第43話 達観した価値観
私は、酒の杯を持ったまま固まった。
……オブシ、何か知ってるな? オブシは、私を見下ろしたまま、何も言わない。照り焼きの匂いも、エールの冷たさも――一歩引いたみたいに遠くなった。沈黙が、重い。私は喉を鳴らし、乾いた笑いを漏らす。
「……いや、すみません。今のは忘れてください」
『忘れぬ』
即答だった。ドラゴンの即答は、心臓に悪い。
「ですよね」
私は杯を置き、両手を膝の上に置いた。交渉の席。いや、もう交渉じゃない。――裁判だ。それも、判決待ちしているところ。オブシが、ゆっくりと息を吐く。
『お前は、“呼ばれた”のだな』
「……呼ばれた、って言い方が嫌なんですよね」
『嫌か』
「嫌です。勝手に決められた感じがするので」
オブシは鼻で笑った。
『決められておるのだ。お前が嫌がろうと』
「うわ、最悪の正論」
私は頭を掻き、ため息を吐く。
「……でも、まあ。そうらしいです。私がこの世界に来た時点で、もう神託は降りていた、と」
『人間の神は、よく喋る』
「本当ですよね。余計なお世話です」
私は笑ってしまい、続けてしまう。
「私としては、静かに暮らしたいだけなんですけど」
『静かに?』
「静かに、です。森で魔物を狩って、ダンジョンで図鑑埋めて、たまに美味い飯を食って……」
『……今のどこが静かだ』
「そこ、突っ込むんですか」
オブシは、照り焼きをもう一口呑み込んだ。
『呼ばれた者は、流れを変える』
私は眉をひそめた。
「……流れ?」
『戦争の……人の生き死にの流れだ』
オブシの瞳が、暗い光を宿す。闇の底で、何かがゆっくり動いているような――そんな目だった。
『このままでは、人間は我々……ドラゴンを討ちに来る』
「……神託、のせいで?」
『神託は理由だ。だが原因ではない』
「……じゃあ、原因は?」
オブシは、鼻先を鳴らした。
『人間が欲を持つからだ』
私は小さく息を吐いた。
「……商会みたいな?」
口にしてから、軽率だったと気づいた。
『ああ、商会のような』
オブシの声が低くなる。
『“危険だ”“討伐すべきだ”と煽り、金を作る』
私は、苦笑した。
「……いましたね。そういう人」
あの笑顔。優先料。融通。上席。ゼロが多い紙。胃痛。――思い出しただけで胃が痛い。オブシが言った。
『人間は、火種を売る』
「売りますねえ……」
『そして、自分で火をつける』
私は黙った。前世で、似たものを見たことがある。戦争じゃない。だが、争いはいつも――誰かの利益になる。私は、杯を握り直した。
「……だから私は、交渉を選びました」
『ふん。良い』
オブシは笑った。だが、さっきまでの“腹を空かせた笑い”ではない。低く、静かで、重い笑いだった。
『お前が生きている間だけは、和平を結んでやる』
「はい」
私は頷いた。その条件が、現実的だからこそ――信用できた。だが、私は一つだけ確認したかった。
「……私が死んだら、どうなるんです?」
オブシは、面倒くさそうに言った。
『知らん』
「雑すぎる……!」
『お前が死ねば、契約は終わる。我は“約束を守る理由”を失う。それだけだ』
私は、喉の奥がひゅっと鳴った。
「……じゃあ、私が生きてる間に、何とかしろってことですか」
『そうだ』
「無茶振りだなぁ……」
肩の上の猫が、短く鳴いた。
「にゃ」
――分かってる。分かってるよ。私もそう思う。オブシは続ける。
『人間よ。お前は、なぜそこまで必死に和平を望む?』
「必死ってほどでも……」
『必死だ。命を懸けている』
私は照り焼きを口に運び、誤魔化すようにエールを流し込んだ。
「……戦争って、起きたら止まらないんですよ」
『経験があるのか』
「ありますよ。……まあ、規模は全然違いますけど」
『ふん。妙な言い方だな』
「妙なんですよ。私の人生」
私は杯を置いた。
「私は、前の世界で――」
言いかけて、止めた。ここまで言って、今さら隠しても意味がない。けれど、全部を話す必要もない。私は、息を吐いた。
「……私は、戦争そのものは知らないです。でも、争いが“止まらなくなる”瞬間は知っています」
『ほう』
「一度始まったら、誰も引けなくなるんです。引いたら負けだって言う人が出てきて、引かない方が得だって言う人が出てきて……」
私は苦笑した。
「で、最後に残るのは、“誰が始めたか分からないのに、止められない”という状態です」
オブシは黙って聞いていた。照り焼きも、エールも、今は動かない。そして、ゆっくりと言った。
『……ならば、お前は正しい』
私は眉を上げた。
「正しい、って……ドラゴンが言うんだ」
『我は長く生きている。争いが何を生むかは知っておる』
オブシの瞳が細くなる。
『勝者は、次の争いを呼ぶだけだ』
「……重いなぁ」
『重いからだ』
私は、苦笑した。
「……じゃあ、私が流れを変える、ってことですか」
『そうだ』
オブシは言い切った。
『呼ばれた者は、流れを変える。変えねばならぬ』
私は背筋が伸びた。言葉が、岩みたいに落ちてくる。
「……でも、どうやって?」
私の問いに、オブシは面倒くさそうに答えた。
『お前が決めろ』
「うわぁ……」
『それが呼ばれた者の役目だ』
私は額を押さえた。
「役目って……私はただの元サラリーマンなんですけど」
『サラ……?』
「えっと、働いてた人です」
『働いていたのか』
「はい。理不尽に」
『理不尽は、どこでも同じだな』
妙に納得されてしまった。私は息を吐き、袋の中の黒い鱗――“友情の証”に触れた。
「……じゃあ、これも」
『そうだ』
オブシは、少しだけ鼻先を鳴らした。
『お前が悪用しないことは分かっている』
私は目を瞬いた。
「……信用してるんですか」
『信用ではない』
「え?」
『観察の結果だ』
「言い方ぁ……!」
オブシは笑った。今度は、ほんの少しだけの軽い笑いだった。
『だが、お前が裏切らぬなら――我も裏切らぬ』
私は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
『礼など要らん。面倒だ』
「そこは受け取ってくださいよ」
『面倒だ』
「頑固すぎる……」
私はエールを一口飲んだ。喉の奥が熱くなり、心臓の鼓動が少しだけ落ち着く。オブシが、ぽつりと言った。
『……名を呼んだな』
「え?」
『オブシ、と』
「ああ。呼びましたね」
『呼ばせてやった』
「ありがとうございます」
『ふん』
オブシは照り焼きを一口呑み込み、低く言った。
『名は、力だ』
「……ですよね」
『だが、愛称は違う』
私は目を細めた。
「……愛称は?」
『繋ぎだ』
その一言が、妙に胸に残った。繋ぎ。真名は教えない。けれど、愛称は渡す。それはきっと――契約よりも、友情に近い。私は、静かに笑った。
「……じゃあ、私は繋がりをもらったんですね」
『そうだ』
「光栄です」
オブシは、面倒くさそうに鼻を鳴らした。
『面倒な話は終わりか』
「終わりにしたいです」
『ならば飲め』
「はいはい」
私は杯を差し出し、エールを注ぐ。オブシが樽に口を付けた瞬間、広間の空気が少しだけ緩んだ。
――よかった。今はまだ、宴会の空気に戻れる。私は、心の中で呟いた。……でも。このドラゴン、やっぱり何か知ってる。
――呼ばれた者。流れ。変えねばならぬ。
そんな言葉を、ただの偶然で知っているとは思えない。私は杯を握りしめ、笑って誤魔化した。
「……ところでオブシ。次の催促は、もう少し優しくしてくださいね」
『ふん。努力はしよう』
「努力って言った……!」
肩の上の猫が、短く鳴いた。
「にゃ」
――分かってる。この世界で「努力する」って言うドラゴンが、一番怖い。




