第27話 対峙の準備
前世では、数え切れないほどの交渉に挑んできた私だが、こういう場面で大事なのは――準備だ。
勢いで突っ込むのは、社会人として一番やってはいけないことだ。まずはトイレ。次に身だしなみ。服の乱れ、装備の位置、手の汚れ。ついでに口の中も軽くすすぐ。
……よし。これで「失礼があった」なんてくだらない減点は防げる。交渉の場で一番怖いのは、実力差じゃない。相手に「こいつは舐めていい」と思わせることだ。交渉に関係のないような私の行動に、ジルはソワソワして、何か言いたげな様子だったが。
「……よし。行こう」
「にゃ」
猫が当然のように頷いた気がした。街を出て、森を抜け、岩肌が剥き出しになった山のふもとへ向かう。
ふと空気が変わった。風が止み、鳥の声も消える。音が吸い込まれていくような、妙な静けさだ。
ここが――ドラゴンの巣窟。
入口は洞窟のように口を開けていた。奥は暗く、光が届かない。なのに、そこから漂う圧だけで、足が止まりそうになる。見えない。気配すら掴めない。だが、確かに“いる”。
私は息を整え、覚悟を決めて一歩踏み出した。その瞬間――低く、腹の底に響く声が洞窟の奥から降ってきた。
『手は出さないように言いつけてある』
鼓膜ではなく、骨に直接届くような声だった。身体が固まりそうになるのを、必死で押しとどめる。
『お前がその道を進み、ここまでたどり着けたなら……』
声は淡々としている。だが、その淡々とした響きが恐ろしい。こちらの命も価値も、同じ温度で測っている。
『話ぐらいは聞いてやろう』
私は唾を飲み込み、背筋を伸ばした。
――ここからが、本番だ。
★★★
洞窟の中へ足を踏み入れた瞬間、空気が重くなった。冷たいというより、圧で押し潰されそうな感覚だ。左右に、影がある。いや――影ではない。巨大な鱗。折り畳まれた翼。鋭い爪。息遣いだけで、胸の奥がざわつく。
ドラゴンの群れだ。
私は視線を合わせないようにしながら、真ん中の道を進む。まるで、獣の檻の中を歩いているみたいだった。その時、また洞窟の奥から声が落ちてくる。
『――止まれ』
足が止まった。止めたのではない。止められたのだ。勝手に、身体が従ってしまう。
『話をする権利を与えるのは、一人だけだ』
……一人だけ? 嫌な予感がした瞬間、声は淡々と続けた。
『猫と、人間の護衛。置いて来い』
背中がひやりと冷えた。隣を見る。猫――閣下は、相変わらず平然としている。その尻尾だけが、ゆっくりと一度揺れた。
ジルは一歩前に出しかけた。私を守る位置に立とうとしたのだろう。だが、踏み出した瞬間に――動きが止まる。まるで「これ以上は許さない」と、空気に押さえつけられたみたいに。
『お前だけが進め』
声は、命令だった。拒否権なんて最初から存在しない、そういう言い方。私は喉の奥が乾くのを感じながら、息を吸った。
……交渉の最初の一手が、これか。なるほど。味方を外す。会議室でも戦場でも、やることは同じだ。
背中に冷たい汗が流れるのに、頭だけは妙に冴えていた。閣下をジルの肩へ預ける。ジルと目が合った。互いに、頷く。
――そして、前を向いた。拳を、静かに握りしめて。




