第26話 狂気の香り
――やばい。完成する前に、食堂の連中に狙われている。
私は背中に刺さる視線を無視して、鉄板の前に集中した。火加減は弱め。焦がさない。だが、香りは最大限に立たせる。タレを鍋で少し煮詰める。甘い酒のアルコールが飛び、蜂蜜の香りが濃くなる。香草の匂いが鼻を刺す。ここに肉の脂が混ざったら――勝ちだ。
「シュン、焦るんじゃないよ。火は嘘をつかない」
エリスさんが、妙に格好いいことを言った。……料理人ってこういう時、頼れる。当たり前か、その道のプロだもんね。
「はい……!」
私は肉を一枚ずつ返し、タレを絡め、また返す。鉄板の上で、肉が艶を帯び始めた。照り。黄金色の光。甘辛い香りが、今度こそ“焦げ”ではなく“ご褒美”として立ち上る。
食堂側が、静まり返った。いや、正確には――全員が息を呑んだ。
「……おい」
「今の匂い……やばくないか」
「腹が……腹が勝手に鳴る……!」
聞こえる。聞こえるぞ。私の背後にいる人間たちの胃袋の悲鳴が。肩の上では、閣下が満足そうに喉を鳴らした。
「ククク。良い。実に良い匂いだ」
「……褒めてくれてるのは嬉しいですけど、今は邪魔しないでくださいね」
「邪魔などしておらぬ。むしろ――味見をだな」
「言うと思った!」
私は即座に肩を睨んだ。閣下は、尻尾をゆらりと揺らし、当然のように言う。
「貢ぎ物とはいえ、味見もせずに出すのは失礼であろう?」
「ドラゴンに失礼とかより、俺の命のほうが大事です!」
「にゃ」
周りには可愛い鳴き声にしか聞こえないだろう。なのに、言っていることは恐ろしい。猫のくせに。私は皿を取り、肉を盛りつけた。タレをとろりと回しかける。光が増す。照りが深まる。……見た目の破壊力が凄まじい。
「……できた」
思わず、声が漏れた。エリスさんが皿を覗き込み、目を丸くする。
「……あんた、これ……」
「どうですか」
「うちの食堂じゃ、祭りの日でも出せないね」
「え?」
「材料が高級すぎるって意味だよ!」
エリスさんがバン、と台を叩いた。
「上物の肉に、希少な蜂蜜。香草もいいやつを使ってる。これ、貢ぎ物じゃなかったら、客に恨まれるよ」
「いや、もう恨まれてる気がします……」
私は食堂側を振り返った。見た瞬間、後悔した。食堂の客が、こちらを見ている。誰一人としてよそ見せず……全員が全員、こちらを凝視している。目が笑っていなくて怖い……朝食中のはずなのに、目が完全に獲物を狙う野獣だ。
「おい、あれ……何だ」
「今、皿に盛ったぞ」
「……食わせろ」
圧がすごい。怖い。ドラゴンより怖いかもしれない。
「シュン、名前をつけよう」
「名前?」
「料理には名前がいるだろう? あんたの世界の名前は……照り焼き、だったかい?」
「はい」
「じゃあ、うちではこうだ。――『蜜照り焼き』」
エリスさんが宣言した瞬間、食堂が爆発した。
「蜜!?」
「蜂蜜!?」
「絶対うまいやつじゃん!!」
「いくらだ!? いくらで食える!?」
客が一斉に立ち上がった。椅子がガタガタ鳴り、皿が揺れる。朝の平和は完全に消え去った。
「ちょ、ちょっと待ってください! これは――」
「ドラゴンの貢ぎ物だろ?」
誰かが言った。正論すぎる。突き刺さる。ぐうの音も出ない。私は皿を抱え直し、後ずさった。何だこの状況。貢ぎ物を作りに来ただけなのに、なぜ私は今、食堂の客に追い詰められているのか。閣下が、肩の上で「ククク」と笑った。
「ほら見よ。貢ぎ物とは、こうして価値が生まれるのだ」
「今は哲学してる場合じゃないです!」
客の手が伸びてきた。目が真剣すぎる。やめて。これは私の命綱なんだ。
「シュン、あんた、味見しないのかい?」
エリスさんが言った。悪魔みたいな誘惑だ。
「……したいです」
思わず本音が出た。
「だろう? ほんのちょっとだけ――」
「ダメです!」
私は自分で自分を止めた。ここで味見したら終わる。絶対にもう一口欲しくなる。そうしたらドラゴンに出す分が減る。減ったらどうなる。私が貢ぎ物になる。私は肩の上の閣下を睨んだ。
「……ダメですよ」
「いや、味見だ」
「即答!?」
「当然だ。君が味見をして、さらに良くするのもまた――」
「ダメ! 今のは、俺の精神を折るための言葉でしょ!」
私は皿を抱え、最後の手段に出た。
――インベントリへ収納。すうっ、と。湯気が消えた。匂いが消えた。照りの光が消えた。世界が静かになった。次の瞬間。
「うわああああああ!!」
「匂いが消えた!?」
「返せ! 俺の匂いを返せ!」
「今のは幻だったのか……!」
阿鼻叫喚だった。何でだ。何で匂いだけでここまで騒げるんだ、この世界の人間は。エリスさんが腹を抱えて笑い転げる。
「はははっ! シュン、あんた、本当に面白いねえ!」
「面白がってる場合じゃないですよ……」
私は息を吐き、肩の上の閣下を見る。閣下は満足そうに尻尾を揺らしていた。
「ククク。良い。実に良い。これならドラゴンも喜ぶであろう」
「……喜ぶだけならいいんだけどね」
私は調理場の出口に向かう。背後から、食堂の客の声が飛んでくる。
「蜜照り焼き、いつ出るんだ!?」
「高級枠でいい! 金なら払う!」
「次は俺の番だぞ!」
エリスさんが腕を組み、堂々と言い放った。
「うるさいよ! シュンが無事に生きて帰ってきたら、考えてやる!」
その言葉に、食堂が一瞬だけ静まり返った。
……生きて帰る。そうだ。私はまだ、ドラゴンの巣窟にすら入っていない。
インベントリの中には、黄金色の貢ぎ物。食堂には、新たな名物メニューの予感。そして私の向かう先には――本物のドラゴン。
私は小さく呟いた。
「頼むから、食われるのは料理だけで……」
「ククク。さて、行くぞ、シュン」
「行きますよ。……行くしかない」
こうして私は、人生で一番真剣に作った料理を携え、ドラゴンとの対話と言う名の献上へ向かうことになったのだった。




