第44話 追いかけっこ
ドラゴンの巣窟を出た瞬間、私は空を見上げた。――まだ明るい。だが、心はもう夜だった。胃の中が真っ暗だ。
「……樽って、あんなに高いんだ」
いまだに引きずっていた私は、ぼそりと呟く。隣を歩くジルが淡々と頷いた。
「樽は中身より高いことがあります」
「悲しい現実……」
私は歩きながら、インベントリの奥にしまった黒い布袋に触れた。あの鱗。友情の証。便利なお守り。……握るだけだ。絶対に使わない。使ったら最後、私の生活は終わる気がする。
肩の上では、猫――閣下がいつも通り、偉そうに座っている。だが、今日は一言も喋らない。静かすぎる。私たちは武器屋の方へ向かって歩いていた。私はため息を吐き、肩の上を見上げた。
「ねえ、閣下」
猫は返事をしない。しないくせに、耳だけはぴくりと動く。
「最近、人語を話さないよね?」
尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
「理由でもあるの?」
無言。私はわざと軽い声で続けた。
「ただ、知らんぷりして、私に主導権を握らせたいだけ?」
尻尾が、ぴたりと止まった。……あ。図星か。私は苦笑し、さらに畳みかける。
「それとも、私が勝手に喋って勝手に決めて勝手に失敗するのを見て、楽しんでる?」
閣下は、私の肩の上で悠然と座ったまま、ようやく口を開いた。
「主導権は、お前に渡した」
私は思わず足を止めた。
「……喋った」
「喋れる。喋らないだけだ」
「そこ、誇るところじゃないよね?」
ジルが、横で小さく咳払いをした。笑いを堪えているのかもしれない。いや、たぶん堪えている。私は肩をすくめた。
「じゃあ今までの私への態度は何だったの……」
「甘やかしていた」
「甘やかしてたんだ!?」
私は思わず声が裏返った。閣下は平然と続ける。
「お前が決めろ。お前が選べ。お前が断れ」
「育成方針……?」
「そうだ」
即答だった。怖い。猫のくせに、教育方針が硬派すぎる。親方衆の、『見て覚えろ!』的なやつだろうか。私は胃を押さえた。
「……私、教育されてたんだ」
「今もだ」
「今も!?」
その時だった。ジルが、ふっと足を止めた。空気が変わる。ほんの一瞬。だが確実に。
「……シュン」
「はい」
「前です」
私はジルの視線の先を見た。通りの角。商会の男が二人。商会の建物で見た連中だ。片方が紙を持ち、片方が誰かと話している。
――嫌な予感しかしない。男の一人が、こちらを見た。目が合った。次の瞬間、口元が笑った。
「……っ」
私は反射的に踵を返した。
「逃げます!」
「逃げろ」
肩の上の閣下が、当然のように言った。
「今のは主導権じゃないよね!?」
「例外だ」
「便利すぎる……!」
私たちは人混みを避けるように、路地へ滑り込んだ。石畳の細い道。洗濯物が揺れている。匂いは――パン屋の残り香と、どこかの煮込み。私は息を殺しながら走る。
「なんで商会って、あんなに嗅覚いいの……!」
ジルが淡々と言う。
「利益の匂いに敏感なのです」
「嫌な生き物だなぁ……!」
角を曲がり、さらに曲がる。
ようやく視線が切れたところで、私は壁に背をつけて止まった。
「はぁ……はぁ……」
心臓がうるさい。胃も痛い。今日はずっと痛い。私は小声で言った。
「……来てないよね?」
ジルが頷く。
「今のところは」
私は息を吐いた。
「よかった……」
その瞬間、背中がぞくりとした。――近い。路地の向こう。足音。さっきの男たちとは別かもしれないが、誰かがこちらへ来ている。私は喉が渇いた。
……やばい。見つかる! 私は反射的にインベントリへ手を伸ばしかけ――止めた。黒い布袋。友情の証。鱗。……握るだけ。絶対に使わない。ここで呼んだら、私は終わる。いろんな意味で。私は布袋をぎゅっと握りしめ、目を閉じる。
……落ち着け。落ち着け私。そこで、ふと気づいた。……あれ? 私、隠密スキル持ってなかったっけ? 最近では“魔法の絨毯”も使ってなかったからなあ。普段使う場面がなさすぎて、完全に忘れていた。草原では、正面から殴って終わりだったもんな。私は心の中で叫んだ。そうだよ! 私、スキル持ちだった! 私はそっとスキルを起動する。
――すぅ。空気が変わった。自分の呼吸音が、遠くなる。衣擦れが消える。心臓の音まで薄くなる気がした。私は目を見開いた。
「……すご」
ジルが小声で言う。
「今さらですか」
「今さらです!」
肩の上で、閣下が呟いた。
「遅い」
「うるさいよ!?」
足音が近づく。だが、こちらに気づく気配はない。通り過ぎていく。私は息を止めたまま、そっと様子を窺う。商会の男だ。路地の入口で立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回している。
「……いたはずなんだが」
「見失ったか?」
「猫もいたぞ。妙なやつだ」
妙なのはお前らだよ。私は口を開きかけて、やめた。隠密中に喋ったら台無しだ。男たちは首を傾げ、諦めたように戻っていった。足音が遠ざかる。私は、ようやく息を吐いた。
「……助かった」
ジルが頷く。
「助かりましたね」
私は肩の上を見上げた。
「ねえ閣下。今の、隠密スキル使えばいいって、最初から分かってたよね?」
「分かっていた」
「なんで言わないの!?」
「主導権は、お前に渡した」
「うわぁ……!」
私は頭を抱えた。
「育成って、こういうこと!?」
「そうだ」
即答。猫の教育、厳しすぎる。私は布袋を握ったまま、苦笑した。
「……でもさ。こういう時、喋ってくれると助かるんだけど」
閣下は尻尾を一度だけ揺らした。
「お前が気づいた。なら、それでいい」
私は、少しだけ笑ってしまった。
「……腹立つけど、悔しいけど……確かに」
ジルが、静かに言った。
「閣下。そろそろ説明が必要かと」
閣下は私の肩の上で姿勢を正し――こちらを見下ろした。普段は“シュン”と呼ぶくせに、こういう時だけ妙に改まる。
「貴殿になら、教えておくべきだろう」
閣下は淡々と続けた。
「ジルと共に説明しよう」
ジルが頷く。
「はい」
私は、胃を押さえた。樽。照り焼き。商会。闇のドラゴン。友情の証。全部が繋がっている気がして、頭が痛い。だが――。私は布袋をそっとインベントリに戻し、閣下を見上げた。
「……うん。聞くよ」
閣下は尻尾を揺らした。
「よろしい」
猫のくせに、偉そうに。でも――その声が、少しだけ頼もしく聞こえた。
――ここまで来たら、何を言われても多少のことでは驚かない自信ができてしまった。……たぶん。




