第36話 結局は、狩り
街へ戻る道すがら、ジルはずっと頭を抱えていた。
「照り焼き十倍……樽を十……」
呟きが、もはや呪いみたいになっている。
「ジル、落ち着いてください。まだ“確定”では――」
「確定しているじゃありませんか!! あなたが約束したのでしょう!?」
正論で殴られた。痛い。私は肩の上の猫を見ないようにして歩いた。見たら、絶対に笑っている。いや、もう笑っている気配がする。肩が微妙に揺れている。
「にゃーん」
嘘だ。絶対に笑ってる。再会してからずっと笑ってる。閣下は笑い上戸だよね、お酒呑んでないのに。
「……君、今日は静かにしていてくれない?」
「にゃ?」
知らん顔をしているが、尻尾が楽しそうに揺れている。最悪だ。街の門が見えた頃、ジルがふっと立ち止まった。
「シュン」
「はい」
「あなた……本当に、行くのですか」
その声だけは、冗談じゃなかった。私は一瞬、答えに詰まる。だが、誤魔化せない。
「はい……行きます」
ジルは目を伏せた。
「そうですか……」
そして、次の瞬間。
「だからこそ、完璧な準備が必要です!」
顔を上げたジルの目が、完全に“戦場”だった。
「準備?」
「はい。あなたを送り出すための、完璧な準備です。まず、照り焼きです!」
「はい」
「十倍です!!」
「はい……」
「次に酒です!」
「はい」
「樽で十です!!」
「はい……」
私は頷くたびに、胃が縮んでいく。ジルは指を折りながら続けた。
「材料の確保。調理場の確保。保存。運搬。資金。人手……!」
「待ってください。人手?」
ジルは睨む。
「あなた一人で運べると思っているのですか?」
ジルには言っていなかったが、私のインベントリはスキルがMAXになるごとに、一つずつ増えていた。要は、現時点のインベントリは軽く二百を超えている。『照り焼き』を百人前だろうが、エールが十樽必要だろうが、余裕で運べる。自分で言ってても引くから内緒にしてるんだけどね。
「……運びます」
「いやいや、無理でしょう!」
即答だった。私は、反射的に猫を見た。見てしまった。猫は、当然のように目を逸らした。……こいつ。
「……君、手伝ってくれるよね?」
「にゃーん」
聞こえないふりをするな。私は咳払いをして、ジルに向き直った。
「分かりました。では、まずは食堂に――」
「ええ、食堂に行きましょう」
ジルがまた、即答した。
「エリスさんに泣かれる未来しか見えませんが……」
「泣かせません。交渉を成立させたあなたが、責任を取りなさい」
「責任……」
その言葉が重い。ドラゴンの圧より重い。食堂へ入ると、昼の仕込みの匂いが鼻をくすぐった。鍋の音。包丁の音。いつもの空気。平和だ。
――この平和を守るために、私はエール十樽を背負ったのだ。そう、自分でやったんだよなあ……。
「おや、シュンじゃないか」
エリスさんが顔を上げた。
「無事だったのかい? 遅かったから心配したよ!」
「はい、無事です。ご心配をおかけしました……」
私は頷いた。……頷いた瞬間、罪悪感が湧いた。エリスさんは私の顔を見て、すぐに察したらしい。
「……何か、やらかした顔だね?」
「やらかしてません」
「嘘だね」
即答だった。怖い。私は、覚悟を決めて言った。
「……交渉は成立しました」
「おお!」
エリスさんが目を輝かせた。ジルが、横で深く頷く。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「食です」
「食?」
エリスさんが首を傾げる。私は続けた。
「照り焼きを、定期的に」
「うんうん」
「今日の十倍」
「……うん?」
エリスさんの動きが止まった。私は畳みかける。
「酒も、エールの樽を十です」
「……樽?」
エリスさんが、ゆっくりと私を見た。その目が、優しさから、別の何かに変わる。
「シュン」
「はい」
「……あんた、何と交渉してきたんだい?」
「ドラゴンです」
「そりゃそうだよ! こんな無茶な!」
エリスさんが叫んだ。食堂の空気が止まる。周りの客が一斉にこちらを見た。私は小さく縮こまった。
「すみません……」
「謝る相手が違うよ!!」
エリスさんが、額に手を当てた。
「照り焼き十倍って……どれくらいだい?」
「……百人前くらいです」
「百!?」
エリスさんがひっくり返りそうになった。ジルが真顔で言う。
「しかも、定期的にです」
「定期的に!?」
エリスさんの視線が、遠くへ飛んだ。私は、そっと付け足す。
「……ドラゴンは“一口分”と言っていました」
「一口分で百人前!?」
エリスさんが両手で顔を覆った。そして、次の瞬間。
「……無理だろう!」
私は、ジルとエリスさんの顔を交互に見た。二人とも、完全に「終わった」顔をしている。
……そこまでだろうか? 正直に言えば、私はそこまで大変だとは思っていなかった。たしかに作るのは大変だ。だって百人前だし。普通なら地獄だろう。だが――材料は、ある。鹿のような魔物なら、街の近くの草原で狩ることができたはずだし、強くもなかった。
なら、極上の部位だけを分けて、残りは売る。金は回る。蜂蜜は希少だと言われたが、取りに行けばいい。私が動けば、タダだ。他の食材も同じだ。野菜も香草も、必要なら採ってくればいい。塩や酒だって、買う量が増えるだけで、やること自体は変わらない。
私はこれまで――【図鑑】を埋めるために、ずっとそうしてきた。狩って、集めて、運んで、売って、また狩る。……やることは、変わらない気がしていた。
――ドラゴンの巣に“遊びに行く”以外は。
そんなことを考えていた私は、ふと肩の上の猫が震えているのを感じた。
「……おい」
「にゃっ……にゃーん……!」
誤魔化しているが、完全に笑っている。私は天井を見上げた。交渉は成立した。だが、世界は私に優しくない。
「……まずは、材料の確保からですね」
ジルが、恐ろしく冷静に言った。エリスさんが呻く。
「……シュン。あんた、本当にとんでもないことを……」
「すみません……」
「いや、謝るんじゃないよ。やるんだよ」
エリスさんの目が、燃えた。……料理人の目だ。
「ドラゴンが食いたいって言ったんだろ?」
「はい」
「なら、作るよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
エリスさんは、ふっと笑う。
「ただし」
指を一本立てた。
「酒樽の十は知らないよ」
「ですよね」
私は即答した。肩の上で、猫が満足そうに尻尾を揺らした。……こいつ、絶対に楽しんでる。私は小さく呟いた。
「……交渉より、準備の方が地獄だ」
――私は遠くを見つめながら、明日から鹿を狩りに行こうと、有無を言わせぬ予定を立て……させられたのだった。




