第12話「百日の鍛錬」
最初の一日、木剣は重すぎた。
夜明け前の森には、まだ薄い霧が残っていた。
ランドルフの小屋の前。
湿った土の上で、レフィーナは両手に木剣を握っている。
額には、昨日から身につけるよう言われた光のティアラ。
金の輪はまだ何の力も見せず、朝の淡い光を受けて静かに輝いているだけだった。
「振れ」
ランドルフが言った。
「はい」
レフィーナは、木剣を持ち上げた。
肩へ力が入る。
腕が震える。
それでも、前へ振り下ろした。
ぶん、と鈍い風切り音がした。
剣先は大きくぶれ、足元もふらつく。
「遅い」
「はい」
「腰が浮いておる」
「はい」
「目が剣だけを追っておる」
「……はい」
ランドルフは容赦がなかった。
「もう一度」
レフィーナは、木剣を構え直す。
振る。
「遅い」
振る。
「足が止まっとる」
振る。
「腕だけで振るな」
朝日が森を越える頃には、レフィーナの手のひらは赤くなっていた。
昼を過ぎる頃には、皮が剥けた。
それでもランドルフは、止めと言わない。
「剣は、願いだけでは振れん」
老人の言葉が、森の中へ落ちる。
「強くなりたい、守りたい、会いたい。そう思うだけで剣が振れるなら、戦場で死ぬ者などおらん」
レフィーナは息を切らしながら、木剣を握り直した。
「……分かっています」
「分かっておらん」
ランドルフは即座に返した。
「分かっておれば、今のように腕だけで振らん」
レフィーナは唇を噛む。
悔しい。
けれど、反論できなかった。
姉を助けたいと言った。
強くなりたいと言った。
だが、実際の自分は、木剣を百回振ることさえ満足にできない。
「もう一度」
「はい」
返事だけは、すぐにした。
* * *
七日目。
レフィーナは、鍋を焦がした。
「……ごめんなさい」
黒くなった鍋の底を前に、レフィーナは肩を落としていた。
小屋の中には、薬草とは違う苦い匂いが満ちている。
ランドルフは、黒く炭になりかけた野菜を見下ろした。
「剣より火加減を覚えい」
「火が強すぎたんです」
「見れば分かる」
「次は焦がしません」
「今日の昼飯はどうする」
レフィーナは、しばらく黙った。
「……パンを切ります」
「それがよい」
ランドルフは呆れたように言った。
けれど、食事の後。
彼は新しい鍋を出す代わりに、焦げを落とすためのたわしをレフィーナへ渡した。
「夕食は、お主が作れ」
「はい」
「今度は、火を見ろ」
レフィーナは、鍋を磨きながら頷いた。
剣も。
火も。
歩くことも。
眠ることも。
生きるために必要なことは、何ひとつ簡単ではない。
それでも、できるようにならなければならない。
誰かを守る前に、自分が立っていられるようになるために。
* * *
二十日目。
ランドルフは、レフィーナを森の奥へ連れ出した。
細い道はすぐに消え、倒木と岩場とぬかるみが続く。
「走れ」
「ここを、ですか?」
「ここをじゃ」
「でも、道が……」
「戦場に道などない」
ランドルフは杖の先で、奥の木を指した。
「あの木まで行って戻れ」
「はい」
レフィーナは走り出した。
最初の数歩で、根に足を取られた。
「きゃっ……!」
泥の上へ転がる。
木剣が手から離れた。
「立て」
後ろから、ランドルフの声が飛ぶ。
レフィーナは泥を払う暇もなく、剣を拾った。
走る。
枝が顔へ迫る。
避ける。
足元の石を踏む。
滑る。
また転ぶ。
それでも走る。
その時、横から小石が飛んできた。
「痛っ!」
レフィーナは額を押さえた。
振り返ると、ランドルフが杖を下ろしている。
「何をするんですか!」
「戦場は敵だけを見ておれば死ぬ」
老人の声は、森の中でよく通った。
「風、地面、味方、逃げ遅れた者。全部を見ろ」
レフィーナは、額を押さえたまま黙る。
「敵が剣を持って正面から来るとは限らん。足元が崩れるかもしれん。味方が倒れるかもしれん。逃げ遅れた子供がいるかもしれん」
その言葉に、レフィーナの胸が痛んだ。
崩れた王都。
泣いていた人たち。
雨の中を走る避難民。
助けを求める声。
自分は、姉の背中だけを見ていた。
それ以外は、何も見られなかった。
「……もう一度、行きます」
レフィーナは言った。
「今度は、足元も見ます」
「それだけでは足りん」
「風も。木も。周りも見ます」
「よし。走れ」
その日、レフィーナは何度も森を走った。
転んだ。
泥だらけになった。
枝に頬を掠め、膝を擦りむいた。
それでも夕方、小屋へ戻る頃には。
最初より少しだけ、足元の根を避けられるようになっていた。
* * *
三十日目。
森の奥で、レフィーナは小さな鳴き声を聞いた。
「……?」
足を止める。
倒れた木の陰。
そこに、灰色の森兎がうずくまっていた。
片方の後ろ脚から血が出ている。
何かの罠にかかったのか、鋭い棘で傷ついたのか。
近づくと、森兎は怯えたように身体を震わせた。
「大丈夫です」
レフィーナは、ゆっくりと膝をついた。
「痛かったですね」
森兎は逃げようとした。
けれど、脚が動かない。
レフィーナは訓練用の布を取り出し、慎重に傷を洗った。
背後から、ランドルフの声がした。
「弱いものに構っていれば、日が暮れる」
レフィーナは振り返らない。
「でも、痛がっています」
「今日の課題は、北の沢まで行って戻ることじゃ」
「分かっています」
「ならば急げ」
レフィーナの手が、森兎の脚へ触れる。
「……この子を置いていくことも、できません」
しばらく、ランドルフは何も言わなかった。
レフィーナは傷口へ薬草を当て、細い布を巻いた。
「これで、少しは歩けると思います」
森兎は、まだ震えていた。
けれど、やがてゆっくりと立ち上がる。
数歩。
それから、振り返ることなく茂みの奥へ消えていった。
その時。
額の光のティアラが、かすかに温かくなった。
「……?」
レフィーナは、指先で宝石へ触れた。
淡い金色の光が、ほんの一瞬だけ漏れる。
すぐに消えた。
だが、確かにそこにあった。
ランドルフが、少し離れた場所からそれを見ていた。
「何か、光りました」
「見れば分かる」
「どうしてですか」
「さあな」
ランドルフは、わざとらしく肩をすくめた。
「答えが欲しければ、自分で探せ」
レフィーナは、もう一度、森兎が消えた方角を見る。
胸の奥に残っているのは、勝ったような気持ちではなかった。
ただ、助かってよかったという小さな安堵だった。
額の光のティアラには、もう光は残っていない。
それでもレフィーナは、そこに確かな温かさが残っているような気がした。
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