第35話 史上最“怖”の帰り道
ふう。やっと、交渉が終わった。胸の奥に残っていた熱が、じわりと広がっていく。安堵なのか、興奮なのか、自分でも分からない。ただ――足が少しだけ軽い。
闇のドラゴンは、黒岩の上に腹を伏せたまま、黄金の瞳で私を見下ろしていた。さっきまでの圧は消えていない。むしろ、あの圧が“許された”からこそ、余計に重く感じる。……帰れる、よな? 私はもう一度だけ深く頭を下げ、踵を返そうとした。
『待たれよ』
低い声が、背中に刺さる。私は反射的に立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
『そなた――名を、何と言ったか?』
心臓が跳ねた。交渉は成立した。なのに、まだ終わっていない。……ここで失礼をしたら、全部台無しだ。私は背筋を伸ばし、改めて頭を下げる。
「申し遅れました。私はシュン=コーダと申します。どうぞ、お見知りおきを」
闇のドラゴンの瞳が、僅かに細くなる。そして次の瞬間。
『グワッハッハッハ!』
岩肌が震えるほどの笑い声が、巣窟に響いた。周囲のドラゴンたちが、びくりと身を強張らせる。
『シュン、だな。良い名だ』
良い名……? そんな感想、ある? まるで人間みたいだ。私は内心で突っ込みながらも、顔には出さない。こういう相手には、余計な反応は危険だ。
『また我に話を聞かせてくれるか』
「……はい。機会があれば、ぜひ」
言葉を選んだつもりだったが――闇のドラゴンは、満足そうに頷いた。
『機会など、我が作ってやる。もちろん、遊びに来るよな?』
いやいや、遊び感覚では来れないって! ここに向かうたびに覚悟して来るべきだろう。遊びって感覚じゃないんだよなぁ……。だが、私はここで「嫌です」と言えるほど命知らずではない。私は、笑顔を崩さずに頷いた。
「……はい。できる限り」
闇のドラゴンは、ふっと鼻を鳴らす。
『よい』
そして、顎をわずかに動かした。
『帰りは、あの道を通るがよい。ハザードはすべて回避できる』
「……え?」
思わず声が漏れた。そんな道、あるの? 私が言葉を失っている間に、両脇にいたドラゴンたちが、ゆっくりと動き出した。翼を畳み、爪を岩から離し、巨体が左右へとずれる。まるで――道を作るように。
黒い岩の回廊が開き、奥に続く通路が見えた。さっきまで“獲物”として通されていた道とは違う。どこか整然としていて、危険の匂いが薄い。……本当に、帰してくれるんだ。その事実が、遅れて胸に落ちた。
『グワッハッハッハ! 行け、シュン!』
闇のドラゴンの笑い声が背中を押す。だがそれは、追い払う笑いではなかった。……見送られてる、のか? 私は一瞬だけ呆然とし、それから慌てて頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そして、作られた道へ足を踏み入れる。左右のドラゴンたちは、私を見下ろしている。だが――牙は見せない。威嚇もしない。ただ、黙って“通す”。
これが、交渉成立の証明か……。喉が渇く。けれど、足は止まらない。やがて、巣窟の入り口が見えた。外の白い光が差し込み、冷たい風が頬を撫でる。
そして――
入り口の少し先で、腕を組んで待っていたジルが、こちらを見た。ジルは、私の姿を見て安堵した。……はずだった。
だが、次の瞬間。ジルの表情が固まる。私の背後、巣窟の奥から、ドラゴンたちが“道を作って”見送っている光景が、見えてしまったのだろう。
「……は?」
ジルの口が、間抜けに開いた。
「……ドラゴンが……道を、開けてる?」
ジルは私とドラゴンたちを交互に見て、目を丸くする。
「ま、まさか……」
そして、震える声で呟いた。
「……交渉、したのか?」
私は答えなかった。答えられなかった。ただ――背中に、まだ闇のドラゴンの笑い声が残っている気がした。
やっと交渉を終えて、ドラゴンの巣窟の出口をくぐる。冷たい外気が頬を撫で、ようやく肺に“外の空気”が入った気がした。
――次の瞬間。
「シュン! 大丈夫でしたか!?」
ジルが慌てて駆け寄ってくる。普段の落ち着きはどこへやら、顔が青い。
「それで……ど、どうなったのですか?」
私は、息を整えてから頷いた。
「ええ。交渉、無事成立しましたよ。これで安心して生活できますね」
「……は?」
ジルが、ポカンと口を開けた。目が、完全に点になっている。そして――ジルの肩の上から私の肩の上に戻ってきた猫が、こっそり笑っていた。声は出していない。だが、腹を抱えているのが分かる。肩が震えている。
おい。笑うなよ! そう思うが私は猫を見ない。見たら負けだ。この場で突っ込んだら、絶対に笑いが止まらなくなる。
「……交渉、成立……?」
ジルは、呟くように繰り返した。
「はい。条件は――」
私は淡々と、交渉内容を説明し始めた。
「まず、ドラゴンは無闇に街を襲わない。代わりに、私が定期的に食事を持っていく。照り焼きは今日の十倍。酒は樽を十――」
「……待ってください」
ジルが、両手で顔を覆った。
「頭に……入りません……!」
「え?」
「ドラゴンに……照り焼き十倍……? 樽十……?」
ジルの声が震えている。いや、私も言いながら思う。何だこの契約。その時。
「……ぷっ」
背後から、耐えきれなかったような音がした。……猫だ。とうとう我慢できず、口元を押さえて肩を震わせている。
「……おい」
私は低い声で呼びかけた。
「にゃっ……にゃー……!」
猫は誤魔化すように、わざとらしく鳴いた。だが、完全に笑っている。
「誤魔化すなよ! 笑ってるだろ!」
「にゃーん……!」
ジルが、私と猫を交互に見た。
「……シュン。あなた、何をしに行ったのですか……?」
「交渉です」
「交渉……?」
「交渉です」
私は真顔で繰り返した。ジルは頭を抱えたまま、呻く。
「いや、交渉の結果が……結果が理解できないのです……!」
猫が、ついに転げ落ちそうな勢いで笑い始めた。私は肩を押さえて、猫が落ちないように支える。この相棒、最悪だ……! 私は少しだけ頬を膨らませた。
「……もういいです。二人とも、聞く気ないですよね」
ジルは涙目で首を振り、猫は笑い転げている。私は深く息を吐いた。……交渉成立したのに、なんでこの扱いなんだよ! その瞬間、巣窟の奥から、低い笑い声が響いた気がした。
『グワッハッハッハ……!』
え、まさか……聞こえてないよね!? 聞こえてないよね!? 私は顔を引きつらせながら、そっと巣窟の奥を見ないようにした。
私は顔を引きつらせたまま、咳払いを一つした。……落ち着け。ここで変な空気を作ったら、余計に面倒になる。
「とりあえず……戻りましょうか」
「……戻る、とは……?」
ジルはまだ現実を飲み込めていない顔で、私の背後――巣窟の入り口を見た。そこには、道を作ったままのドラゴンたちがいる。……見送られている。私は、息を吐いた。
「……交渉より、説明の方が怖いな」
思わず、口から漏れた。
「照り焼きは十倍。酒は樽を十です」
「……は?」
ジルの顔が引きつった。
「無理でしょう!!」
叫びが森に響く。肩の上で、猫が小さく震えた。
「……笑うなよ」
「にゃーん……!」
誤魔化しているが、完全に笑っている。私は深く息を吸い、ジルに言った。
「……帰って、考えましょう」
――まだまだ、問題は山積みだった。




