第8話「ロアーナの蒼き氷刃」
雪は、音を奪う。
ロアーナ北方国境、防衛要塞フロストウォール。
夜明け前の空はまだ黒く、雪原と空との境目さえ曖昧だった。
城壁の外には、白い吹雪の向こうから無数の影が近づいている。
甲殻を持つ獣。
異形の脚で雪を掻き分ける巨体。
人の形をしていながら、腕だけが異様に長い怪物。
黒い瘴気を纏ったエボルモンスターたちが、氷を踏み砕きながら要塞へ迫っていた。
「敵前衛、距離三百!」
「魔導砲、充填急げ!」
「北側斜面にも反応があります!」
兵士たちの声は、寒さで白く凍りつく。
その中で、一人の伝令兵が、雪を踏みしめながら司令台へ駆け上がった。
「急報です!」
彼は息を切らし、凍りかけた手で通信板を差し出した。
「エスティア王都、陥落!」
周囲の兵が息を呑む。
「炎の姫騎士リーザ、消息不明!」
吹雪が、より強くなったように思えた。
フロストウォールの指揮官たちは、誰もすぐに言葉を返せなかった。
エスティアは、魔法研究と魔導技術で名を馳せた国だった。
その国が落ちた。
炎の姫騎士が、消えた。
「……嘘だろ」
若い兵士が呟く。
「イルファリアに続いて、エスティアまで……」
恐怖は、音もなく広がる。
雪原へ落ちた黒い墨のように。
そんな兵たちの前へ、一人の少女が歩み出た。
白銀の鎧。
ショートカットの蒼い髪。
額には、水を湛えたような青いティアラが静かに輝いている。
その瞳は、吹雪の中でも凍らない湖のように澄んでいた。
水のティアラを受け継いだ、蒼き姫騎士、イレーネ。
「報せは、受け取った」
声は低く、静かだった。
だが、兵士たちにはそれで十分だった。
「エスティアが落ちたなら、次はロアーナだと思っている者もいる」
イレーネは城壁の外を見た。
黒い軍勢。
雪を汚す瘴気。
遥か向こうで、帝国の魔導装甲機が鈍い光を放っている。
「でも、まだここは落ちていない」
彼女は剣を抜いた。
冷たい朝の光を受け、刃が青白く輝く。
「なら、守る」
短い言葉だった。
だが、兵たちの背筋が伸びた。
イレーネは城壁の端へ立つ。
その隣に、軽い足取りで青年が現れた。
薄茶色の長髪。
少し軽薄そうな笑み。
雪の上でも変わらない、明るい声。
「イレーネ様。今夜くらいは、俺と食事でもどうっすか?」
イレーネは横目だけを向けた。
「……隊長としては信頼してる」
「お。悪くない滑り出しっすね」
「でも、人としては嫌い」
「そこまで言いますぅ?」
周囲の兵士たちに、少しだけ笑いが起こる。
青年の名はイヴァン。
イレーネ親衛隊の隊長だった。
その少し後ろで、もう一人の青年が静かに剣を抜く。
背は高い。
黒い外套の下から見える顔は真面目で、笑うことが少ない。
手袋をつけた両手で、剣の柄を確かめている。
マクシム。
親衛隊副隊長の若き騎士だった。
「姫様」
マクシムが言う。
「前へ出すぎないでください」
「分かってる」
「本当にですか」
「……分かってる」
ほんの少しだけ、イレーネの声が詰まる。
イヴァンが肩をすくめた。
「マクシム。姫様にそれ言って聞くなら、俺たちも苦労しないだろ」
「黙れ」
「へいへい」
その時、城壁の下で何かが吠えた。
雪原が揺れる。
全長十メートルを超える白熊型のエボルモンスターが、雪を掻き分けて走ってきた。
毛皮の下には黒い瘴気が脈打ち、口からは凍りついた唾液が垂れている。
その背後には、甲殻をまとった小型の怪物たち。
さらに後方では、帝国兵が魔導弩を構えていた。
「来るぞ!」
兵士が叫ぶ。
イレーネは、躊躇なく城壁から飛び降りた。
「イレーネ様!」
雪が跳ね上がる。
白い地面へ降り立った彼女の足元から、薄い氷が広がった。
剣を掲げる。
「――フロスト・エンチャントブレード」
青白い氷が、剣身を包んだ。
刃から零れた冷気が、空気そのものを凍らせる。
白熊型のエボルモンスターが、両腕を広げて迫る。
爪が振り下ろされる。
イレーネは半歩だけ身を引いた。
「清流剣・受け流し」
剣が、怪物の爪へ触れる。
だが、巨大な腕は本来とは違う方向へ逸れた。
凍った地面へ深く突き刺さる。
巨体が、勢いのまま横へ流れた。
イレーネはその死角へ入り込む。
「アイスランス」
彼女の左手から、何本もの氷槍が生まれた。
青い槍は一直線に飛び、怪物の肩と脚を貫く。
黒い血が雪へ飛び散る前に、凍りついた。
白熊型の怪物が吠える。
その声を掻き消すように、イレーネは剣を振るう。
「清流剣・打ち落とし」
氷の刃が、怪物の首元へ滑り込んだ。
巨体が崩れる。
雪原が揺れる。
だが、イレーネは倒れた怪物を見ない。
後方の帝国兵が、魔導弩の照準を城壁へ向けていた。
「撃たせない」
イレーネは地面を蹴った。
蒼い残光を引いて、雪原を駆ける。
その姿は速い。
だが、急いでいるようには見えなかった。
必要な場所へ、最短距離で届く。
それが、彼女の剣だった。
帝国兵たちが引き金を引く。
青白い光弾が、いくつも飛ぶ。
イレーネは剣を横に払った。
氷の壁が生まれる。
光弾が、氷の壁へぶつかる。
爆ぜた魔力が、雪を巻き上げる。
その白い幕の中から、イレーネが現れた。
「下がって」
短い声。
帝国兵たちが剣を抜く。
だが、遅かった。
蒼い剣閃が走る。
連続で。
剣閃は縦横無尽に走り回った。
「清流剣・水鳥の乱舞」
大勢の帝国兵たちが、一斉に雪の上へ落ちた。
間髪入れず、イレーネは後方へ跳んでいた。
甲殻の怪物たちが、城門へ迫っている。
彼女は左手を広げる。
「連続詠唱――アイスランス」
今度は数が違った。
数十本の氷槍が、吹雪を切り裂く。
怪物たちの脚を、腹を、地面を貫く。
雪原の上に、青い氷柱が並ぶ。
進軍は止まった。
「今」
イレーネの声が、城壁まで届く。
「前へ」
「第一列、前進!」
マクシムの指揮が飛ぶ。
ロアーナ兵が城門から出撃する。
イヴァンは槍を振り回しながら、笑った。
「聞いたか! 姫様が前へってさ!」
「死ぬなよ!」
「そっちこそ!」
兵たちは、イレーネが止めた敵へ突撃した。
雪と氷の戦場に、ロアーナの旗が進む。
「ええい!撤退だ!!」
帝国軍ロアーナ方面司令官グリゴールは悔しさを滲ませた。
やがて帝国軍は退いた。
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