第39話 夢枕に立つのは…
その夜、私は――久しぶりに、まともに眠れなかった。正確に言うなら、眠ったはずなのに、休んだ気がしない。目を閉じても、瞼の裏が黒い。闇の巣窟の黒岩が、脳の奥にこびりついているみたいだった。あの空気の重さ。音が消える感じ。あの距離感。あの顔のデカさ。
……そして何より。あの「待つ」という言葉。ドラゴンが言う「待つ」は、たぶん人間の「待つ」とは違う。私は布団の中で、無意識に胃を押さえていた。ベッドの上に、猫はいない。
ここ数日、閣下は閣下で忙しいのか、夜は私の部屋に来ないことも増えた。……いや、来ていたとしても、私が気づいていないだけかもしれないが。とにかく今は――一人だ。それが、やけに心細い。
……こんな時、閣下なら。いや、考えるな。余計に怖くなる。私は深呼吸をして、目を閉じた。そして、次に目を開けた時、私はそこにいた。黒い。真っ黒な世界。床も、壁も、天井も、黒い岩でできている。乾いていて、鈍く光っていて、ひび割れの奥が妙に深い。あの場所だ。
――闇のドラゴンの巣窟。
「……え?」
声を発した瞬間、私の声が吸い込まれた。音が、消える。いや、消えてはいない。遠いのだ。すごく遠い。自分の呼吸が、自分のものではないみたいに遅れて聞こえる。私は喉を鳴らして、周囲を見回した。いない。……いや、いる。“奥”に。
黒の塊みたいな影が、どっしりと座っていた。岩の山が動いているようにも見える。だが、次の瞬間、その影がゆっくりと首を上げた。目が、光った。赤い。夜の火のような赤が、黒の中に二つ浮かぶ。
『――来たか』
声が、頭の中に直接響いた。耳ではなく、脳に叩きつけられるような声。私はその場で固まった。
「……え、あの、ここは……夢、ですよね?」
『夢だ』
即答だった。即答なのに、安心できない。夢だと言われたのに、現実より怖い。私は震える手で、胸のあたりを押さえた。心臓が痛い。速い。やめてほしい。夢の中でまで過労死したくない。
『――シュン』
闇のドラゴンが、低く唸った。私は反射的に背筋を伸ばした。
「は、はいっ!」
『……メシはどうした』
「メシ!?」
そこ!?私は目を見開いた。夢に出てきてまで、用件はそれ!?
『腹が減った』
「いや、えっと……それは、分かりますけど……!」
分かるのが悔しい。あの巨体だ。そりゃ腹も減るだろう。むしろ、よく今まで耐えていたなと感心する。そう思うけど……。夢枕に立ってまで催促するな!
『貴様、約束したな』
「……しました」
『よって、メシだ』
「理屈が短い……!」
闇のドラゴンは、満足そうに喉を鳴らした。ゴロゴロ……という音が、地面を震わせる。猫の喉鳴らしの百倍は怖い。
『我は待つと言った』
「はい……」
『だが』
そこで、闇のドラゴンが――にやり、と笑った。ドラゴンが笑うと、笑顔のはずなのに、恐怖しかない。口角が上がるというより、牙が見える。
『待つのにも、限度がある』
「えっ」
私は思わず一歩下がった。足が動いた瞬間、床が黒く波打った。岩なのに、液体みたいに揺れる。夢ってそういうところがある。
『腹が減っては、話もできぬ』
「……それ、前回も言いましたよね!?」
私は叫んだ。いや、叫んだつもりだった。声が出たかどうかも分からない。だが、闇のドラゴンは楽しそうに目を細めた。
『よって』
ズン、と巨体が前に詰めてくる。距離が一気に消えた。近い近い近い! 顔がデカい! 口がデカい! 目が赤い!
『メシだ』
「待って待って待って! 夢の中で食べ物出せないですよ!? 私、スキルで出せるわけじゃないんですよ!」
『ならば起きて作れ』
「夢なのに!? 理不尽!」
闇のドラゴンは、堂々と胸を張った。
『理不尽ではない。契約だ』
「うっ……」
強い。論理が強い。ドラゴンの論理って、こういう強さなんだな……。私は膝をガクガクさせながら、必死に頭を回転させた。夢の中で作れない。起きて作れ。つまり、これは――脅し。いや、催促。いや、脅し交じりの催促。……どっちにしても嫌だ。
『貴様』
闇のドラゴンが、目を細めた。私は固まる。
『忘れるな』
「な、何を……?」
『我は、待っている』
その一言が、さっきより重かった。黒い岩の空気が、私の肺を押し潰す。息ができない。夢なのに息苦しい。
――これが、闇のドラゴンの「待つ」。待っているだけで、凄まじい圧がある。私は喉を鳴らして、必死に頷いた。
「わ、分かりました……! “なる早”で用意します……! 必ず……!」
『うむ』
闇のドラゴンは満足そうに頷いた。そして、最後に――大きく息を吸った。ゴォォ……と、世界が震える。嫌だ。ブレスはやめて。夢の中で焼かれたら、起きた後も火傷しそうだ。だが、吐き出されたのは炎ではなかった。
『……照り焼き』
その単語が、低く響いた。
『香りの強いやつだ』
「指定まで!?」
『当然だ』
闇のドラゴンは、堂々と言い切った。
『我は、闇だが……腹は減る』
「闇って何なんだよ……!」
私は思わず突っ込んだ。次の瞬間。黒い世界が、ぐにゃりと歪んだ。床が溶ける。壁が沈む。天井が落ちる。そして私は、真っ暗な穴に落ちるみたいに――――
「……っ!」
飛び起きた。汗だくだ。心臓がうるさい。胃が痛い。喉が渇いている。部屋は暗い。窓の外も暗い。夜中だ。私は布団の中で、しばらく動けなかった。
「……夢……だよね……?」
言った瞬間、腹が鳴った。……いや、違う。腹じゃない。胃だ。胃が、鳴った。これは空腹じゃない。恐怖で、胃が悲鳴を上げている。私は顔を覆った。
「……こんな時、閣下なら……」
口に出してしまって、余計に虚しくなる。ベッドの上に、猫はいない。私はゆっくりと起き上がり、枕元の水を飲んだ。冷たい水が喉を通って、少しだけ落ち着く。だが、落ち着いたところで現実は変わらない。闇のドラゴンは待っている。しかも、メシを。私は深く息を吐いた。
「至急、商会で買い物しないと……」
そう呟いた瞬間、背中がぞくりとした。夢の中の赤い目が、まだ瞼の裏に焼き付いている。私は布団に戻りながら、胃を押さえた。……寝る前に胃薬が欲しい。この世界に、胃薬はあるのだろうか。そんなことを考えながら、私はもう一度、目を閉じた。
――今度は、夢に来ないでくれ。心から、そう願いながら。




