第9話「永久凍土の守護神」
戦いの後、フロストウォールの外には凍りついた静けさが残った。
血はすぐに固まり、黒い染みになって雪へ沈む。
折れた槍。
砕けた魔導弩。
氷の中へ閉じ込められた怪物の爪。
兵士たちは、黙ってそれらを片づけていた。
「北側、負傷者三名。命に別状なし」
「東門の民は、全員避難済みです」
「よし」
マクシムが短く返す。
イレーネは、城壁の下で剣を拭っていた。
ティアラの光はまだ穏やかだった。
イヴァンが、毛皮の襟についた雪を払って近づく。
「いやあ、今日も綺麗に決まりましたね」
「何が」
「氷槍ですよ。あと、俺の援護」
「後者は違う」
「ひどい」
イヴァンが笑う。
イレーネは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その時、マクシムが近づいてきた。
「姫様」
「何」
「腕を」
言われて、イレーネは自分の左腕を見た。
鎧の隙間に、小さな裂け目がある。
いつできた傷か、自分でも覚えていなかった。
「これくらい」
「放置する傷ではありません」
「大丈夫」
「大丈夫ではありません」
マクシムの声は静かだった。
だが、その静かさの奥に焦りがあった。
イレーネは一度だけ目を伏せる。
「……分かった」
マクシムが持ってきた布を受け取る。
傷は浅い。
けれど、血は確かに出ている。
イレーネが傷を隠そうとするたび、彼はそれに気づく。
それが少しだけ、困る。
「姫様」
マクシムが低く言った。
「あなた一人で、すべてを受ける必要はありません」
「受けてない」
「受けています」
「……」
「私たちにも、守らせてください」
吹雪の中で、イレーネは返事をしなかった。
やがて、少しだけ視線を逸らす。
「あなたたちは、もう十分やってる」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
マクシムは、その背中を見送る。
手袋の下で、拳を強く握った。
* * *
ロアーナは、それからも何度も帝国軍を退けた。
帝国が占拠した魔鉱石採掘場を奪還した。
北部の村を襲ったエボルモンスターを討った。
氷結した街道に置かれた帝国の魔導砲を、雪崩と氷壁で封じた。
イレーネが前へ出れば、敵は止まった。
蒼い剣が振るわれるたび、進軍は凍った。
民は彼女をこう呼んだ。
永久凍土の守護神。
白い大地に立つ、蒼き姫騎士。
だが、イレーネ自身はその名を嫌った。
「守護神なんて、困る」
夜の見張り台で、彼女は小さく言った。
「まだ、その域じゃない」
「いやいや、十分その域っしょ」
イヴァンが軽く口をはさむ。
「そんなに張りつめてないで、今夜くらい食事でも」
「嫌い」
「まだ言うんすか」
イヴァンの軽口に、周囲の兵が笑う。
その笑い声の少し離れた場所で、マクシムは木剣を振っていた。
夜の訓練場。
雪が降っている。
何度も。
何度も。
木剣を振る。
手のひらの皮が裂け、血が革手袋へ滲んでいた。
それでも、止めない。
イレーネが前へ出るたび、守られる。
傷を負うたび、見ているしかない。
それが、耐えられなかった。
「……マクシム」
背後から声がした。
彼は振り返る。
イレーネが立っていた。
白い外套を羽織り、湯気の立つ杯を二つ持っている。
「姫様」
「手」
「大丈夫です」
「見せて」
「これくらい」
「見せて」
彼女の声は強くなかった。
だが、断れる声でもなかった。
マクシムは、黙って手袋を外す。
血で裂けた手のひら。
イレーネは何も言わなかった。
ただ、自分の外套の内側から新しい革手袋を取り出した。
「これ」
「……私にですか」
「サイズは合うと思う」
「いつ」
「前に見た」
マクシムは、言葉を失った。
イレーネは視線を逸らす。
「手が使えなければ、剣を握れない」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
それだけ言って、イレーネは踵を返した。
数歩進んでから、振り返らずに言う。
「明日も早い。休んで」
雪は、二人の間へ静かに積もっていった。
* * *
帝国大戦艦の司令室は、氷原とは違う冷たさを持っていた。
鉄の壁。
魔導灯。
地図の上を走る赤い光。
ロアーナ北部の採掘場と防衛線には、いくつもの印がついていた。
帝国軍の敗北を示す印だった。
「また押し返されました」
ロアーナ方面司令官グリゴールが、震える声で報告する。
「フロストウォールも、タイガフォレストも。姫騎士イレーネが出るたび、部隊が壊滅しています」
司令室の中央に立つ、黒い外套の女は何も言わなかった。
暗黒の姫騎士。
仮面の奥から、地図を見下ろしている。
「魔導砲を増やしますか、総司令」
「意味がない」
短い声が返る。
「正面から当たれば、また凍らされる」
「では、どうすれば」
暗黒の姫騎士は、地図の上に置かれた小さな駒へ指を伸ばす。
イレーネ。
その周囲に、二つの駒がある。
イヴァン。
マクシム。
「イレーネ自身には触れるな」
グリゴールが、顔を上げた。
「ですが……」
「あれは、部下を守る時、自分を捨てる」
仮面の女の指が、二つの駒をゆっくりと押した。
「狙うべきは、あの女の手が届く者たちだ」
グリゴールは、息を呑む。
「部下を……」
「庇わせろ」
声は低い。
「疲弊させろ」
地図の上の駒が、黒い指先の下で倒れる。
「無防備で出て来た時だけ、叩け」
グリゴールの口元が、わずかに歪んだ。
「了解しました」
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