第3話「大地の姫騎士、墜つ」
ライゼル王国北東部、ゴールドフィールド。
見渡す限りの麦畑を分ける街道の先で、黒い軍勢が近づいていた。
先頭を進むのは、甲殻を持つ巨大な獣たちだった。
狼の姿をしたもの。牛のような角を生やしたもの。人の形をしていながら、腕が四本に増え、背から骨の刃を突き出したもの。
黒い瘴気が、その身体の内側を脈打っている。
エボルモンスター。
ガルギア帝国が送り出した、生きた兵器。
「前衛、あと三百!」
「第二防壁へ退避させろ!」
防衛線に並んだライゼル兵たちの声は、焦りを隠せなかった。
少し前まで、遠い国の凶報だった。
イルファリアが落ちた。
エスティアが落ちた。
ロアーナが落ちた。
そして、森の国コーディアラまでもが帝国の手に渡った。
帝国は各国の資源、魔導技術、土地の力を奪い、ついにエボルモンスターの量産軍勢を完成させたという。
次に狙われるのは、誰の目にも明らかだった。
大陸の食糧庫。
豊穣の農業大国、ライゼル。
「姫様!」
防衛線の外れで、甲冑の老将ルッツフェルトが振り返った。
「ここは危険ですじゃ。王都へお戻りくだされ!」
その言葉の先に、一人の少女が立っていた。
「恐れるに足りませんわ」
おっとりとした声だった。
「ルッツフェルト、既に王都の人々はピラミッドの地下都市に避難しましたわ」
「王都ライゼルは囮。」
「ですが、南のピラミッド方面に流れて来る別動隊は、怪しまれないようさりげなく削りますわ」
淡い砂金色の髪。白銀を基調とした鎧。額には、大地を思わせる黄金のティアラ。
大地の姫騎士、アルファース。
彼女は迫る黒い軍勢を見ても、穏やかな微笑みを崩さなかった。
だが、その蒼い瞳だけが、戦場のすべてを静かに見ていた。
「では、どうなさるおつもりで」
「わたくしが囮になりますわ。まず、通信魔導機を狙って下さいね。」
「その後、その部隊には行方不明になって頂きますわ」
アルファースは剣を抜いた。
細身の剣身には、花の蔓を思わせる文様が刻まれている。
フロス・デュエラルム流――戦花剣。
守りと受け流しを極めた、ライゼル王家の剣術だった。
「皆様は、わたくしから離れてくださいませ」
彼女は一歩、前へ出る。
エボルモンスターの群れが吠えた。
先頭の狼型が、大地を抉りながら突進する。
アルファースは、剣先をゆるやかに下げた。
「ポルタ・ディ・フェッロ」
狼型エボルモンスターが弾けた。
堅牢な鉄壁にでも突っ込んだかのようであった。
怪物の勢いが鈍った。
が、すぐ立ち直り、何度も体当たりを試み、その都度アルファースは剣で弾き返す。
力を使っているようには見えない。技術で力の方向をそらしていた。
やがてエボルモンスターたちが群がり、一斉攻撃を仕掛ける。
アルファースは退かなかった。
剣と腕を胸の前で交差させる。
「インクロサーレ」
振り下ろされた攻撃を、剣身が受ける。
衝撃は重い。
けれどアルファースは真正面から押し返そうとはしない。
腕を軸に剣を滑らせ、力を下へ逃がす。
攻撃は地面へ逸れ、大きく沈んだ。
「姫様!敵通信網遮断しました。今ですじゃ!」
老将が叫ぶ。
アルファースは穏やかに微笑んだ。
「さて、では全滅してくださいね」
「アースクラック」
大地が鳴った。
地面に亀裂が走る。
割れ目は敵軍の真下で広がり、エボルモンスターたちをまとめて飲み込んだ。
甲殻の獣たちは足を取られ、後続とぶつかり合って動きを止める。
「魔導弩、撃て!」
ライゼル軍の矢が、乱れた敵列へ降り注ぐ。
だが、後方から巨大な人型のエボルモンスターが現れた。
肩までを岩のような皮膚で覆い、両腕には鉄柱ほどの棘を生やしている。
怪物は亀裂を飛び越え、防衛線へ拳を振り下ろした。
「姫様!」
兵士たちが身構える。
しかし、その瞬間には、アルファースはもう懐へ潜り込んでいた。
「ディスアルマーレ」
剣先が、怪物の腕の内側を払う。
骨の棘が根元から外れ、土へ突き刺さった。
怪物は怒りの咆哮を上げる。
「これで終わりですわ、ストーンバレット!」
岩の弾丸が巨大なエボルモンスターを穿つ。
巨体が膝をつく。ダメ押しの岩の追撃が上から下へ、容赦無く潰した。
アルファースは最後まで穏やかな笑みを絶やさなかった。
ライゼル兵たちは、息を呑んだ。
自国の姫騎士の実力を初めて目の当たりにした者がほとんどだったのである。
* * *
戦いが終わる頃には、午後の陽が麦を金色に染めていた。
「姫様。敵の魔導通信から、情報を得ました」
老将は続ける。
「各国を落とした暗黒の姫騎士が前線に到着、指揮を取るそうですじゃ。」
アルファースの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
「……なるほど、暗黒の姫騎士。何者かは存じ上げませんが、かなりの切れ者」
蒼い瞳が細くなる。
「これは厄介ですわね」
彼女は、傍らに控えていた侍女を見た。
黒髪を後ろでまとめた、端正な顔立ちの女性。
白と黒のメイド服を身につけ、その太腿には細身のクナイが収められている。
アルファースの侍女、シェーラザード。
通称、シェーラ。
「シェーラ。先手を打たなければなりませんわね」
「はい、姫様」
シェーラは優雅に一礼した。
その微笑みは柔らかい。
だが、彼女の指先はすでに、腰のクナイへ触れていた。
* * *
その夜。
砂漠のピラミッド地下都市に潜伏したライゼル軍。司令部には、重臣たちが集められていた。
魔導機の大きな画面には、占領された王都ライゼルの様子が映し出されていた。
「帝国はすでに世界の半分をその版図としております」
「そして、ゆくゆくは全世界制覇を狙っております!」
「最早、その実現が目前と言えるでしょう。」
「もう打つ手無しなのでは……」
次々に上がる声を、アルファースは静かに聞いていた。
やがて、ゆっくりと席を立つ。
「皆様。このまま王都を捨てるつもりはございませんわ」
「ミッドベルンと連携を試みます。それが叶えば状況はひっくり返りますわ」
「セリア様と合流いたします」
ざわめきが起こった。
「あの最強とうたわれる、聖なる姫騎士と……?」
「はい。ミッドベルンとライゼルが手を結べば、帝国の進軍を止める道が生まれますわ」
だが、アルファースは続けた。
「ただし、問題は暗黒の姫騎士。その目を欺き、包囲網を突破しなければなりません。」
「勿論、正面から帝国軍とぶつかることもいたしません」
「では、どうなさるのですか」
アルファースは、壁にかけられた大陸地図へ目を向けた。
ライゼルの東には、熱砂砂漠。
そのさらに先には浮遊岩の荒野。
そして険しいエルディーン山脈を越えれば、軍事大国ミッドベルンへ至る。
アルファースは、地図の上を細い指でなぞった。
「帝国には、わたくしが怯えて国を捨てたと思わせましょう」
「亡命を、偽装なさると?」
「ええ。哀れなお姫様が、わずかな従者と逃げ出した――そう思わせるのが一番ですわ」
おっとりとした声だった。
けれど、そこには迷いがなかった。
「今から、このティアラの魔水晶を使って、古代遺構の防衛装置を起動させますわ。」
「蜃気楼の幻術が作動し、ピラミッドの位置を補足されないようにできます」
「そして、その機能を攻撃にも流用します。ゲリラ戦法ですわ」
「要所、要所で帝国軍を牽制致しましょう」
「私が不在の間は、ルッツフェルト将軍に指揮をお任せしますわ」
「王都はしばらく帝国に預けます。備蓄した食糧を小さく分け、避難民へ分配を。畑を燃やされぬよう、ゲリラ部隊で牽制下さいませ」
「姫様……」
「ライゼルの豊かさは、王城の中にはありませんわ」
アルファースは言った。
「土を耕す民の手の中にあります」
* * *
アルファースとシェーラ、ルッツフェルトは、夜明け前にピラミッドの内部へ向かった。
石の回廊には、古代文字が刻まれている。
侵入者を惑わせる罠。
砂塵を吹き上げる石像。
足元の重さを狂わせる不思議な床。
様々な防衛機構を突破する。
アルファースは、一度も道を間違えなかった。もう何度も通った道。
やがて三人は、最奥の部屋へたどり着いた。
知恵の間。
そこには、光を失った水晶の柱が並んでいた。
中央の祭壇にアルファースが近づく。
大地のティアラから魔水晶を取り出し、祭壇の魔動機端末にはめ込んだ。
部屋を満たしていた空気が、音もなく変わった。
眠っていた機能が立ち上がる。
祭壇から淡い光が広がり、アルファースを包んだ。
大地の下を走る地脈。
人の心に宿る魔力の流れ。
古代文明が遺した防衛装置の仕組み。
ティアラが守護者と共鳴し、力を増幅する理由。
そして、そのさらに奥に。
世界は一つではないという事実。
無数の可能性が、見えない場所で枝分かれている光景。
そのすべてが、言葉ではなく理解として流れ込んできた。
アルファースは、目を閉じて受け取った。
一方、シェーラとルッツフェルトの前には、別の光が浮かんでいた。
蜃気楼を維持するための魔力配分。
防衛装置の操作手順。
敵軍の接近を知らせる表示。
「なるほど……防衛機構を動かすための知識だけ、渡されたようですわね」
シェーラが、静かに息を吐く。
「ちと頭が重うございますが、これなら操作はできますな」
ルッツフェルトも頷いた。
「それで十分ですわ」
古代の叡智のすべてを受け取れるのは、守護者に選ばれたアルファースだけだった。
「これで二人ともピラミッドの防衛機能を制御できますわね」
アルファースは微笑んだ。
けれど、その笑みの奥には、先ほどまでとは違う重さがあった。
「これらの機能を駆使すれば、帝国の軍勢を正面から止めることはできます」
「では」
「でも、それではライゼルが戦場になり、民が犠牲になりますわ」
アルファースはピラミッドの外、砂漠の先を見た。
「ですから、別の盤面を選びます」
* * *
翌日、アルファースとシェーラは、王都西区にある豪奢な邸宅を訪れた。
旅装に身を包んではいたが、屋敷の主は二人を待ち構えていた。
「これはこれは。わが国の美しい姫君ではありませんか」
何重もの絹をまとった男だった。
太った身体を揺らし、指には宝石の指輪をいくつもはめている。
ライゼル砂漠地帯を支配する大商人、大地主。
ハシム。
脂ぎった笑みを浮かべ、ハシムは深々と頭を下げた。
「お困りのご様子でしたら、このハシムが手をお貸しいたしましょう」
アルファースが答えるより早く、シェーラが一歩前へ出た。
「ご厚意、感謝いたします」
「おお、侍女殿。話が早くて助かりますな」
「ですが、姫様はご多忙です。条件の話は、まずわたくしが伺いましょう」
ハシムの目が、シェーラへ向く。
そこには、善意とは別の色があった。
シェーラは笑みを崩さない。
「商隊へ紛れ、東への街道を抜ける。その程度のことでしたら、あなた様にも利益があるはずですわ」
「……利益?」
「帝国の検問を越えた商隊が、いずれどこへ向かうか。将来の取引先を考えれば、お分かりでしょう?」
ハシムは、目を細めた。
シェーラは続ける。
「姫様の所在を守ること。護衛を増やさないこと。移動経路を他者へ売らないこと。これらを契約書に記しなさいませ」
「注文が多いですな」
「あなた様の条件も、伺いますわ」
「条件は一つですな」
ハシムは、ゆっくりとアルファースへ視線を向けた。
「姫様には、わしの庇護を受けていただきたい。商隊の護衛も、行き先も、このハシムが責任を持ってお守りいたします」
その目が求めているものは、商隊の利益でも、護衛料でもなかった。
亡命中のアルファースを、自らの庇護の下へ置くこと。
つまり、その行き先も身柄も、自分のものにすることだった。
「名目上の庇護、ということにいたしましょう」
シェーラは、微笑みを崩さずに答えた。
「ただし、姫様の行動を制限しないこと。行き先を第三者へ漏らさないこと。契約に背けば、あなた様は商隊も領地も失う――その条件を、書面へ記していただきますわ」
シェーラの声は柔らかい。
だが、逃げ道はなかった。
ハシムは、自分が交渉を握っていると思いながら、いつの間にか彼女の定めた席へ座らされていた。
* * *
夜。
ハシム邸、サンドパレス。
豪奢な廊下を、シェーラが静かに歩いてきた。
彼女の手には、封蝋の押された契約書がある。
部屋で待っていたアルファースは、すぐに立ち上がった。
「シェーラ」
「移送の件、まとまりましたわ」
シェーラは、いつも通りの笑みを浮かべた。
「明朝より、商隊へ加わります」
「……あの方は、あなたへ不当なことを求めたのでしょう」
シェーラの笑みが、少しだけ止まった。
「姫様」
「わたくしを守るために、あなたが何かを差し出す必要はありませんわ」
「必要ではありません」
シェーラは穏やかに答えた。
「ですが、手札にできるものは使います。わたくしは姫様の侍女ですもの」
「シェーラ」
「ご心配なく」
彼女は、胸へ手を当てて一礼する。
「わたくしはニンジャですので」
アルファースは何も言えなかった。
シェーラは、契約書を机へ置く。
そこに書かれているのは、アルファースが名目上ハシムの庇護下に置かれるという条件だった。
さらに、シェーラはハシムの身辺を補佐する侍女として同行する――そんな付帯条件も記されていた。
けれど、その一文の裏には、シェーラが仕込んだ条項もある。
商隊の行き先を帝国へ漏らせば、ハシムの全財産を没収できる条項。
帝国の検問へ協力すれば、彼の領地の水利権を失わせる条項。
どちらが誰を利用しているのか。
それを、ハシムは快く思っていない。
だが、シェーラの話術にいつも丸め込まれる。
ハシムは思案した。どうすれば、この手に出来る?
目的のアルファースを。
打開策を得る為、とりあえずハシム自身も商隊に参加する事にした。
* * *
商隊は、熱砂砂漠を進んだ。
アルファースは目立たぬ旅装へ着替え、ティアラを布で隠した。
怯えて逃げる貴族の娘。
それが、帝国の目に映る彼女の姿だった。
だが、夜になればアルファースは地図を広げ、星と地脈を照らし合わせた。
帝国軍の巡回路。
水場の位置。
浮遊岩の荒野へ通じる、使われなくなった旧街道。
シェーラは、護衛の背後へ紛れ、見張りを眠らせ、砂に残る足跡を消した。
「土遁」
砂丘が静かに崩れ、商隊の進んだ跡を覆い隠す。
「風遁」
夜風が砂を巻き上げ、追跡者の視界を奪う。
帝国の包囲網は、何度も空を掴んだ。
暗黒の姫騎士は焦っていた。
王都はあっけなく占拠出来たものの、国民の姿は無く、要所で抵抗を食らい、思うような支配が出来ない。
そして、アルファースを捕獲出来ず、もしミッドベルンと連携でもされれば…
いくらアルファースが非力な姫と言えど、今の情勢がひっくり返されてしまうだろう。
しかし、今のところ、地道に捜索するしかなかった。
一方、ハシムも焦っていた。
このままミッドベルンへ到着してしまえば、契約は完全にシェーラたちの勝ちとなる。
アルファースは、もう自分の庇護の下には置けない。
その後ろ盾も、行き先も、手の届かないものになってしまう。
一か八か、アルファースへ直談判した。
だが、当然、拒否された。
「かくなる上は……」
ハシムは帝国の密偵へ、商隊の経路と、そこに大地の姫騎士がいることを売った。
欲望が渦巻き、血走った目がぎらついた。
* * *
順調に歩を進めるアルファース一行。
だが、浮遊岩の荒野で、予定外のことが起きた。
検問所。
帝国兵たちは、通行人を一人ずつ止めていた。
特に女性の旅人へ、異様なほど執拗に身元を問いただしている。
「おかしいですわね」
シェーラが小さく呟く。
「姫様を探しているのでしょう」
アルファースは、荷馬車の陰から検問を見た。
「ティアラは外してあります。わたくしたちは、ただの商隊ですわ」
その時だった。
帝国兵の一人が、商隊の若い娘の腕を掴んだ。
「隠している物を出せ」
「何も持っていません!」
「なら、調べるまでだ」
娘が怯え、後ずさる。
アルファースの指が、荷馬車の縁を掴んだ。
駄目だ。
目立てば、計画は崩れる。
ミッドベルンへ着けば、セリアと合流できる。
ここで戦えば、すべてを失う可能性がある。
分かっている。
けれど。
「手を、放しなさい」
アルファースの声が、荒野へ響いた。
ハシムの欲望をぶつけられ、少し熱くなっていたのもあるだろう。
だが、ここまでくれば、強行軍で逃げ切れる計算もあった。
帝国兵が振り返る。
「何だ、貴様は」
布の下で、大地のティアラが光った。
隠していたはずの光が、布を通して溢れ出す。
ティアラは、主人の感情の高ぶりを反映するかのごとく起動した。
大地が震える。
「ロックフォートレス」
岩壁がせり上がり、帝国兵と娘の間を分けた。
次の瞬間、アルファースの足元から黄金の亀裂が走る。
「アースクラック」
検問所の地面が割れ、魔導弩と制御端末を飲み込んだ。
帝国兵たちが叫ぶ。
エボルモンスターが襲いかかる。
だが、シェーラはすでに前へ出ていた。
「水遁」
足元へ水流が走り、敵の体勢を崩す。
「火遁」
炎が、怪物を焼き尽くす。
水と炎を派手に操り、帝国兵の視界を奪う。
最後に、シェーラはクナイを抜いた。
戦いは長く続かなかった。
検問所を守っていた兵は倒れ、制御を失ったエボルモンスターは砂漠の外へ逃げ去った。
静けさが戻る。
アルファースは、崩れた検問所を見ていた。
「……こうなっては仕方ありませんわね」
シェーラが、穏やかに言った。
「すぐに帝国へ伝わります」
「ええ」
アルファースは頷く。
「急ぎましょう。エルディーン山脈まで、あと少しですわ」
* * *
その報告を聞いた暗黒の姫騎士は、現場に急行。
しばらく言葉を失った。
浮遊岩の荒野。
砂に埋もれた検問所。
砕けた魔導端末。
岩壁に挟まれ、潰れたエボルモンスター。
彼女は、崩れた地面に触れた。
残された大地の魔力が、指先へ冷たく伝わる。
「……騙された」
短い声だった。
側にいた帝国将校が息を呑む。
「姫騎士は、ただ逃げているだけではないのですか」
「違う」
暗黒の姫騎士は立ち上がる。
「最初から、こちらを誘導していた」
ゴールドフィールドで敵軍を止め、王都を明け渡し、ピラミッドへ先回りした。
帝国の監視網を避け、商隊へ紛れ、セリアのいるミッドベルンへ向かっている。
あの穏やかな姫騎士は。
最初から、帝国の次の手まで読んでいた。
「……まずいな。時間が無い」
暗黒の姫騎士は、遠くの山脈を見た。
エルディーン山脈。
そこを越えられれば、聖なる姫騎士セリアとの合流が現実になる。
炎、水、風を奪った。
だが、大地と聖が並べば、帝国の優勢は崩れる。
「伝令! ハシムという商人から密告です!」
「商隊の経路と、そこに大地の姫騎士がいることが判明しました!」
「ぎりぎりだったな。何とかなりそうだ」
将校が顔を上げた。
「では、いかがなさいます」
暗黒の姫騎士の声は、低かった。
「守るものを、戦場へ出す」
* * *
浮遊岩の荒野を抜けた先。
空中に浮かぶ巨大な岩塊の向こうに、エルディーン山脈の白い峰が見えていた。
あと少し。
あの山を越えれば、ミッドベルンへの道が開く。
アルファースは、馬車の中で目を閉じていた。
疲れてはいない。
けれど、知恵の間で得た知識の重みが、心の奥に残っていた。
未来は、一つではない。
けれど、選べる道には必ず代償がある。
「姫様」
シェーラの声がした。
「前方に、帝国軍です」
馬車が止まる。
アルファースは外へ出た。
ハシムも転がり出て、走り出す。
そして、街道を塞ぐ黒い軍勢に紛れる。
「ハシム!契約を違えましたわね!」
シェーラが叫んだ。
そして、帝国の軍勢、その前には。
縄で繋がれた人々がいた。
農民。
避難民。
王都から連れ出された従者たち。
泣く子供。
支え合う老人。
その首元へ、エボルモンスターの爪が突きつけられている。
「……」
アルファースの表情から、微笑みが消えた。
軍勢の中央に、暗黒の姫騎士が立っていた。
「ここまでだ、アルファース」
風が止まる。
「あなたが、暗黒の姫騎士…一体何者ですの?」
「私の詮索より、今はお前にとってもっと重要な事があると思うのだがな」
暗黒の姫騎士は、捕らえられた人々を指した。
「お前がその山脈を越えるのが先か」
黒い剣が、一人の農夫の首元へ向く。
「この者たちの命が尽きるのが先か。試してみるか?」
「おやめなさい」
アルファースの声は、初めて硬かった。
「彼らは、あなた方の敵ではありませんわ」
「使えるものは何でも使う…ここは戦場だ」
暗黒の姫騎士は言った。
「さあどうする?」
「今すぐ皆さんを解放して差し上げて」
「条件を出そう」
暗黒の姫騎士は、黒い剣をわずかに下ろした。
「ティアラを外し、抵抗をやめろ。そうすれば、この者たちは生かして解放する」
「帝国の言葉を、信じろと?」
「信じる必要はない」
仮面の奥の声は、冷たかった。
「だが、お前が山脈へ進めば、この者たちは死ぬ。ここで剣を置けば、生きる。それだけだ」
シェーラが、すぐにクナイへ手を伸ばした。
目が、敵の配置を数える。
人質の数。
兵の数。
エボルモンスターの位置。
水場。
岩場。
救出できる可能性。
だが、同時に。
人質の足元には、黒い魔導杭が打ち込まれていた。
下手に動けば、瘴気の針が一斉に放たれる。
「姫様」
シェーラの声が、わずかに揺れる。
「わたくしが――」
「いけません」
アルファースは、静かに首を振った。
「ルッツフェルトと共に、後はお願いしますわ。」
「しかし……!」
「シェーラ」
アルファースは、彼女を見た。
その目には恐怖があった。
悔しさもあった。
それでも、誰一人切り捨てないという意思があった。
「まずは、ルッツフェルトと合流を」
「姫様」
「あなたになら、未来を託せますわ」
シェーラは唇を噛んだ。
何かを言おうとして。
けれど最後には、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
次の瞬間、シェーラの姿が砂煙の中へ消えた。
帝国兵が叫ぶ。
「侍女が逃げた!」
「追え!」
「追うな」
暗黒の姫騎士の声が、兵士たちを止めた。
「今は大地の姫騎士だけを押さえる。隙を与えるな。どのような算段をしているかしれん」
彼女の目は、最初からアルファースしか見ていなかった。
「ティアラを外せ」
アルファースは、ゆっくりと額へ手を伸ばした。
大地のティアラが、淡く震える。
土の中には、まだ守れる命がある。
山の向こうには、会うべき人がいる。
シェーラも、まだ戦っている。
それでも。
ここで自分が剣を振れば、この人たちは死ぬ。
「……分かりましたわ」
アルファースは、ティアラを外した。
ティアラの光が消える。
帝国兵が駆け寄り、彼女の両手へ拘束具を嵌めた。
魔力封印の首輪。
重い鎖。
暗黒の姫騎士は、後方へ目を向けた。
「約束どおり、人質を解放する。魔導杭も抜け」
エボルモンスターの爪が、農民たちの首元から離れる。
兵士たちが縄を断った。
泣いていた子供を抱き上げた女が、何度もアルファースを振り返った。
「姫様……!」
アルファースは、拘束されながらも小さく頷いた。
「どうか、生きてくださいませ」
誰に向けた言葉だったのか。
人質へ。
逃げたシェーラへ。
それとも、自分自身へ。
答える声はなかった。
ただ、遠くの砂丘の向こうで、一瞬だけ風が強く吹いた。
* * *
タルタロスケイブは、ただの洞窟ではない。
地の底へ向かって、何層もの岩盤が穿たれている、暗黒へ続く洞窟だった。
鉱脈を掘り出すための坑道もあり、超古代の遺構を暴き出すために作られた穴もあった。
そして、最も相応しい目的。
それは、人を沈めるための場所だった。
入口から奥へ進むほど、外の光は細くなっていく。
砂漠の熱は、何層もの岩壁に遮られ、途中で死ぬ。
残るのは、湿った冷気だけだった。
天井からは地下水が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
水滴が石床を打つ音は、あまりにも規則正しく、耳から離れなかった。
岩壁には黒い苔が広がり、所々に埋め込まれた魔導灯が、弱々しい青白い光を放っている。
明るくするための光ではない。
ただ、闇の中にいる者が、自分のいる場所から逃げられないことを理解するためだけの光だった。
空気には、湿った土の匂いがあった。
錆びた鉄の匂い。
古い血と、冷えた地下水と、魔導炉の焦げたような匂い。
遠くでは、低い唸りが響いている。
ごう……。
ごう……。
地の底に埋め込まれた魔導炉が、眠り損ねた獣のように息をしていた。
その音は止まらない。
昼も夜もない地下で、時間だけがゆっくり腐っていく。
収容区画は、さらに奥にあった。
太い鉄格子。
石壁へ直接打ち込まれた鎖。
そして、魔力を吸い取るための黒い魔導杭。
大地を操る姫騎士を閉じ込めるために。
帝国は、彼女が愛した土そのものを、檻へ変えていた。
アルファースは、その石壁へ背を預けていた。
両手は頭上で鎖に繋がれている。
足首にも、重い拘束具。
首には、黒い金属の封印首輪が嵌められていた。
首輪には、細かな魔導文字が刻まれている。
彼女の魔力がわずかでも動くたび、それは鈍い光を放ち、身体の奥へ冷たい痛みを流し込んだ。
何度か、大地へ呼びかけようとした。
石壁のひびへ、小さな芽でも生まれないかと願った。
けれど、指先がかすかに震えただけだった。
土は近くにある。
岩もある。
それなのに、何一つ応えてくれない。
大地の姫騎士は、自らが最も知るはずの場所で、力を奪われていた。
鎧は、捕縛の途中で傷ついていた。
片方の肩当てには深いひびが入り、白い布地には砂と煤が残っている。
頬には浅い裂傷。
淡い砂金色の髪は乱れ、湿った前髪が頬へ張りついていた。
けれど、彼女が最も見つめられなかったのは、自分の傷ではなかった。
鉄格子の外。
石の台の上に置かれた、大地のティアラだった。
黄金の冠は、地下の青白い光を受けて、鈍く輝いている。
かつて、自分の額にあったもの。
ピラミッドの叡智を受け、大地と共鳴し、数え切れない民の命を守るために使ってきたもの。
それが今は、届かない場所にある。
細い指を伸ばしても。
鎖が、かすかに鳴るだけだった。
シェーラは、逃げ切れただろうか。
ルッツフェルトと合流できただろうか。
解放された農民たちは、無事にピラミッドへ辿り着けただろうか。
考えるほど、胸の奥が重くなる。
知恵の間で得た知識は、未来をすべて救う答えではなかった。
どれほど先を読んでも。
どれほど多くの道を知っていても。
目の前で命を盾にされた時、自分は一歩も進めなかった。
足音が近づく。
ゆっくりと。
迷いなく。
硬い靴音が、湿った石床を踏むたび、地下の闇へ深く沈んでいく。
暗黒の姫騎士が、独房の前に立った。
黒い外套の裾が、石床を静かに擦る。
その姿は、魔導灯の青白い光さえ吸い込んでいるようだった。
アルファースは顔を上げない。
暗黒の姫騎士は、格子の外に置かれたティアラを手に取った。
黄金の装飾が、黒い手袋の中で小さく震える。
「まんまと出し抜かれたぞ」
冷たい声が、独房の中に落ちた。
「蚊も殺せないふりをして、恐ろしい奴だ」
アルファースの指が、鎖を握る。
「ピラミッドを先に押さえ、帝国軍を誘導し、王都から民を逃がした」
暗黒の姫騎士は続ける。
「お前とセリアが合流していれば、世界情勢はひっくり返っていたな」
短い沈黙が落ちる。
遠くで、魔導炉が低く唸った。
ごう……。
「だが」
暗黒の姫騎士は、アルファースを見た。
「知恵に溺れ、最も低俗な欲望に足をすくわれた」
ハシムの脂ぎった笑みが、脳裏に浮かぶ。
シェーラが、いつも通りの顔で言った。
『わたくしはニンジャですので』
その笑顔の奥にあった疲れに。
自分は、本当に気づいていただろうか。
「それがお前の敗因だ、アルファース」
アルファースの唇が、かすかに震えた。
それでも、声は崩さなかった。
「……殺しなさい。覚悟はできていますわ」
「そうか。だが、ピラミッドの叡智を得ているお前を殺すわけにはいかない」
暗黒の姫騎士は、ためらわずに答えた。
「ピラミッド攻略の際は、防衛機構を解除してもらわねばな」
その言葉は、冷たい石壁よりも冷えていた。
「黙秘は通じんぞ。手段はいくらでもある」
アルファースは、しばらく何も言わなかった。
うつむいた髪の隙間から、頬に落ちた水滴が見える。
地下水なのか。
それとも、別のものなのか。
暗黒の姫騎士には、分からなかった。
「ティアラはこちらで預かる」
黒い手袋が、黄金の冠を握り込む。
「首輪も最新式だ。もう、お前の力は使えん」
地下の魔導灯が、一度だけ弱く明滅した。
「諦めろ」
暗黒の姫騎士は言った。
「お前は負けたのだ」
長い沈黙が落ちた。
アルファースは、すぐに答えられなかった。
大地を愛した少女は。
民を守るために知恵を求めた賢者は。
誰より多くの道を知りながら、最も残酷な一つの道へ追い込まれていた。
やがて、彼女は目を閉じた。
鎖を握る力が、少しだけ抜ける。
蒼い瞳に宿っていた静かな光は、深い地の底へ沈むように揺らいだ。
暗黒の姫騎士は、それ以上何も言わずに背を向けた。
鉄扉が閉じる。
重い音が、地下の収容区画全体へ響く。
その音が消えた後も。
水滴は落ち続けていた。
ぽたり。
ぽたり。
誰にも届かない地の底で。
大地の姫騎士は、奪われたティアラを見つめたまま、静かにうなだれていた。
外では、砂漠の朝が訪れている。
けれど、タルタロスケイブの底にいる彼女へ、その光は届かなかった。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、ライゼルは陥落した。
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