第40話 大人の?事情
交渉は成立した。約束もした。襲わないと言った。……言ったが、ドラゴンの「待つ」と人間の「待つ」は、同じじゃない。私は乾いた笑いを漏らした。
「ははっ……やっぱり交渉より、催促の方が怖かったな」
猫は、何事もなかったように肩の上で丸くなった。……やめろ。そういうのが一番怖いんだよ。エリスさんが、ふっと息を吐いた。
「とりあえず、やるしかないさ。街を襲ってくることはない……と思いたいけどねえ」
「『思いたい』、って言いましたよね?」
「うん。思いたい」
そう、思いたい。私も思いたい。だが、肩の上の猫は否定もしない。――否定しろ。
私たちは食堂で朝食をいただきながら、昨晩見た夢枕の話をしていた。インベントリに入っている樽は六樽。十のうち六。残り四。数字が、胃を殴ってくる。ジルが紙を広げ、淡々と告げた。
「商会へ向かいます」
「今からですか?」
「今からです」
即答だった。怖い。ドラゴンより怖い。エリスさんが苦笑する。
「商会ってのはね、早い者勝ちなんだよ。ぐずぐずしてると、他に回される」
「……樽も?」
「樽も」
私は頷くしかなかった。商会は街の中央にあった。石造りの立派な建物で、入口の柱が無駄に太い。中に入ると、空気が違う。酒屋の匂いでも、食堂の匂いでもない。紙とインクと、金の匂いだ。
カウンターの向こうで、男が顔を上げた。服は綺麗だが、目が綺麗じゃない。笑っているのに、温度がない。
「いらっしゃいませ。何か御用でしょうか」
ジルが一歩前に出る。
「エール樽の手配を依頼します」
「エール……樽?」
男は一瞬だけ眉を上げ、それから私を見た。……やめろ。見ないでくれ。私は何もしてない。
「数量は」
ジルが答える。
「四樽です」
男は、ペンを止めた。
「四樽……」
声が、妙に落ち着いていた。落ち着きすぎている。私は嫌な予感しかしない。
「在庫は、あるのですか?」
ジルが聞く。
「在庫はございます」
男が、さらっと言った。
「ただし――」
来た。私は小さく息を吸った。ジルは瞬きもしない。
「ただし?」
「本日中の手配となると、通常料金では難しいですね」
私は思わず口を挟んだ。
「え? あるなら出せるんじゃ……」
男が、笑顔のまま首を傾げた。
「“ある”のと、“出せる”のは別です」
……出た。商会の言い回しだ。エリスさんが、私の肩を軽く叩いた。
「シュン。今のは、金の匂いがしたね」
「しました」
確実にした。鼻が曲がりそうだ。ジルが、淡々と言った。
「料金を提示してください」
「はい。では――」
男は紙を一枚取り出し、さらさらと数字を書いた。私はその紙を覗き込み――固まった。
「……え?」
ゼロが多い。いや、多すぎる。これ、樽だよね? 家じゃないよね? 私は震える指で紙を指した。
「これ、四樽の値段ですか?」
「はい。四樽分です」
「……樽って、こんなに高いんだな……」
私は呟いた。すると肩の上の猫が、短く鳴いた。……今は笑うな。頼むから。ジルが、紙を見たまま言った。
「“樽代”と“保証金”と“手配料”と“優先料”……ですね」
男は笑顔で頷く。
「はい。ご理解が早くて助かります」
エリスさんが腕を組んだ。
「優先料ってのは、つまり……」
「他のお客様の順番を後回しにする料金です」
男が、さらっと言った。……嫌な世界だ。私は遠くを見る。闇のドラゴンの顔が浮かぶ。
『酒もだ』 『樽で十だ』
――そう、十。私は小さく息を吐いた。ジルが、私を見た。
「シュン。支払えますか?」
私は答えた。
「……払うしかないんですよね?」
男が、笑顔で言う。
「樽が必要であれば……それは、もちろんです」
私は、胃を押さえた。鹿を百匹狩って、照り焼きを百人前作って、樽を十。さらに商会に吸われる。……私、何をしているんだろう。
その時、肩の上の猫が、また私の首元に爪を軽く立てた。ん? 違う。今のは、合図じゃない。
――払え、という催促だ。




