第13話「届くための剣」
四十日目。
小屋の机の上に、小さな水晶が置かれていた。
透明な石。
掌に乗るほどの大きさで、内側には淡い光が眠っている。
「これは?」
レフィーナが尋ねると、ランドルフは椅子へ座ったまま答えた。
「魔力の流れを見るための水晶じゃ」
「これで、何をするんですか」
「怒りに任せて魔力を流してみい」
レフィーナは、水晶を見つめた。
「怒り……ですか」
「帝国を憎んでおるじゃろう」
その言葉に、胸の奥が揺れた。
燃える王都。
逃げる人々。
崩れる崖。
連れ去られた姉。
何もできなかった自分。
思い出すだけで、息が苦しくなる。
「……はい」
レフィーナは水晶を両手で包んだ。
目を閉じる。
帝国軍を思い浮かべる。
黒い鎧。
冷たい声。
雨の中の剣戟。
「お姉様を……返してください」
胸の奥から、熱いものが溢れた。
水晶が、急に強く光る。
金色の光が、レフィーナの指の隙間から漏れる。
だが、その光は荒れていた。
揺れる。
弾ける。
小屋の中の机を震わせる。
「……っ」
レフィーナの手のひらが痛む。
光が、彼女の意志とは別の方向へ暴れようとしている。
怒りが強くなるほど、光は濁った。
金色の中へ、黒い影が混じる。
「やめます!」
レフィーナが手を離す。
光は途切れ、水晶は元の透明さへ戻った。
小屋の中には、苦い焦げたような匂いだけが残る。
「だめです……」
レフィーナは、自分の手を見る。
「怒っていたのに。あんなに、怒っているのに」
「怒りは刃になる」
ランドルフが言った。
「だが、光は刃だけでは保てん」
レフィーナは黙った。
「怒りは前へ進ませる。だが、怒りだけで進めば、いつか自分も傷つける」
ランドルフは水晶を拾い上げる。
「お主の光が何を照らすのか。それを決めるのは、お主じゃ」
レフィーナは、少しの間、目を閉じていた。
姉の笑顔。
母の手。
森兎の震え。
崩れた道で泣いていた子供。
逃げる人々。
まだ会ったことのない誰か。
誰も、怖い思いをしなくて済むように。
誰も、目の前で大切な人を奪われなくて済むように。
「……もう一度、やってもいいですか」
ランドルフは、水晶を机へ戻した。
「やれ」
レフィーナは、そっと水晶へ手を伸ばす。
今度は怒りを捨てたわけではない。
胸の奥にある痛みも、悔しさも、消えてはいない。
ただ、その向こうにいる人たちを思い浮かべた。
「みんなが……」
声は小さい。
「もう、怖い思いをしませんように」
水晶の中に、小さな光が灯った。
先ほどのように眩しくはない。
机を揺らすほどの力もない。
だが、その光は消えなかった。
柔らかく。
静かに。
金色の粒が、水晶の内側でゆっくりと揺れていた。
ランドルフは、何も言わなかった。
しばらくしてから、低く呟く。
「……それがお主の光じゃ」
レフィーナは、水晶を見つめていた。
小さな光。
まだ、誰かを救えるほどではない。
それでも。
自分の中に、確かにあるものだった。
* * *
日が過ぎた。
森の葉は色を変えた。
朝の霧は冷たくなり、小屋の屋根には霜が降りるようになった。
レフィーナの手のひらには、新しい豆ができた。
潰れた。
固くなった。
木剣を振る回数は、百回から二百回へ増えた。
森を走る距離も伸びた。
料理は、たまに焦がした。
けれど、食べられないほどではなくなった。
そしてある朝。
ランドルフは、二本の木剣を持って小屋の前へ立った。
「今日から、剣の形を変える」
一本をレフィーナへ渡す。
「飛燕剣の基礎じゃ」
レフィーナは、木剣を受け取った。
「飛燕剣……」
「速さの剣だと思うなよ」
ランドルフは、先に言った。
レフィーナは少し驚く。
「違うんですか?」
「違う」
老人は木剣を構える。
「速くなるための剣ではない」
ゆっくりと、一歩踏み出す。
それだけだった。
だが、気づけばランドルフの木剣は、レフィーナの喉元へ止まっていた。
風が遅れて、二人の間を抜ける。
「届くべき場所へ、届くための剣じゃ」
レフィーナは、喉元へ向けられた木剣を見つめた。
「届くべき場所……」
「敵を倒すことだけを考えるな。誰かが倒れたなら、そこへ届く。逃げ道が塞がれたなら、そこへ届く。守るべき者へ刃が向いたなら、その前へ届く」
ランドルフは木剣を下ろす。
「最短の一歩を選べ」
「はい」
「相手より速く動くことだけが、速さではない」
レフィーナは構える。
ランドルフの木剣へ向けて踏み込む。
だが、足が大きく流れる。
剣先は届かない。
「違う」
もう一度。
踏み込む。
届かない。
「違う」
また。
また。
また。
レフィーナの足跡が、小屋の前の土へ幾重にも残っていった。
* * *
百日目の夕方。
森の向こうへ日が沈みかけていた。
空は薄い金色から、ゆっくりと紫へ変わっている。
レフィーナの息は荒い。
服には泥がつき、手のひらは擦りむけていた。
足は震えている。
それでも、木剣は下ろさない。
ランドルフは、少し離れた場所で木剣を構えていた。
「今日はそこまでじゃ」
レフィーナは返事をしなかった。
「百日じゃ。明日からは、少し休ませてやる」
それでも、レフィーナは構えを解かなかった。
「レフィーナ」
「まだ、です」
声は震えていた。
けれど、はっきりと届いた。
ランドルフの眉が、わずかに動く。
「まだ、お姉様に会えていません」
レフィーナは、木剣を強く握る。
「まだ、助けられていません」
夕暮れの風が、森を抜ける。
レフィーナは目を閉じた。
ランドルフの木剣。
自分との距離。
足元の土。
風の向き。
相手の肩。
踏み込むべき場所。
届くべき場所。
目を開く。
今までよりも小さく、一歩を踏み出した。
無駄に力まない。
遠くへ跳ぼうとしない。
ただ、そこへ届くために。
木剣が走る。
乾いた音が響いた。
レフィーナの木剣が、初めてランドルフの木剣へ届いていた。
強い一撃ではない。
押し切る力もない。
けれど、剣先は確かに、届くべき場所へ届いていた。
レフィーナは、そのまま動けなくなる。
膝が折れそうになる。
ランドルフが、木剣を下ろした。
「今日は、そこまでじゃ」
レフィーナは荒い息を整えながら、顔を上げる。
「今の……」
「忘れるな」
ランドルフの声は、いつもより少しだけ低かった。
「今の一歩だけは、忘れるな」
レフィーナは、ゆっくり頷く。
まだ届かない。
お姉様にも。
奪われた国にも。
あの日、助けられなかった人たちにも。
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