第10話「凍てつく白き戦場」
タイガフォレスト。
ロアーナ北方の針葉樹林は、冬になれば白い迷宮になる。
高い木々の枝には雪が積もり、風が吹くたびに白い粉が降る。
昼でも暗い。
道は細く、見通しは悪い。
イレーネは、少数の親衛隊を連れて森を進んでいた。
前を行くのはイヴァン。
後ろを守るのはマクシム。
いつもの配置だった。
「静かっすね」
イヴァンが言う。
「静かすぎる」
イレーネは短く返した。
雪を踏む音。
馬の鼻息。
木々が軋む音。
それ以外は、何もない。
その時、左側の森で枝が折れた。
「伏せて!」
イレーネが叫ぶ。
次の瞬間、黒い影が飛び出した。
豹に似たエボルモンスター。
だが、身体の半分が甲殻に覆われ、尾の先には鋭い骨の刃が生えている。
怪物はイレーネを無視した。
まっすぐ、イヴァンへ飛ぶ。
「俺?」
イヴァンが槍を構える。
だが、怪物の速度が速すぎる。
その前へ、イレーネが入った。
剣が、怪物の爪を受ける。
火花ではなく、氷の欠片が散った。
「下がって」
イレーネは怪物を斬り伏せる。
だが、すぐに別の影が木々の間から飛び出す。
今度はマクシムへ。
「マクシム!」
彼は剣で受けた。
しかし、怪物の重さに押され、雪へ膝をつく。
イレーネが走る。
「アイスランス」
氷槍が、怪物の肩を貫く。
マクシムの前へ倒れる巨体。
その背後から、さらに二体。
いや、三体。
四体。
怪物たちは、イレーネを避ける。
彼女の隣をすり抜け、イヴァンとマクシムだけを狙ってくる。
「姫様、こいつら!」
「分かってる」
イレーネの表情が、僅かに硬くなる。
敵は自分へ来ない。
自分の剣の届かない場所を、選んでいる。
イヴァンが後方へ跳ぶ。
「俺、結構人気者っすね!」
「喋るな!」
イレーネの声が飛ぶ。
怪物の尾が、イヴァンの肩を掠めた。
血が散る。
イレーネは、迷わず間へ入った。
自分の肩へ、別の怪物の爪が食い込む。
「姫様!」
マクシムの叫び。
「大丈夫」
イレーネは短く言った。
だが、鎧の肩当てが割れ、血が雪へ落ちている。
怪物たちはさらに襲いかかる。
イレーネは、一歩も退かなかった。
「……ブリザードレイン」
空気が、変わった。
森の上に、蒼い雲が生まれる。
次の瞬間、氷の雨が降った。
細く鋭い氷の粒が、怪物たちの身体へ突き刺さる。
木々が凍る。
雪が、さらに深く白くなる。
エボルモンスターたちは動きを止め、氷の彫像のように倒れた。
静寂が戻る。
イレーネは剣を下ろした。
そのまま、一歩だけよろめく。
マクシムが駆け寄り、身体を支えた。
「姫様」
「平気」
「平気ではありません」
イヴァンも、肩の傷を押さえながら近づく。
「俺たちのために、また傷を」
「気にしないで」
イレーネは、二人を見る。
「二人が生きているなら、それでいい」
マクシムは、唇を噛んだ。
「申し訳ありません」
「謝らないで」
「ですが、私たちが弱いばかりに」
「違う」
イレーネは、少しだけ強く言った。
「敵が、そうさせた」
彼女は凍りついた怪物たちを見る。
黒い瘴気が、氷の中でゆっくりと揺れている。
「次から、もっと近くにいて」
その言葉を聞いたマクシムは、胸の奥が痛くなった。
近くにいればいい。
もっと強くなればいい。
そう思うのに。
結局、姫様は自分たちを庇うのだ。
* * *
ホワイトフィールドは、ロアーナ中部に広がる大氷原だった。
見渡す限り、白。
雪。
氷。
空。
地平線の向こうまで、何もない。
そこへ帝国軍が押し寄せた。
歩兵。
騎兵。
魔導砲。
エボルモンスター。
黒い軍勢は、白い大地を埋め尽くしていた。
「防衛線、第三列まで突破されました!」
「西側の部隊が後退しています!」
「東の丘でも、帝国の旗が!」
ロアーナ軍は、数で押されていた。
イレーネは、前線中央に立っている。
剣には氷。
頬には、いつついたのか分からない小さな傷。
後ろには、疲れ切った兵士たち。
前には、終わりの見えない敵。
「姫様!」
イヴァンの声がした。
左側。
帝国の大型エボルモンスターが、イヴァンの部隊へ突っ込んでいる。
右側。
マクシムのいる防衛線へ、魔導砲の集中砲火が向けられている。
二人が、別々の場所で追い詰められていた。
イレーネは、歯を食いしばる。
マクシムの声。
「こちらも、持ちません!」
どちらへ行く。
どちらを助ける。
選べない。
「……両方」
イレーネは呟いた。
次の瞬間、彼女は走った。
まず左。
イヴァンの前へ滑り込む。
「清流剣・受け流し」
大型エボルモンスターの突進を逸らす。
巨体が横へ流れ、雪原を大きく抉った。
「アイスランス!」
氷槍が、怪物の脚を貫く。
イヴァンが槍を突き出し、怪物の喉へ一撃を入れる。
「ひゅ~助かりました!」
「右へ行く!」
返事を待たず、イレーネは走る。
だが、右側へ向かう途中で、地面の下から黒い触手が伸びた。
雪を割って現れたそれは、巨大な軟体型エボルモンスターの腕だった。
一本。
二本。
三本。
触手が、イレーネの足と腕へ絡みつく。
「……っ!」
魔力が吸われる。
ティアラの魔力の光が、激しく明滅した。
触手の先端には黒い穴があり、そこから冷たい瘴気が流れ込んでくる。
イレーネは剣を振るう。
一本を断つ。
だが、別の触手が腰へ巻きつく。
身体が引かれる。
「姫様!」
マクシムの声。
轟音。
防壁が砕け、飛び散った氷と石の破片が、マクシムの脇腹を裂いた。
「……っ!」
彼は膝をつきながらも、剣を支えに立ち上がる。
かなりの深手だったが、イレーネを援護しようと、マクシムは歩を進める。
遠い。
イヴァンも、別方向から追いつこうとしている。
間に合わない。
イレーネは、触手に引かれながら二人を見る。
自分が倒れれば、二人が来る。
二人が来れば、敵は二人を狙う。
なら。
「下がって」
イレーネの声は、吹雪の中へ消えそうだった。
「二人とも、下がって」
「できません!」
マクシムが叫ぶ。
「あなたを置いてなど――!」
「命令」
その一言に、マクシムの足が止まった。
イレーネは、ティアラへ手を伸ばす。
ティアラが、彼女の指へ触れた。
冷たい。
けれど、その奥には深い水のような力がある。
「……私が、止める」
魔力が、一気に溢れた。
ティアラが眩い蒼光を放つ。
空が暗くなる。
白い雲が、氷原の上に集まる。
風が止まった。
次の瞬間。
「アブソリュート・ゼロ!」
空から、氷の嵐が降り注いだ。
雨ではない。
雪でもない。
絶対零度の氷の嵐だった。
全てが凍る。
帝国兵。
魔導砲。
エボルモンスター。
黒い軍勢を、白い大地ごと凍らせていく。
地平線の彼方まで。
氷の嵐が、止まらない。
「姫様!」
イヴァンが叫ぶ。
だが、声は氷嵐へ呑まれる。
触手の怪物も、凍りついた。
イレーネの身体を締めつけていた腕が、氷の塊となって砕ける。
彼女は雪原へ落ちた。
剣を握ったまま。
ティアラの光だけを、最後まで放ちながら。
* * *
目を覚ました時、天井があった。
白い布。
揺れる灯り。
薬の匂い。
「……ここは」
「後方の野営地です」
マクシムの声だった。
彼は寝台の傍らに座っていた。
目の下に、深い隈がある。
イヴァンは少し離れた場所で、包帯を巻かれた肩を押さえていた。
「三日、眠っていました」
イレーネは目を閉じる。
三日。
「敵は」
「ホワイトフィールドの軍勢は、退いたっす」
イヴァンが答えた。
「姫様のおかげっす」
「……みんなは」
「生きています」
マクシムの声が、少しだけ震えた。
イレーネは、ゆっくり息を吐いた。
「よかった」
その直後、ティアラが鈍く光った。
青い光は不安定に揺れ、すぐに消える。
イレーネは眉を寄せた。
「安定してない」
「無理をしすぎたんです」
マクシムが言う。
「ティアラの魔力が暴発したんです。今のままで、次に同じ規模の戦いになれば――」
「分かってる」
イレーネは短く答えた。
視線を天井へ向ける。
「……ティアラを完全体にしたい」
マクシムとイヴァンが、顔を上げた。
「時間が、ない」
ロアーナに残された古い研究記録には、ひとつの場所が記されていた。
氷河湖の中央に浮かぶ島。
その島の地下にある、クリスタルティア迷宮。
水のティアラを完全体へ導く、魔水晶のかけら。
それが、そこに眠っている。
* * *
出発の日。
マクシムは、鎧を着ていた。
ホワイトフィールドで負った傷は、まだ深い。
脇腹には包帯が巻かれ、歩くたびに顔色が変わる。
それでも、彼は剣を帯びていた。
「私も行きます」
イレーネは、答えなかった。
氷河湖へ向かうための小さな船が、岸辺に用意されている。
風は冷たい。
湖面は厚い氷に覆われ、その中央に、白い島が浮かんでいた。
クリスタルティア迷宮の入口がある島。
「姫様」
マクシムが、もう一度言う。
「私は戦えます」
「戦えない」
「戦えます」
「無理」
イレーネの声は、静かだった。
けれど、否定の余地がなかった。
マクシムは拳を握る。
「……また、守られるだけですか」
風が吹く。
氷の湖面を、雪が横へ流れる。
イレーネはすぐに答えなかった。
やがて、マクシムの前へ一歩近づく。
「違う」
彼女は言った。
「私たちの帰る場所を、あなたが守る役」
マクシムが顔を上げる。
「信頼していなければ、それは託せない」
彼は、言葉を失った。
イレーネは視線を逸らす。
「……戻ってくる」
それだけ言って、船へ乗った。
イヴァンと、少数の親衛隊が続く。
マクシムは岸に立ったまま、船を見送った。
雪が降る。
白い湖。
遠ざかる蒼い髪。
彼は、何もできなかった。
ただ、握った拳から血が滲むほど、指を強く握りしめた。
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