第34話 『照り焼き』と『エール』の勝利!
照り焼きの香りはまだ残っている。だが、空気は甘くない。闇のドラゴンは黒岩の上に腹をつけたまま、黄金の瞳で私を見下ろしていた。さっきまで笑っていたのに、今は笑っていない。
――交渉の席だ。
ここから先は、失言ひとつで終わる。私は背筋を伸ばし、喉を潤すように唾を飲み込んだ。そして、頭を下げる。
「改めまして、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
『ふん』
ドラゴンは鼻を鳴らした。
『礼などいらぬ。用件を言え』
私は頷き、言葉を選びながら口を開く。
「私は――あなた方と争いに来たわけではありません」
『ほう?』
闇のドラゴンの瞳が細くなる。
『では、何だ。食い物を持ってきて、我らを飼い慣らすつもりか?』
来た。挑発だ。これは主導権の取り合い。どちらが有利に進めるかの大事な場面だ。私は笑顔を崩さず、首を横に振った。
「そんな恐れ多いことはしません。……ただ、私としましては、話し合いをしたいのです」
『話し合い、だと?』
ドラゴンは低く笑った。
『我らと“話し合い”ができると思っているのか、人間』
圧が増す。視線が刺さる。ここで折れたら終わる。だが、反発もダメだ。私は一度、息を吸ってから言った。
「できます。……少なくとも、私はそう信じています」
『グワッハッハッハ!』
ドラゴンが笑った。短く、鋭い笑いだ。
『信じる、か。良い言葉だ。だがな――』
ドラゴンは首を少しだけ傾け、まるで雑談のように続けた。
『我らは“ドラゴン”だ。お前たちの都合など知ったことではない』
「はい。承知しています」
私は即答した。ここで言い返したら負ける。あえて相手の土俵に乗る。
「だからこそ、お願いではなく――交渉としてお話を持ってきました」
闇のドラゴンの瞳が、僅かに細くなる。反応がある。悪くない。
『……言ってみろ』
私は頷いた。
「私は、あなた方が今後――人の街へ攻め込むことがないようにしたい」
『ほう』
ドラゴンは口角を上げる。
『つまり、我らに“我慢しろ”と言うのだな?』
うっ、そこをそう切るか。さすがだな。私は一瞬だけ言葉に詰まりそうになったが、踏みとどまる。
「我慢ではありません。……互いに、無駄な犠牲を出さないためです」
『無駄、だと?』
闇のドラゴンの声が低くなる。
『我らが腹を満たすことが“無駄”と言うか?』
そうは言ってない! 言ってないけど、たしかにそう聞こえるよね! 私は焦りを飲み込み、丁寧に言い直した。
「いえ。あなた方が生きるために必要なことを、否定するつもりはありません。ただ――」
私は、声を一段落とした。
「人が死ねば、街は壊れます。街が壊れれば、物が減ります。物が減れば、食べ物も酒も減ります」
『……』
ドラゴンが黙った。効いてる。理屈は通る。強者でも、腹は減る。私は続けた。
「私は、あなた方が“欲しいもの”を手に入れられる道を作りたいのです。戦争ではなく」
闇のドラゴンの目が、わずかに光る。
『欲しいもの、だと?』
「はい」
『例えば』
ドラゴンは楽しそうに言った。
『照り焼きか?』
そこに戻るんだ……。大層お気に召したようで、良くはあったが。私は苦笑いを浮かべた。
「……それも、含まれます」
『グワッハッハッハ!』
ドラゴンが笑う。だが、さっきの笑いより柔らかい。
『よい。続けろ』
私は頷き、核心へ入った。
「私が望むのは、一つです」
指を一本立てる。
「あなた方が、今後“人の街を襲わない”こと」
闇のドラゴンは、鼻で笑った。
『それは難しいな……』
――その口調が、妙に丁寧だった。うん? ……真似してきた!?
私は一瞬固まったが、すぐに理解する。これは揶揄いだ。私の話し方を、わざと真似ている。
『はあ。我らが腹を空かせた時、何を食えと言う?』
「……それは」
私は言葉を止めた。ここが勝負だ。ここで曖昧にしたら終わる。
「私が用意します」
闇のドラゴンの瞳が、すっと細くなる。
『ほう?』
私は続けた。
「すべてではありません。ですが、できる限り。あなた方が望む“食”を、定期的に持ってきます」
『……』
沈黙。私は喉が渇くのを感じた。
条件を出した。こちらのカードを切った。
次は相手が切ってくる。
闇のドラゴンは、ゆっくりと首を傾けた。
『お前一人で?』
「はい」
『面白い』
ドラゴンは笑わずに言った。
『だが、お前が来なくなったら? お前が死んだら?』
来た。そこだよね。私は頷いた。
「その場合は、交渉は破綻します」
正直に言った。ここで誤魔化すと信用を失う。
「ですが、私は死にません。逃げません。……そのために、ここへ来ました」
闇のドラゴンは、じっと私を見ていた。黄金の瞳が、私の奥を探っている。そして、唐突に言った。
『では、決裂で良いな?』
心臓が跳ねた。……来た。これは“決裂のフリ”だ。私は一瞬だけ息を止めた。だが、次の瞬間、前世の自分が背中を押す。ここで引いたら終わりだ。決裂を飲んだら、交渉は無になる。私は、笑顔を保ったまま言った。
「いいえ。決裂では困ります」
『ほう?』
ドラゴンの瞳が僅かに光る。私は続けた。
「あなた方も、困るはずです」
ドラゴンの眉――いや、鱗の奥が僅かに動いた気がした。
「私が持ってきた照り焼きとエール。あれは“今日だけ”の話ではありません」
「もし交渉が成立すれば、私はまた持ってきます。……もっと多く」
『……』
ドラゴンが黙る。私は畳みかけない。ここは沈黙を怖がらない方が勝つ。闇のドラゴンは、ゆっくりと息を吐いた。
『グワッハッハッハ……』
低い笑い。今度は、心底楽しそうだった。
『良い。良いぞ、小さき者よ』
ドラゴンは、私の目をじっと見つめて、頷く。それだけで、背中の冷えが少しだけ和らぐ。
『お前は、我らを恐れている』
「はい」
『だが、逃げぬ』
「はい」
『そして、我らの腹を満たそうとしている』
「……はい」
ドラゴンは満足そうに頷いた。
『よかろう。条件を出してやる』
来た。落とし所。私は背筋を伸ばした。
『我らは、無闇に街を襲わぬ』
心臓が跳ねる。だが、まだだ。条件が続く。
『だが、我らの縄張りに入る者は――例外なく食う』
うん、それはそう……。
『そして』
ドラゴンは、口角を吊り上げた。
『お前は、定期的に“食”を持ってこい』
「……承知しました」
『照り焼きは、最低でも今日の十倍だ』
「ええーー?」
思わず声が出た。
『何だ』
「……人間の百人前ですよ、それ……!」
闇のドラゴンは、平然と言い放つ。
『我の一口分だ』
まだ言う!? だが、私は笑った。笑ってしまった。この場で笑えるなら、交渉は勝ったも同然だ。
「分かりました。……努力します」
『酒もだ』
「樽で……?」
『十だ』
「増えてませんか!?」
『グワッハッハッハッハ!!』
闇のドラゴンが笑う。岩肌が震える。そして、笑いの余韻が消えた頃。ドラゴンは、ふっと声を落とした。
『――だが、約束しよう』
黄金の瞳が、真っ直ぐ私を射抜く。
『お前が来る限り。我らは、街を襲わぬ』
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
胸の奥が、熱くなる。恐怖が消えたわけじゃない。だが、ここまで来た意味が、確かに形になった。
『交渉成立』
――私は顔を上げ、前を見据えた。




