第2話「守るための剣」
鐘の音が、夕暮れの港を切り裂いた。
短く、鋭く、何度も鳴る。
「海からだ!」
「沖を見ろ!」
桟橋にいた漁師たちが叫び、網を放り出して逃げ始めた。
海面が大きく盛り上がる。
次の瞬間、黒い潮をまとった巨体が、水を押し分けて姿を現した。
魚と甲殻類を無理に繋ぎ合わせたような異形だった。
背には岩のように硬い甲殻。
腹の下からは、太い腕が四本も伸びている。
二本は鋏のように太く、残る二本は長く歪み、指の数さえ分からなかった。
濁った赤い目が、港を見回す。
甲殻の割れ目から、黒い瘴気が脈打つように漏れていた。
「な、なんだよ……あれ……」
マークの声が、かすかに震えた。
怪物は、桟橋へ腕を振り下ろした。
太い柱が折れ、海へ突き刺さる。
船が大きく揺れ、繋がれていた小舟が一隻、岸壁へ叩きつけられた。
「逃げろォ!」
誰かが叫ぶ。
人々は市場の方へ走り出した。
けれど、狭い通りには荷車や木箱が残っている。
逃げ遅れた老人。
子供を抱えて立ち尽くす母親。
荷を降ろしていた船乗りたち。
レフィーナは剣の柄を握った。
怖い。
喉が乾く。
足元が、少しだけ震えている。
森の中なら、ランドルフがいた。
迷えば、叱りながらも答えを示してくれた。
けれど今は違う。
ここには、先生はいない。
自分で見て、自分で決めなければならない。
「マークさん」
レフィーナは、怪物から目を離さずに言った。
「逃げる道は、どこですか」
マークは一瞬、彼女を見た。
それからすぐに港の周囲を見回す。
「市場側は駄目だ。人が多すぎる。製材所の裏を抜けて、丘へ上がる道なら広い」
「分かりました。皆さんを、そちらへ!」
レフィーナは近くにいた漁師へ駆け寄った。
「製材所の裏です! 丘へ続く道を使ってください!」
「だ、だが、あの怪物が――」
「海から離れれば、追いつかれにくいはずです。子供と怪我をしている方を先に!」
自分の声が震えていないか、レフィーナには分からなかった。
それでも、言わなければならない。
漁師は彼女の額のティアラを見た。
次に、剣を握る小さな手を見た。
「……分かった! 聞いたか! 丘道へ行け!」
声が港に広がる。
それを合図にしたように、人々が動き始めた。
怪物は海水を撒き散らしながら、陸へ這い上がる。
その長い腕が、桟橋の端に残された荷車を掴んだ。
木箱と魚籠が空へ舞う。
怪物が何かを探しているのか、ただ苦しみながら暴れているのか、レフィーナには分からない。
ただ、港を壊している。
人を傷つける。
それだけは確かだった。
「正面からは無理だ」
マークが、レフィーナの横に立った。
「あの甲羅、船の鉤が当たっても傷ひとつついてない。剣で斬っても、たぶん……」
「はい」
レフィーナは頷いた。
怪物を倒すことだけを考えれば、きっと間に合わない。
今、見るべきものは敵ではない。
逃げ遅れた人。
崩れかけた桟橋。
通れなくなった道。
『戦場は敵だけを見ておれば死ぬ』
ランドルフの声が、胸の奥で響く。
『風、地面、味方、逃げ遅れた者。全部を見ろ』
怪物の進行方向に、製材所の大きな倉庫があった。
避難の途中だった子供たちが、倉庫の中へ押し込まれている。
大人たちは入口を守ろうとしていたが、裏手の避難路は荷車と木材で塞がっていた。
「中に、まだ子供がいます!」
倉庫の前で、女が泣き叫んだ。
怪物の赤い目が、倉庫の方へ向く。
長い腕が、石畳を削りながら伸びた。
「レフィーナ!」
マークが叫ぶ。
「裏の道に荷車がある。あれをどかせれば、倉庫の裏口から丘道へ抜けられる!」
「どうすればいいですか!?」
「荷車を止めてる杭を切るんだ! 坂になってるから、そのまま海側へ流せる!」
レフィーナは倉庫の裏へ走った。
荷車は木材と漁網を積んだまま、狭い道を完全に塞いでいる。
車輪の前には、太い止め杭が打ち込まれていた。
これを斬れば、荷車は坂を下る。
だが、そこには海魔がいる。
それでも、倉庫の中にいる子供たちの道は開く。
レフィーナは剣を抜いた。
刃が夕日を受けて、淡く光る。
怪物の咆哮が響いた。
倉庫の壁が、長い腕で叩かれる。
中から、子供たちの泣き声が聞こえた。
『届くべき場所へ、届くための剣じゃ』
レフィーナは、杭へ向けて一歩を踏み込んだ。
「行きます!――飛燕剣・初太刀!」
剣が走る。
太い杭が、乾いた音を立てて斜めに断ち切られた。
止めを失った荷車が、大きく軋む。
「皆さん、離れてください!」
レフィーナが叫ぶ。
荷車は坂を下り、海側へ滑っていった。
裏口へ続く道が開く。
「今です! ここから出てください!」
倉庫の扉が開いた。
大人たちが子供を抱え、手を引き、裏道へ走り出す。
レフィーナは最後まで残り、全員が通るのを確かめた。
けれど、怪物は荷車の音に反応した。
赤い目がこちらを向く。
その腕が振り上がる。
レフィーナの背後には、まだ逃げ切れていない子供が一人いた。
足がもつれ、転んでいる。
「……っ!」
レフィーナは走った。
怪物へ向かうのではない。
子供へ届くために。
飛燕剣・初太刀で距離を詰め、転んだ子供を抱き上げる。
振り下ろされた腕が、すぐ横の石畳を砕いた。
砕けた石が頬をかすめる。
痛みが走った。
それでも、レフィーナは子供を抱えたまま、裏道へ飛び込む。
「大丈夫です。もう少しだけ、走れますか?」
子供は泣きながら頷いた。
レフィーナはその手を大人へ渡し、振り返った。
怪物は、倉庫の前で暴れている。
しかし、さきほど坂を下った荷車が、海側の通りで横倒しになっていた。
積まれていた漁網が、地面へ広がっている。
マークは数人の港の男たちと一緒に、その網を引っ張っていた。
「こっちへ! 滑車を使え!」
桟橋の脇には、荷揚げ用の小さなクレーンがある。
太い縄を滑車へ通し、網の端を荷車へ結びつける。
「レフィーナ! あいつを、荷車の方へ向けられるか!?」
「向ける……?」
レフィーナは怪物を見る。
正面から斬っても、甲殻は抜けない。
けれど、怪物の足元には柔らかそうな関節がある。
網が絡めば、少しだけでも動きを止められるかもしれない。
「分かりました!」
レフィーナは答えた。
怖くないわけではない。
剣を握る手は、まだ震えている。
けれど、町の人たちが自分を見ている。
マークが、縄を握っている。
ここで一人でも置いていけば、逃げ道はまた閉じる。
怪物がこちらへ向き直る。
黒い瘴気が、甲殻の隙間から噴き出した。
レフィーナは正面へ立った。
「こっちです!」
怪物が吠える。
太い鋏が、レフィーナへ振り下ろされた。
彼女は横へ飛ぶ。
石畳が砕ける。
二度目の腕が来る。
飛燕剣・初太刀。
最短の一歩で、腕の届かない場所へ滑り込む。
けれど、怪物の四本の腕は、逃げ道まで塞いだ。
網の方へ誘導するには、あと少し。
あと少しだけ、遠くへ届かなければならない。
怪物の足が、荷車の横を踏み砕こうとしていた。
網が潰れれば、マークたちも逃げられない。
「駄目……!」
レフィーナは踏み込む。
けれど、初太刀では届かない。
距離がある。
足の関節は、怪物の体の下だ。
届かない。
そう思った瞬間、倉庫の中で泣いていた子供の声が、耳に残った。
もう一度、あの声を聞かせたくない。
マークが、必死に縄を引いている。
港の人たちが、自分たちの町を守ろうとしている。
なら。
この一太刀は、怪物を倒すためではない。
あの人たちへ届くための一太刀だ。
レフィーナは剣を構えた。
足元の石畳。
怪物の動き。
風。
張られた縄。
すべてが一つの線になって見える。
「開眼――飛燕斬!」
剣が振り抜かれた。
鋭い一閃が、低く走る。
怪物の前方へ伸びた太い腕、その関節の隙間を正確に斬り裂いた。
深い傷ではない。
けれど、巨体が大きく傾くには十分だった。
怪物の足が、横倒しになった荷車へ踏み込む。
車輪が折れ、積まれていた網が一斉に跳ね上がった。
「今だ、引け!」
マークの声。
滑車を通した縄が軋む。
港の男たちが、全身で縄を引いた。
漁網が怪物の脚と腕へ絡みつく。
怪物は吠え、網を引き裂こうとした。
その腕が大きく振られ、縄を支えていた杭が一本、弾け飛ぶ。
「マークさん!」
飛んだ木片が、マークの腕を掠めた。
シャツの袖が裂け、赤い血が滲む。
「平気だ!」
マークは顔をしかめながらも、縄を離さなかった。
「まだ、離すな! 海へ向けろ!」
レフィーナは、怪物へ近づいた。
網に絡まり、苦しそうに暴れる巨体。
濁った赤い目。
その目が、一瞬だけレフィーナを見た。
怒りではなかった。
痛みと、恐怖だった。
甲殻の胸元に深い亀裂が入り、その奥で黒いものが脈打っている。
拳ほどの黒い核。
そこから、瘴気が血管のように広がっていた。
「……苦しいんですね」
レフィーナの言葉に、怪物は低く唸った。
まるで、答えることもできないまま助けを求めているように。
マークが叫ぶ。
「近づくな、レフィーナ!」
けれど、レフィーナは止まらなかった。
剣を下ろす。
そして、怪物の甲殻へそっと手を伸ばした。
額のティアラが、かすかに光る。
森で兎を抱き上げたときのような、小さな光だった。
眩しいほどではない。
黒い核を壊すこともできない。
ただ、荒れ狂う瘴気を、ほんの少しだけ押しとどめる光。
「大丈夫です」
レフィーナは、海魔を見据えた。
「もう、誰も傷つけさせません」
海魔の甲殻の裂け目で、黒い核がかすかに明滅した。
次の瞬間。
核の端から、爪ほどの黒い欠片が砕けて落ちた。
乾いた音を立てて、桟橋の板の上を転がる。
「……これは」
レフィーナは、そっと拾い上げた。
石のように冷たい。けれど、掌の中で、まだかすかに脈打っているような気がした。
海魔は、それ以上暴れなかった。
赤く濁っていた目の奥に、一瞬だけ、海のような青が戻った気がした。
やがて、怪物は網を引きずったまま身を翻した。
壊れた桟橋を越え、海へ戻っていく。
黒い潮が大きくうねる。
巨体は沖へ沈み、夕暮れの水面はゆっくりと閉じた。
残されたのは、折れた桟橋と、濡れた石畳。
そして、港を満たす静けさだった。
◇
しばらくしてから、誰かが小さく言った。
「……行った」
次の瞬間、港のあちこちで息を吐く音がした。
泣き出す子供。
座り込む漁師。
怪我をした者へ駆け寄る人々。
誰かが、レフィーナへ向かって叫んだ。
「助かった!」
「姫騎士さまが、町を守ってくれた!」
レフィーナは、その言葉に戸惑った。
「私は……」
言いかけて、止まる。
一人では、何もできなかった。
逃げ道を知っていたのはマークだ。
網を動かしたのは港の人たちだ。
子供たちを抱えて走ったのは、町の大人たちだ。
レフィーナは、血の滲んだ腕を押さえるマークのもとへ駆け寄った。
「怪我を見せてください」
「これくらい、大丈夫」
「駄目です」
レフィーナは、マークの腕へ両手をかざした。
どうすればいいのか、分からない。
ただ、痛みだけでも消えてほしいと思った。
ティアラが、また小さく光る。
温かな光が、マークの腕を包む。
傷が消えることはなかった。
けれど、マークの強張っていた指が、少しだけ緩んだ。
「……痛く、なくなった」
レフィーナは息を吐く。
「よかった」
「すごいな、レフィーナ」
マークが言った。
レフィーナは首を振る。
「一人では、できませんでした」
港を見る。
網を片づける人。壊れた桟橋を確かめる人。泣いていた子供を抱きしめる人。
「皆さんがいたから、守れたんです」
マークは、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、次も皆で守ればいい」
レフィーナは頷いた。
「はい」
海の方を見る。
沖合には、もう怪物の姿はない。
ただ、黒い泡がいくつか、水面に残っていた。
あの黒い核は何だったのか。
レフィーナは、布に包んだ黒い欠片を荷袋の奥へしまった。
なぜ、あの怪物はあんなに苦しんでいたのか。
レフィーナには、まだ分からない。
けれど、一つだけ分かったことがある。
町には、人がいる。
笑う子供がいる。
明日の魚を売る人がいる。
船を直し、網を繕い、海の向こうへ行こうとする人がいる。
それを壊そうとするものが現れたなら。
自分は、剣を抜く。
誰かを倒すためではなく。
誰かの日常へ、届くために。
レフィーナは剣の柄へ手を添えた。
その手はまだ、少しだけ震えていた。
けれど、もう離さなかった。
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