第49話 王の依頼
形式的な挨拶と、いくつかの当たり障りのない言葉を交わしたあと。謁見の間の空気が、はっきりと変わった。正確には、陛下が自分のパートナーである猫を紹介しようとした瞬間だった。
私の肩の上でくつろいでいた猫――閣下が、ふいに視線を動かした。その視線の先には、玉座に座る王の膝の上に行儀よく控える、もう一匹の猫の姿があった。閣下が、楽しそうに尻尾を揺らして声をかける。
「久しいね、ミューラ。こちらが、わたくしの愛人だよ」
「……なっ、愛人!?」
え? なに? 今、私を閣下の『愛人』って紹介した!?
「ん? 何をそんなに驚いている。そなたたちも、可愛がっているペットを『愛猫』『愛犬』などと呼ぶだろう? 人なら『愛人』になるじゃないか」
……は? いやいやいや!
「それって、理屈がおかしい!」
「ブフッ」
明らかに笑いを我慢した音のあと――咳払いが、ひとつ。
「コホン……シュン、と言ったな」
名前を呼ばれ、それだけで、背筋が自然と伸びた。
「はい」
「これからする話は、決して軽くはない」
私は、静かに頷いた。
「分かっています」
陛下は、ほんの一瞬だけ、視線を逸らした。その仕草には――迷いがあった。
「本音を言うならば」
低く穏やかな声だった。
「君には、普通の冒険者として生きてほしかった」
胸の奥が、少しだけ締めつけられる。
「そなたは同郷の人間だ。余計なものを背負わせたくない」
私は、言葉を探した。
「……でも」
仕方のないことだと、今では……頭では、理解している。でも、なぜか言葉にならない。
「だが、現実はそうならなかった」
陛下は、玉座の肘掛けに指を置く。
「君は、闇のドラゴンと接触した。それだけで、もう表の世界からは外れた」
重い。
「君の存在は、すでに政治の中にある」
私は、息を吐いた。
「……逃げられない?」
「逃げることはできる」
即答だった。――だが。
「その場合、君の周囲が無事とは限らない」
ジルの姿が、頭に浮かんだ。エリスさんや食堂の皆。武器屋の親父さんに、街の人たち。関わってきた人たちの、顔。
「君が知らないところで、話は進む。君の名前も、君の知らない形で使われる」
私は、強く拳を握った。
「……それは、最悪だな」
「そうだ」
陛下は、はっきりと認めた。
「だからこそ、頼みたい」
陛下は、私を見た。同郷の人間としてではない。この国の王として。
「君に、立ち会ってほしい」
「……何に?」
「選択に」
短い言葉だった。だが、その中身は重い。
「闇のドラゴンを、“脅威”として扱うか。それとも、“交渉の相手”として扱うか」
心臓が、どくりと鳴る。
「それ、もう決まってる話じゃないの?」
「決めたがっている者は多い」
陛下は膝の上のミューラを撫でながら、静かに言う。
「だが、決め切れていない」
「……私がいるから?」
「正しくは……君が、実際に接触した人間だからだ」
宰相――猫が、静かに補足する。
「貴殿の言葉は、“証言”になる」
重い。
「証言……」
「闇のドラゴンが、理性を持ち、我々と交渉が可能であるという証言だ」
私は、オブシの顔を思い出す。照り焼き。酒。沈黙。そして、あの豪快な笑い声。
「……ドラゴンにも、理性はあるよ」
「だからこそだ」
閣下は続ける。
「君の発する言葉は、戦争を止める材料にもなる。同時に、火をつける材料にもなり得る」
私は、喉を鳴らした。そして背中に冷たい一筋の汗。
「……私、そんな重い役、向いてないと思う」
正直な気持ちだった。陛下は、少しだけ表情を緩めた。
「そう言うだろうと思った」
「じゃあ、なんで頼むの」
「それは、向いていないからだ」
「え?」
「君は、駒になれる人間じゃない」
その言葉は、意外だった。
「駒になれない人間の言葉だからこそ、意味がある」
私は、しばらく黙った。
「……拒否したら?」
「拒否できる」
即答だった。
「だが、その場合、別の誰かが“都合の良い証言”をする」
胃が、きりりと痛む。
「……それは、嫌だな」
「そうだろう」
陛下は、少しだけ疲れたように笑った。
「君に頼むのは、王としても、同郷としても、正直つらい」
その言葉には、嘘がなかった。
「それでも、だ。……頼む」
王は、ひとつ息を整えてから、静かに言った。
「私はこの国の王、コーイチ=クジョーだ。『チキュウ』では、九条幸一と呼ばれていた」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに噛み合った。
――同郷。ただの言葉じゃなかったのだ。
私は、深く息を吸った。逃げ道はある。だが、逃げた場合の未来は――見えてしまった。私は、顔を上げる。
「……私にできるのは」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「見たままを話すことだけだよ」
「ああ、それで十分だ」
陛下は、はっきりと言った。
「それ以上は、求めない」
猫――宰相が、静かに付け加える。
「我らは、貴殿を利用したいのではない」
私は、苦笑した。
「結果的に、めちゃくちゃ利用されてる気はするけど」
「それは否定しない」
「否定してほしかった……」
だが。私は、背筋を伸ばした。
「……分かった」
重い。正直、怖い。それでも。
「私、逃げるの、あんまり得意じゃないみたいだ」
陛下は、ほんの少しだけ、安心したように息を吐いた。
「……ありがとう」
その言葉は、王のものではなく。同郷の人間のものだった。
――ふと、思い出した。
「猫が王様? ん? 猫のパートナーが王様?」
そんなことを言っていたのは、ほんの少し前の自分だ。それに答えたのは閣下だった。
「なんだ、そんなことか。この世界が何と呼ばれているか、知っているだろう?」
「フェリス、ランド……」
「猫が王でも、王のパートナーが猫でも、なんらおかしくはないだろう」
……本当に、その通りだ。
こうして私は、戦争にもなり得る選択の場に、立つことになった。樽と照り焼きの話から、ずいぶん遠くへ来てしまったが。――それでも。
自分で選んだなら――きっと、後悔はしない。




