濁った目。
苦しそうな唸り声。
肩の奥で蠢いていた黒いもの。
「では、あの熊は……」
「まだ断じられん」
ランドルフは静かに言った。
「だが、お主が見たものは忘れるな。今すぐ答えを求める必要もない」
老人は、小さな布へ黒い残滓を包んだ。
「答えは、いつか向こうから姿を現す」
レフィーナは頷いた。
分からないことばかりだった。
それでも。
今日、自分が何をしたのかだけは分かる。
「私、最初は熊を倒さないとって思いました」
レフィーナは言った。
「でも、間に合わなかった」
ランドルフは黙って聞いている。
「狩人さんのところへ届くことが先でした」
レフィーナは、自分の手を見る。
剣を振った手。
狩人を引き抜いた手。
「だから、あの爪が届く前に……そこへ行こうって」
ランドルフは、しばらく目を閉じた。
やがて、小さく頷く。
「ついに開眼しおったか……」
レフィーナは顔を上げた。
「飛燕剣・初太刀……できたのじゃろう?」
老人は、レフィーナの剣を返す。
「速さに酔う剣ではない。敵を斬るためだけの剣でもない」
レフィーナは、柄を握る。
「届くべきものを見失わず、最短の道を選べたようじゃ」
ランドルフの声は、静かだった。
「飛燕剣・初太刀は、お主が初めて習得した技じゃ。更に磨くがよい」
レフィーナは、剣を見つめた。
まだ、弱い。
まだ、一度しかできていない。
それでも。
あの一瞬、自分は確かに狩人へ届いた。
手応えは確かにあった。
その事実が、胸の奥で小さな灯りになっていた。
ランドルフは、小屋の向こう。
西へ続く森の道を指した。
「次は一人で、ポートハーベンへ行ってこい」
レフィーナは、息を呑んだ。
「ポートハーベンへ……?」
「今日助けた狩人が言っておった町じゃ。山を越えた先、西の海にある」
「私が、一人で」
「そうじゃ」
不安が、すぐに胸へ浮かんだ。
森の外。
知らない人たち。
知らない町。
ランドルフもいない。
怖い。
けれど。
レフィーナは、額のティアラへ触れた。
それから、剣の柄を握る。
「……行きます」
声は小さかった。
けれど、逃げる声ではなかった。
「怖いです。でも」
西の空は、夕焼けで淡く染まっていた。
その向こうに、まだ見ぬ海がある。
まだ見ぬ町がある。
そして、きっとまだ会えていない誰かがいる。
「一人で、行きます」
ランドルフは、少しだけ笑った。
森を抜ける風が、レフィーナの髪を揺らす。
光を継いだ少女は。
初めて、自分の剣で誰かへ届いた。
そして次は、自分の足で森の外へ向かおうとしていた。
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