第38話 樽不足。
鹿を確保した翌日。私は食堂の裏で、エリスさんとジルに囲まれていた。「囲まれている」という表現が正しい。エリスさんは腕を組み、ジルは紙に何かを書きながら私を見ている。視線が重い。ドラゴンの圧とは違う種類の重さだ。
「よし。肉は何とかなる」
エリスさんが言った。
「鹿は百匹、狩ってきましたからね」
「……百匹」
ジルが顔を引きつらせた。
「あなた、本当にやるのですね……」
「やると言いましたから」
私は頷く。すると肩の上で、猫が小さく「にゃ」と鳴いた。……褒めているのか、面白がっているのか分からない。エリスさんが指を一本立てた。
「問題は、酒だよ」
来た。私は小さく息を吸った。
「エールを樽で十、ですね」
「そうだよ」
エリスさんが頷く。
「樽で十って言った以上、樽で十なんだ。瓶で誤魔化すのは無しだよ」
「……分かっています」
分かっている。分かっているが――胃が痛い。ジルが紙を見ながら淡々と言った。
「本日は酒屋を回り、確保できる樽の数を確認します。買える分は即購入。残りは商会に手配を依頼します」
エリスさんが頷く。
「よし。行くよ」
私は頷いた。
「はい」
肩の上で、猫が短く鳴いた。……反応が読めないのが、一番腹が立つ。酒屋に入ると、店主が顔を上げた。
「いらっしゃい――おや? エリスさんじゃないか」
「久しぶりだねえ。ちょっと酒を分けてもらいたくてさ」
「もちろん――」
店主は言いかけて、私を見た。
「……何か、やらかした顔だな?」
私は反射的に言った。
「やらかしてません」
「嘘だな」
即答だった。怖い。エリスさんが、さらっと言う。
「樽で十、欲しいんだ」
店主の表情が固まった。
「……は?」
ジルが、横から補足する。
「エールを、樽で十です」
「……樽で十?」
店主はゆっくりと瞬きをし、それから私を見た。
「……誰が飲むんだ?」
私は答えた。
「ドラゴンです」
「……は?」
店主の口が、ぽかんと開いた。
「ドラゴン?」
「闇のドラゴンです」
「闇……」
店主の顔色が、ほんの少し悪くなった。ジルが、真顔で言う。
「襲われないための契約です」
「契約……?」
「交渉です」
店主は、深く息を吐いた。
「……交渉ねえ」
そして、カウンターを指でコツコツと叩いた。
「悪いが、今うちに出せる樽は三つだ」
「……三つ」
ジルが復唱した。その声が、やけに静かだった。私は肩の上の猫を見ないようにした。見たら、絶対に笑っている。
「……足りませんね」
ジルが言った。
「足りないね」
エリスさんが言った。店主も頷く。
「足りないな」
三方向から同じ言葉が刺さる。私は小さく呟いた。
「……足りない」
猫の尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。……笑うなよ。ジルが、店主に尋ねた。
「なぜ三つしかないのですか? 街の酒屋なら、もっと――」
店主が、首を横に振る。
「今は無理だ。樽が回ってない」
「樽が……回っていない?」
「ああ。酒がないんじゃねえ。樽がねえんだ」
「樽が……?」
私は思わず言った。
「……酒はあるのに、樽がない?」
店主は、面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「酒はある。だが樽はうちのもんじゃねえ」
「……え?」
店主は、指でカウンターをもう一度叩く。
「商会の樽だ。貸し出しで回してる」
ジルが目を細めた。
「商会が……樽を管理しているのですか」
「そうだ。樽一本ごとに金が付いてる。戻らなきゃ、こっちが損をする」
「保証金……」
ジルが紙に書き込みながら、呟く。
「つまり、“酒不足”ではなく“樽不足”……」
店主が肩をすくめる。
「空樽が戻ってこねえんだよ」
「戻ってこない……?」
店主は短く笑った。
「回収の馬車が止まってる。樽は重いし嵩張る。運ぶなら、食い物や武器が優先だ」
私は口を開けたまま固まった。……いや、待って。私、何と交渉してきたんだ?
エリスさんが腕を組む。
「中身じゃなくて容器が詰まってるのは、厄介だね」
店主が頷く。
「樽がないと、酒も動かねえ。動かせねえ酒は、あるようで無いのと同じだ」
ジルが淡々と言った。
「理解しました」
店主が言った。
「三つなら今すぐ出せる。だが、残りは無理だ」
ジルが即答する。
「三つは買います」
「え?」
私は反射的に声を出した。
「買うんですか?」
ジルが私を見る。
「買わない理由があるのですか?」
「……ありません」
正論で殴られた。今日も痛い。エリスさんが言う。
「とにかく確保できる分は確保。残りは次の店だよ」
こうして、樽を三つ確保した。
――たったの三つ。十のうちの三つ。残り七つ。私は、数字を頭の中で転がして――胃が痛くなった。次の酒屋。その次の酒屋。さらにその次。結果は、どこも似たようなものだった。
「うちは二つが限界だ」
「一つなら出せる」
「樽は無理。瓶ならある」
「予約分しかない」
ジルの紙が、どんどん黒くなる。エリスさんは、途中から表情が真剣になっていた。
「……思ったより厳しいね」
「はい、厳しいです」
ジルが即答した。私は、静かに呟いた。
「……交渉より難しくない?」
肩の上の猫は、何も鳴かなかった。……否定しろよ。最後の店を出た時点で、確保できた樽は――六つ。あと四つ。たった四つ。なのに、遠い。ジルが紙を閉じた。
「本日の成果は六樽です」
「六……」
私は言葉を失った。エリスさんが頷く。
「六でも上出来だよ。よく集めた」
「上出来……?」
私は遠くを見る。闇のドラゴンの顔が浮かぶ。
『酒もだ』
『樽で……?』
『十だ』
――そう、十。私は小さく息を吐いた。
「……足りない」
ジルが頷いた。
「足りません」
エリスさんも頷く。
「足りないね」
猫が鳴く。
「にゃーん」
……笑うな。私はジルに聞いた。
「残りは、どうします?」
「商会です」
ジルは即答した。
「商会に依頼し、樽の手配をします。……ただし」
「ただし?」
ジルがほんの少しだけ目を細めた。
「金がかかります」
「……ですよね」
エリスさんが苦笑した。
「商会は優しくないからねえ」
私は、胃を押さえた。鹿を狩って、肉を売って、照り焼きを作って。その上で、樽を十。
……私、何をしているんだろう。
その時、背中がぞくりとした。風が冷たいわけではない。空気が、重い。肩の上の猫が、急に静かになった。尻尾が止まっている。ジルも足を止めた。
「……シュン」
「はい」
「今、何か……」
言いかけたジルの声が震えた。私は、喉が乾くのを感じながら頷いた。
「……ええ。分かります」
そして、心の中で思った。――まさか、もう来るのか? 交渉は成立した。約束もした。だが、準備はまだ途中だ。それでも――ドラゴンは、待ってくれない。私は乾いた笑いを漏らした。
肩の上の猫が、私の首元に爪を軽く立てた。――合図だ。
「はあ……交渉より、催促の方が怖いな」
そんなことを考えつつ、重い足を引きずって、食堂の自分の部屋へ帰るのだった。




