第42話 友情の証とオブシ
黒岩の広間に足を踏み入れた瞬間、空気が一段重くなった。喉の奥がひりつく。……熱でも冷気でもない。圧だ。私は深呼吸を一つして、前へ進む。視線の先――闇の塊みたいな巨体が、そこに鎮座していた。
……いや、いた、じゃない。“待っていた”と言った方が正しい。その言葉だけで、あの“夢”が喉の奥に蘇る。
『我は、待っている』
――あの声。あの赤い目。胃がきゅっと縮み、私は無意識に呼吸を整えた。
「……お久しぶり、です」
声が少しだけ乾く。だが、引かない。私は胸の前で軽く手を握り、礼をした。
「前回は……その、突然お邪魔してしまい、大変失礼いたしました。シュンです」
名乗ると、闇がゆっくりと動いた。巨大な瞳が、私の全身を舐めるように見下ろしてくる。やっぱり……少し怖い。でも、ここで目を逸らしたら負けだ。
「今日は、約束を果たしに来ました」
私は言い切って、インベントリバッグを軽く叩いた。まずはちゃんと“持ってきた”という事実だけは伝えて、ゆっくりと粗相がないように気をつけながら近づいていった。
黒い岩の広間に、香ばしい匂いが漂う。夢の中で“指定”された通りの匂いだ。こうして形になった途端、背中がぞくりとした。
……夢じゃなく、現実の催促だったのだと思い知る。私は持ってきた照り焼きを差し出した。ついでにエールの樽を転がす。
「前回の分も含めて、今日は多めに持ってきました」
『ふん……やっと学んだか』
黒いドラゴンは鼻先を鳴らし、照り焼きを一口で呑み込んだ。そして喉の奥で満足そうに唸る。
『……悪くない』
「それはどうも」
私は肩の力を抜いた。交渉の席というより、もう“宴会”の空気になっている。ドラゴンはエールの匂いを嗅ぎ、満足そうに首を傾げた。一瞬だけ警戒したように目を細めたが、次の瞬間、面倒くさそうに言った。
『飲めるなら良い』
「雑すぎる……」
私は大きめの杯を用意し、樽から掬って差し出す。ドラゴンはそれを豪快に口に含み――
『……ほう』
目が、わずかに細くなった。
『腹が温まる。悪くない』
「でしょう? 人間の酒は、こういう時に役に立つんです」
『こういう時、とは?』
「……面倒な話をする時、です」
私がそう言うと、黒いドラゴンは笑った。岩肌が震えるほど低い声だった。
『面倒な話なら、さっさとしろ』
「あー、はい……」
私は一息ついてから、改めて頭を下げる。
「そういえば――」
『まだ何かあるのか』
「ええ。……大事なことを聞いていませんでした」
ドラゴンの目を見て、私は丁寧に言う。
「お名前を、伺っておりませんでしたね」
空気が変わった。さっきまでの宴会の匂いが、一瞬で引っ込む。
『……真名は教えられん』
「ですよね」
それはそうだ。名前は力だ。まして相手はドラゴンである。
『だが……』
黒いドラゴンは、少しだけ口角を上げた……気がした。
『オブシと呼ばせてやろう。我の愛称だ』
「オブシ……」
口にしてみると、妙に馴染む。黒く硬い響き。けれど短くて覚えやすい。
「ありがとうございます、オブシ」
『うむ』
オブシは満足げに頷き、照り焼きをもう一口呑み込んだ。そして、杯を傾けながら――唐突に言った。
『……よくぞ断ったな』
「……はい?」
私は杯を持ったまま固まった。断った? 何をだ? オブシは面倒くさそうに鼻を鳴らす。
『商会の話だ』
私の喉の奥がひゅっと鳴った。
「……聞いてたんですか」
『面白そうだったから、聞いておった』
「……盗み聞きってレベルじゃないですよね?」
『聞いていただけだ』
「それ、一般的には盗み聞きって言うんですよ」
オブシは鼻で笑った。
『人間は、すぐ売る。すぐ裏切る。すぐ火をつける』
私は、杯を置いた。
「……売りませんよ」
『知っておる。だから言った』
オブシは、ゆっくりと首を下げる。黒い瞳が、私を覗き込んだ。
『お前は、裏切らぬ』
……重い。ドラゴンの言葉って、たまに人間の心臓を直に掴みにくる。私は苦笑して肩をすくめた。
「裏切ったら、私が死にますし」
『ふん。現実的だな』
「現実的なんですよ、私は」
その時、私はふと思い出し、インベントリを開いた。黒い布袋を取り出す。
「そういえば、これ……」
袋を掌に乗せると、ずしりと重い。
『……それか』
オブシが言った。まるで当たり前のように。私は眉をひそめる。
「やっぱり、あなたが入れたんですね?」
『ああ、入れた』
即答だった。あっさりしすぎて、逆に怖い。
「どうやって……?」
『できるからだ』
「雑すぎる……」
私は袋の紐を解き、例の鱗の欠片を取り出した。黒く鈍い光。爪先ほどの大きさなのに、妙に重い。
「これ、何なんですか。……監視とか?」
『監視にも使える』
「やっぱり」
『だが』
オブシは、照り焼きをもう一口呑み込んでから、平然と言った。
『お前には、違う』
「……違う?」
『友情の証だ。持っておけ』
私は口を開けたまま固まった。まさか、ジルの答えが正解とは。
「……友情」
ドラゴンの口から出る言葉じゃない。いや、出るのか。出るんだな。ドラゴンって。オブシは、エールの樽を鼻先で軽く転がした。
『お前は、面白い』
「光栄です」
『それと』
オブシが目を細める。
『それは“呼びかけ”にも使える』
「……呼びかけ?」
『死にそうな時だけにしろ。面倒は嫌いだ』
「……便利グッズじゃないですか」
『違う』
「え?」
『友情の証だ』
「……はい」
私は頷いた。便利でも友情。友情でも便利。……まあ、いいか。私は鱗を袋に戻し、丁寧に結び直す。
「……ありがとうございます」
オブシは、ほんの少しだけ満足そうに鼻を鳴らした。
『うむ』
私は杯を取り、エールを一口飲む。喉を通る熱が、少しだけ思考を緩めた。
「ふう……」
そして、口が滑った。
「私がこの世界に来た時点で、もう神託は降りてたらしいですし」
言った瞬間、酒の味が、一気に苦くなった。……あ。やってしまった。オブシの動きが止まる。照り焼きを掴んでいた爪が、岩に触れてカツンと鳴った。
『……ほう』
たった一言。それだけで、空気が重くなる。
『お前は“呼ばれた”のか』
私は杯を置いた。誤魔化せない。誤魔化したら――今度は私が、信頼を壊す。
「……ええ、まあ。そうらしいです」
『……』
オブシはじっと私を見ていた。私は軽く肩をすくめる。
「正確には、連れてこられたんですけどね。誘われて」
『誘い?』
「ええ。断れる雰囲気じゃなかったですけど」
オブシは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと息を吐く。
『……ならば、和平を望むのも道理だ』
私は、背中に冷たいものが落ちるのを感じた。酒の席の雑談のはずだった。なのに、今の一言で――世界の形が変わった気がした。
……オブシ、何か知っているな? 私は酒の杯を持ったまま固まった。




