第11話「蒼き姫騎士、墜つ」
氷河湖の中央にある島は、近づくほど不気味だった。
木はない。
鳥もいない。
白い岩と氷だけが積み重なり、島の中央には古い石造りの建物が半分だけ顔を出している。
クリスタルティア迷宮の入口。
凍りついた神殿の門。
その前に立つ石像たちは、雪を被り、長い年月を誰にも見られずに過ごしてきたようだった。
「嫌な場所っすね」
イヴァンが小さく言う。
「静かすぎる」
イレーネは答えた。
船が、島へ続く航路の半ばに差しかかった。
その時。
湖面の下で、何かが動いた。
「止まって!」
イレーネが叫ぶ。
遅かった。
氷が割れた。
水柱が上がる。
巨大な魚型のエボルモンスターが、船の横から飛び出した。
口の中には幾重もの牙。
胴体には、黒い瘴気が絡みついている。
さらに、別の場所でも氷が割れる。
一体。
二体。
三体。
水中型の怪物たちが、船を囲んだ。
「帝国軍ですか!?」
「待ち伏せ」
イレーネは剣を構える。
「先回りされた」
怪物の尾が、船体を叩く。
木材が軋む。
親衛隊の一人が、湖へ投げ出された。
「助けろ!」
イヴァンが飛び込もうとする。
だが、別の怪物が水面から現れ、彼の脚へ噛みついた。
「っ……!」
「イヴァン!」
イレーネは氷槍を放つ。
怪物の頭を貫く。
だが、その間に別の怪物が親衛隊を押さえつける。
氷の上へ引きずり出され、武器を奪われる。
イレーネが一歩踏み出す。
その前に、黒い剣が地面へ突き刺さった。
氷が割れる。
暗い影が、島の手前の氷原に立っていた。
黒い外套。
暗黒の仮面。
その背後には、帝国兵たち。
魔導弩を構え、親衛隊とイヴァンへ向けている。
「誰?……お前」
イレーネの声が低くなる。
「暗黒の姫騎士、と呼ばれている」
女は、わずかに首を傾けた。
「この者たちの命と引き換えに、投降しろ、イレーネ」
イヴァンが、脚を押さえながら叫ぶ。
「俺たちのことはいい! 姫様は行ってくれ!」
「黙れ!」
帝国兵が、イヴァンの背へ槍を向ける。
親衛隊の一人も、氷の上で押さえつけられている。
誰も動けない。
イレーネの剣は、まだ氷をまとっている。
ティアラも、弱いながら光っている。
戦えば勝てるかもしれない。
目の前の敵だけなら。
暗黒の姫騎士へ届くまでに、数人を失うかもしれない。
その数人を、イレーネは数えられなかった。
数にできなかった。
イヴァンが歯を食いしばる。
「行けって言ってるだろ……!」
「嫌」
イレーネは、短く答えた。
剣を下ろす。
氷が、刃から消えていく。
「……剣を置く」
白い氷の上へ、剣が落ちた。
乾いた音が、凍った湖へ響く。
「だから、部下には触れないで」
彼女は額のティアラへ手を伸ばす。
指が、触れる。
手が震えていた。
それでも、外す。
水のティアラが、ゆっくりと彼女の手の中へ落ちる。
その光が、弱く揺れる。
「命令」
イレーネは、イヴァンと親衛隊を見る。
声は静かだった。
けれど、今までで一番強かった。
「生きて」
暗黒の姫騎士が、帝国兵へ頷く。
黒い拘束具が運ばれてくる。
首輪。
両手の鎖。
足首の枷。
イレーネは抵抗しなかった。
ただ、イヴァンたちから目を離さなかった。
水のティアラは、暗黒の姫騎士の手へ渡る。
その瞬間、イレーネの周囲から冷気の魔力が消えた。
そして、吹雪だけが残った。
* * *
コキュートス島は、海図の端にさえ記されない。
ロアーナ北東の海。
流氷のさらに向こう。
冬の海が一年中、凍りついたままの場所。
島へ近づく船は、海面を割る氷の音しか聞かない。
波は低い。
風は強い。
けれど、その風さえ遠くから吹いているように感じる。
島全体が、世界から切り離されていた。
白い崖。
黒い岩。
凍った海。
空はいつも鈍い灰色で、太陽が出ても暖かさは届かない。
鳥は飛ばない。
草も生えない。
誰かが声を上げても、雪へ吸い込まれてしまう。
コキュートス島の地下収容区画は、氷河の内部に穿たれていた。
入口には厚い鉄扉があり、その外側を何層もの氷が覆っている。
扉が閉じれば、外の海も空も、もう見えない。
中へ入ると、冷気は肌を刺すものではなく、骨の奥へ沈むものになる。
石壁は濡れている。
だが、落ちた水滴は床へ届く前に凍る。
天井から垂れた氷柱には、青白い魔導灯の光が歪んで映る。
廊下の奥には、いくつもの鉄格子が並んでいた。
どの独房も狭い。
どの床も、薄い氷で覆われている。
暖炉はない。
火の気はない。
聞こえるのは、遠くの氷河が軋む音だけだった。
ぐ、ぐ、と。
地面の下で、巨大な何かが眠りながら歯を噛み合わせているような音。
時々、壁の向こうで氷が割れる。
そのたび、空気が震える。
誰かの叫びに似た音がする。
けれど、それが氷の音なのか、本当に誰かの声なのか、分からない。
イレーネは、独房の奥に座っていた。
両手は鎖で壁へ繋がれている。
足首には、重い枷。
首には、黒い金属の首輪。
首輪には封印の紋様が刻まれていた。
小さな魔力さえ動かそうとすれば、青白い火花が走り、全身の力が抜ける。
何度か、氷を作ろうとした。
指先へ、わずかな冷気を集めようとした。
だが、そのたびに首輪が光る。
痛みは鋭くない。
冷たい。
冷たすぎて、痛みと呼べるものさえ奪っていく。
指先に生まれた小さな霜は、すぐに消えた。
イレーネは、その霜が消えるまで見つめていた。
鎧は傷ついていた。
肩当てには、タイガフォレストで受けた爪痕。
胸元には、ホワイトフィールドの触手が残した黒い汚れ。
外套は失われ、白銀の鎧の隙間へ、地下の冷気が容赦なく入り込む。
けれど、寒いとは言わなかった。
言葉にすれば、その寒さが自分の中へ入り込んでしまう気がした。
独房の外。
石の台の上に、水のティアラが置かれていた。
それだけが、氷の世界の中でわずかに光っている。
だが、その光はイレーネへ届かない。
鉄格子。
鎖。
首輪。
冷たい床。
そのすべてが、ティアラと彼女の間に横たわっている。
あれはロアーナの守りだった。
氷原を越えてきた民の希望だった。
自分が何度も剣を抜いた理由だった。
なのに今は、ただ遠い。
イレーネは目を閉じた。
イヴァンは生きているだろうか。
親衛隊は。
マクシムは、帰る場所を守れているだろうか。
思い浮かぶ顔が、ひとつずつ白い霧の中へ消えそうになる。
その時。
廊下の奥から、足音がした。
氷の床を踏む音。
ゆっくりと。
一定の速さで。
迷いなく近づいてくる。
暗黒の姫騎士が、独房の前に立った。
仮面の奥は見えない。
けれど、イレーネは顔を上げた。
彼女は、もう目を逸らさなかった。
暗黒の姫騎士は、石の台に置かれた水のティアラを手に取る。
ティアラが、黒い手袋の上で弱く瞬いた。
「部下を庇いすぎたな」
イレーネは答えない。
「一見冷たいが、お前は誰より情に脆い」
氷河が、遠くで軋む。
ぐ、ぐ、と。
壁の中の氷が、ゆっくり割れる。
「それがお前の敗因だ、イレーネ」
イレーネの指が、鎖を握り、口を開いた。
「殺せ」
短く言い放つ。
鉄が冷たい。
指先の感覚は、ほとんど残っていない。
それでも、握る。
「お前は殺さん。お前の部下たちもな。互いの命を案じる限り、お前たちは勝手な真似もできまい」
「卑劣!」
「これは試合ではない。勝った方が正義となる」
暗黒の姫騎士が薄く笑ったような気がした。
「ティアラはこちらで預かる」
暗黒の姫騎士は、首輪へ目を向けた。
「お前の力も、もう使えない」
イレーネは、静かに息を吸った。
白い吐息が、すぐに霧となって消える。
「……私が剣を置いたのは」
声は、少し掠れていた。
けれど、震えてはいなかった。
「負けたからじゃない」
暗黒の姫騎士は、動かなかった。
「みんなを、生かすため」
イレーネは、青いティアラを見つめる。
「その選択を、後悔はしない」
長い沈黙が落ちた。
コキュートス島の地下で。
氷の壁が、また低く軋む。
暗黒の姫騎士はしばらく、イレーネを見ていた。
やがて、低い声で言った。
「諦めろ」
「……」
「お前は負けたのだ」
イレーネは、返事をしなかった。
ただ、目を伏せた。
泣かなかった。
怒鳴らなかった。
鎖を引きちぎろうとも、しなかった。
けれど、その沈黙は、折れた者の沈黙ではない。
自分が守った命を、胸の中で数えている者の沈黙だった。
暗黒の姫騎士は背を向ける。
鉄扉が閉まる。
重い音が、冷たい廊下へ響いた。
その音は、氷河の奥まで届いたように思えた。
再び、独房は静かになる。
青白い魔導灯。
凍った石床。
壁に繋がれた鎖。
遠くの海。
遠くの空。
遠くのロアーナ。
すべてが、氷の向こう側にあった。
水の姫騎士は、誰にも届かない冷気の中に残された。
それでも、目を閉じる直前。
イレーネは、ほんの少しだけ唇を動かした。
「……生きて」
それは、イヴァンへ。
マクシムへ。
名も知らない兵たちへ。
そして、自分自身へ向けた命令だった。
氷の島の地下で、蒼き姫騎士の光は奪われた。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、ロアーナは陥落した。
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