第15話「森の異変」
翌朝。
森は、白い霧に包まれていた。
レフィーナは小さな荷袋を背負い、剣を腰へ下げる。
光のティアラは、いつものように額で静かに光っていた。
「地図は覚えたな」
小屋の前で、ランドルフが言った。
「はい」
「北の沢を越えたら、苔むした大岩がある。そこから西へ曲がれ」
「はい」
「白鈴草は、日陰の湿った場所に生える」
「はい」
ランドルフは、しばらくレフィーナを見ていた。
いつもなら、さらに何か言う。
足元を見ろとか。
剣を抜く前に考えろとか。
飯を焦がすなとか。
けれど、この朝は違った。
「行け」
それだけだった。
レフィーナは、深く息を吸う。
「行ってきます」
森の中へ、一歩を踏み出した。
* * *
一人で歩く森は、いつもより広かった。
鳥の羽音が近い。
木の葉が擦れる音が大きい。
小さな枝が折れる音にさえ、何かがいるのではないかと身体が固くなる。
けれどレフィーナは、立ち止まらなかった。
地図を思い出す。
北の沢。
苔むした大岩。
西へ曲がる。
風向き。
太陽の位置。
そして、足元。
数度、獣道を外れかけた。
けれど、焦らず戻った。
沢を越える時には、滑りやすい石を避け、浅い場所を探した。
以前のレフィーナなら、水に濡れることを怖がって、急いで渡ろうとして転んでいたかもしれない。
今は違う。
一歩ずつ、確かめて進む。
やがて、苔むした大岩が見えた。
ランドルフの言った通りだった。
「ここから、西……」
少し西に進んだ、日陰の湿った土に、白い鈴のような花が揺れていた。
「白鈴草……」
レフィーナは必要な分だけを摘み、布袋へ収めた。
その時。
森の向こうから、男の声がした。
誰かを呼ぶ声ではない。
低く、何かを確かめるような独り言だった。
「……また、この爪痕か」
草を踏む音。
荷車の車輪が、ゆっくりと軋む音。
レフィーナは剣の柄へ手を添え、慎重に声の方へ進んだ。
木々の隙間に、小さな荷車が見えた。
毛皮や罠道具を積んだ、狩人用の荷車。
その横に、厚手の革の外套を着た男が立っていた。
年は四十を越えているだろうか。
弓を肩にかけ、太い木の幹へ刻まれた爪痕を調べている。
「あんた、誰だ?」
男はレフィーナに気づくと、驚いたように眉を上げた。
「こんな森の奥に、一人で?」
レフィーナは少しだけ身構えた。
「薬草を採りに来ました」
「薬草?」
男はレフィーナの身なりを見た。
「ヒーラーかい?」
「あ…まあ、色々見習い中ですけど…」
「そうか。俺は狩人だ。西の町から来てる」
「西の町……?」
「ポートハーベン」
その名を聞いた瞬間、レフィーナは少しだけ目を見開いた。
森の向こう。
山の向こう。
西の海に面した港町。
ランドルフが時々、地図の上で指していた町。
「ポートハーベンから、ここまで?」
「ああ。あっちの製材所へ渡す毛皮が必要でな」
狩人は荷車を軽く叩く。
「だが、最近は森の様子が変だ。獣が人を避けなくなった」
レフィーナは、幹に刻まれた爪痕を見る。
太い木を深く裂いた跡。
普通の熊のものとは思えない。
「何か、いたんですか」
「でかい熊だ。灰色の毛をしたやつで――」
その時だった。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
空気が震える。
鳥たちが一斉に飛び立った。
狩人の顔色が変わる。
「……来た」
木々の間から、巨大な影が現れた。
熊に似ていた。
だが、普通の熊ではない。
立ち上がれば、木の枝へ届きそうなほど大きい。
灰色の毛はあちこちで抜け落ち、肩の肉は不自然に盛り上がっている。
その下には、黒い筋が根のように走っていた。
黒い筋は肩から前脚へ伸び、皮膚の内側で脈打っている。
片方の肩には、火傷のように爛れた傷。
その裂け目の奥で、黒い肉塊のようなものが蠢いていた。
目は赤く濁っている。
けれど、その奥には怒りだけではないものがあった。
痛みに追い立てられたような。
何かから逃げようとしているような。
そんな揺れ。
「下がってください!」
レフィーナが叫ぶ。
狩人は弓を構えた。
だが、熊は速かった。
巨体が地面を蹴る。
倒木を踏み砕きながら、まっすぐ狩人へ迫った。
「くっ……!」
狩人が矢を放つ。
矢は熊の肩へ刺さる。
だが浅い。
熊は止まらない。
前脚を振り下ろす。
狩人は横へ飛んだ。
その直後、倒木が大きく揺れた。
熊の爪が幹を砕き、崩れた木が狩人の脚へ落ちる。
「うあっ……!」
「大丈夫ですか!?」
レフィーナは剣を抜いた。
熊は、倒木の下でもがく狩人へ近づいていく。
狩人は脚を挟まれ、立てない。
弓も遠くへ飛ばされていた。
「来るな!」
狩人が短剣を抜く。
熊が唸る。
肩の黒い肉塊が、どくん、と脈打つ。
そこから伸びた黒い筋が、前脚へ走る。
爪が地面を抉る。
レフィーナは前へ出た。
「こっちです!」
熊の目が、レフィーナへ向く。
大きな頭。
牙。
荒い息。
獣臭と、湿った土の匂い。
そのすべてが、目の前へ迫る。
レフィーナは剣を構えた。
倒す。
熊を倒さなければ、狩人を助けられない。
そう思った。
熊が突進する。
レフィーナは、正面から踏み込んだ。
「はっ!」
剣を振る。
けれど、刃は熊の肩を浅く掠めただけだった。
熊の前脚が横から振られる。
「っ……!」
レフィーナは剣で受ける。
衝撃が腕を痺れさせた。
身体が後ろへ飛ぶ。
背中から地面へ叩きつけられ、息が止まる。
熊はレフィーナを追わない。
また狩人へ向かった。
「だめ……!」
レフィーナは立ち上がる。
けれど、足がすぐには動かない。
熊の前脚が、倒木の下にいる狩人へ伸びる。
狩人は短剣を構えている。
だが、その刃は熊の厚い毛皮へ届かない。
「逃げろ!」
狩人が叫んだ。
「嬢ちゃん、一人で相手にするな!」
レフィーナは、息を吸った。
熊の喉を狙うには、遠い。
正面から行けば、また爪に弾かれる。
大きな一太刀を振るためには、距離がいる。
距離を取れば、その間に狩人が死ぬ。
違う。
今、届くべき場所は。
熊の喉ではない。
熊を倒すことでもない。
狩人の上へ振り下ろされる、その爪。
倒木の下。
狩人の肩。
熊の前脚。
そこへ届くまでの道。
レフィーナの視界から、余計なものが消えた。
正面には行けない。
けれど、左の斜面なら走れる。
倒木の根元を踏めば、一歩だけ高く飛べる。
熊の死角から、爪と狩人の間へ入れる。
速くなるためではない。
届くべき場所へ。
届くために。
レフィーナは、息を吸った。
左へ走る。
斜面を駆け上がる。
土が滑る。
けれど、止まらない。
倒木の根を踏む。
身体が浮く。
熊の前脚が、狩人へ振り下ろされる。
その一瞬。
レフィーナは、剣を振った。
「開眼――飛燕剣・初太刀!」
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