第14話「鉄の剣」
届くための道を見つけたからといって、すぐに届くわけではなかった。
百日目の夕方。
ランドルフの木剣へ、初めて自分の木剣が届いた。
あの一歩を、レフィーナは何度も繰り返した。
朝に。
昼に。
日が暮れて、手のひらの感覚がなくなるまで。
けれど、二度目には届かなかった。
三度目には、足が流れた。
四度目には、相手の木剣ばかり見てしまった。
「また違う」
ランドルフの声が飛ぶ。
「はい」
「今のお主は、届いた一歩を真似しておるだけじゃ」
「……はい」
「剣は形を覚えるだけでは足りん。何のために踏み込むのか、そのたびに見失うな」
レフィーナは木剣を握り直す。
森を抜ける風が、頬の汗を冷やしていった。
届くべき場所へ。
届くための剣。
言葉では分かる。
けれど、身体はまだ追いつかなかった。
* * *
それから、さらに百日が過ぎた。
森は色を変えた。
濃かった緑は少しずつ薄れ、朝の草には霜が降りるようになった。
小屋の屋根から垂れる雨水は、早朝には細い氷柱になっている。
レフィーナの手も変わっていた。
柔らかかった手のひらには硬い皮ができ、木剣を握ってもすぐには痛まない。
もちろん、痛くなくなったわけではない。
痛くても、手放さなくなっただけだった。
「木剣は、今日までじゃ」
ある朝、ランドルフは小屋の壁に掛けられていた一振りの剣を外した。
飾りのない、細身の剣。
鞘も柄も古い。
けれど、刃だけは丁寧に磨かれていた。
「これは……」
「訓練用じゃ。切れ味は落としてある」
ランドルフは剣を差し出す。
「だが、木剣とは違う。重さも、振った後の戻りも、間違えれば自分を傷つけることもな」
レフィーナは両手で受け取った。
ずしりと重い。
木剣より少しだけ重いはずなのに、手の中へ伝わる冷たさが違った。
これは、誰かを傷つけることのできるものだ。
その事実が、胸の奥へ静かに沈む。
「怖いか」
ランドルフが尋ねた。
レフィーナは、しばらく剣を見つめた。
「……少し」
「それでよい」
老人は頷く。
「怖さを知らぬ者は、剣を振るう理由を忘れる」
レフィーナは鞘から剣を抜いた。
朝日が、刃の上を滑る。
「でも」
レフィーナは、柄を握り直した。
「怖いから、持たないとは言いません」
ランドルフは何も言わなかった。
ただ、いつもの木剣を手に取った。
「構えろ」
「はい」
* * *
鉄の剣を持つようになってから、レフィーナは何度も失敗した。
踏み込みが遅れれば、剣は重く遅れてついてくる。
手首だけで振れば、刃がぶれる。
急ごうとすれば、足が止まる。
ランドルフの木剣は、そのたびに容赦なくレフィーナの肩や脇腹へ当たった。
「痛っ……」
「死ぬよりは軽い」
「そうですけど……!」
「ならば立て」
「はい」
転び。
起き上がり。
振る。
その繰り返しだった。
けれど、レフィーナの中で少しずつ変わるものがあった。
以前なら、ランドルフの剣だけを見ていた。
今は、足元の土を見る。
風がどちらから吹いているかを見る。
木の根がどこへ伸びているかを見る。
自分と相手の間に、どれだけの距離があるかを見る。
そして、剣を振る前に考える。
何へ届くべきなのか、と。
* * *
ある夕方。
小屋の裏手にある小さな畑で、レフィーナは薬草を摘んでいた。
手袋をした指先で、葉の形を確かめる。
「これは、熱を下げる薬草です」
「うむ」
「こっちは、傷薬に混ぜるもの」
「うむ」
「これは……食べられる草です」
「それは雑草じゃ」
「……そうでした」
レフィーナは肩を落とした。
後ろで、ランドルフが小さく笑う。
「剣を振ることだけが修行ではない」
「分かっています」
「薬草を間違えれば、助けるつもりで人を苦しめることもある」
「はい」
「だから、よく見ろ」
レフィーナは、手元の草を見つめた。
似た葉。
違う匂い。
茎の色。
根の形。
細かな違いを見落とさない。
それもまた、届くために必要なことなのだと、少しずつ分かり始めていた。
その時、ランドルフが畑の向こうを見た。
森の奥。
西へ続く細い獣道の先。
「明日、森の外縁まで行ってこい」
レフィーナの手が止まる。
「一人で、ですか?」
「そうじゃ」
「何をすれば」
「白鈴草を採ってこい。北の沢を越えた先に群生しておる」
ランドルフは、小さな布袋を渡した。
「この時期にしか採れん。傷薬に必要じゃ」
「分かりました」
「誰も、お主を助けん」
レフィーナは布袋を握った。
森の奥へ入ること自体は、もう何度もあった。
けれど、その時は必ずランドルフが近くにいた。
見えない場所にいても。
何かあれば、杖の音がした。
小石が飛んできた。
叱る声が聞こえた。
明日は、その声がない。
「……はい」
返事はした。
けれど、その夜。
レフィーナはなかなか眠れなかった。
寝台の傍らには、訓練用の剣が立てかけられている。
窓の外では、森が暗かった。
木々の間には、月の光も深く入らない。
どこかで獣が鳴く。
遠く。
けれど、確かにそこにいる。
レフィーナは、毛布の中で目を閉じた。
怖い。
初めて一人で森へ行くことが怖い。
迷ったらどうしよう。
怪我をしたらどうしよう。
敵がいたら。
帝国軍がいたら。
考え始めれば、いくらでも不安は増えた。
それでも。
ランドルフの言葉を思い出す。
恐れを知らないことが、強さではない。
怖さを知ったうえで、進むこと。
レフィーナは、胸の上で両手を重ねた。
「……大丈夫です」
誰に言うでもなく、呟いた。
「行って、帰ってきます」
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