第十六話-1
普段は使われていない非常階段の扉。
鍵は掛かってはいないし、手入れもされていて、開けにくいという事もない。
アニメやドラマだと、蝶番が錆びて大きな音がする事もあるけれど、幸いそんな事はない。
全くの無音ではないけれど、少し離れれば聞こえない程度の音。
柚葉ちゃんを驚かすような事は無いでしょう。
息を細くゆっくりと吐いて、心を落ち着けてから、大きな足音を立てないよう気を付けながら踊り場に足を進める。
ゆっくりと首を上げ、階段上に目を遣ってもそこには人影が無い。
おやっ?と、少し首を傾げる。
私なら、人が来た時にすぐに判るよう、高いところに陣取るのに・・・。
まあ、見つかって逃げられても困るし、ここは良かったと考えましょうか。
そして、ゆっくりと下り階段側に足を運び、こっそりと覗き込めば、下側の踊り場に向かって座り込む人影がひとつ。
お弁当を食べているような様子ではない・・・?
手元は然程動いてない様で、身動ぎすらほとんど判らない。
私は足音も振動もなるべく起こさないよう、ゆっくりと忍び足で階段を下る。
一歩。
また一歩と、距離が縮まる。
静かに・・・息が詰まりかける。
それでも・・・。
後ろか近づけば、その手元が見えて来る。
そこにあるのは、小説の本。
ここしばらく、柚葉ちゃんが読んでいる小説なのでしょう。
ゆっくりと目で文字を追っている・・・。小さく首が上下し、時折左へ左へとを動くのが判る。
もう一歩、足を進めたところで立ち止まり、少しだけ笑顔を作ってから、その人影に声を掛ける。
「・・・見つけたよ」
その声が届くと、彼女はゆっくりと振り返り、私を見上げる。
・・・瞳はやや虚ろで、僅かに涙が浮かんでいた。
目元は赤く、潤んだ瞳の先が僅かに定まらない。
ああ、柚葉ちゃん・・・。
その胸の内を、私は察する事が出来ない。
だからこそ苦しい。怖い・・・。
今までの『可愛い柚葉ちゃん』を脱いで、今無防備になった心にどう触れれば良いの?
判らない。
でも、今までの私なら、こんな柚葉ちゃんの姿を見る事も出来なかったんじゃないかな。
きっと、見なくても良いように立ち回っていたと思う。
でも、それは優しさじゃない。
ただ、私が嫌だっただけ。
そんな領域に踏み込むのが怖かっただけ・・・。
それほどに深く関わり、そして・・・離れてしまうのが。
私の勇気の無さが。
「・・・碧さん・・・どうして?」
僅かに驚きを含んだ瞳が、私を捉える。
手元の本を持つ手が僅かに緩み、開いていたページが揺らめくと、巻いた風が周囲の埃を彼方へと運ぶ。
私は、柔らかく微笑みながら階段を降り、柚葉ちゃんの隣に腰を下ろす。
ゆっくりと彼女の瞳を見つめ、目を細めて笑いかける。
そして、小さく・・・囁くように、
「柚葉ちゃんと一緒に居たくて・・・だから、来ちゃったっ」
そう、短く告げた。
迷惑だったかもしれない。
その考えは、今でも私の中にある。
それでも、私はもう自分に嘘は吐きたくない。
柚葉ちゃんは友達・・・大事な、大事な友達。
傷つけてしまった事実は消えないけれど、それだけで離れたくはない。
だけど・・・。
胸の奥にある蟠り。
ざわつくような、何かに握られるような・・・この気持ち悪さ。
自身の勝手と、今までの価値観が、私の中でぶつかっているのかしら・・・。
「そう・・・そうなんだ・・・」
少しだけ目を逸らしながら、柚葉ちゃんは呟く。
そのまま、お互いに次の言葉が継げない。
喉が干上がるような感覚が伝わり、僅かに指先に力が入る。
握り込んだりはしないけれど、それでも骨が軋もうかという、嫌な力の入り方・・・。
沈黙がこの音のない空間を掛け、呼吸音だけが響いて行く。
ただただ、長い・・・僅かな時間の静けさ。
その沈黙に耐えられない私が、口を開こうとした、その途端・・・。
『くぅううぅぅぅ~・・・』
・・・
生理現象って、なんでこう緊張感が高まった時や、何か気持ちが昂った時に出るのでしょうか・・・。
何かの本に書いてあったかしら・・・。
お腹の音が鳴ったのが合図であるかのように、私も柚葉ちゃんも小さく笑いだす。
私は顔を真っ赤にして、柚葉ちゃんは目元に溜まっていた涙を流しながら、ふたりで顔を合わせながら・・・。
「あははははっ」
「もうっ!柚葉ちゃん、笑いすぎですよ・・・あはははっ」
「ふふっ・・・ごめんね、碧さん。でも・・・あはははっ」
「あははっ・・・ふふっ・・・」
ふたり身体を寄せ合い、ひと仕切り笑いあう。
今までの緊張感を振り払うように、ただ何も無く・・・。
「はあっ」
小さく息を吐いて、笑いを納める。
まだ顔の緩みは治まらないし、気持ちも緩んだままだけど、これで良いのかもしれない。
ずっとずっと・・・誰かの気持ちに寄り添っていなかった私は、相手との距離を測りながら、緊張し続けていたのかもしれない。
近づき過ぎないよう、離れ過ぎないよう・・・。
人とぶつからないよう、人がぶつからないよう・・・。
初めて・・・そう、あの子の時以来、初めて誰かの隣に居られている気がする。
なのに・・・。
『ごめんね、柚葉ちゃん』
私は心の中で、小さく呟く。
「ねぇ、碧さんはお昼食べてないの?」
柚葉ちゃんは、少し不思議そうな顔で、そう問い掛ける。
「え?あ、うん。・・・実はまだなんです」
当然ながら、『柚葉ちゃんを探して、お昼を食べてない』・・・とは、言う気にはならない。
とは言え、そう時間は掛かってないので、柚葉ちゃんも食べる時間が十分にあったとは思えないけれど・・・。
「そっかー・・・。じゃあ、ここで食べちゃう?」
「え?・・・うん、そうですね。・・・柚葉ちゃんは、もう食べちゃたんですか?」
その言葉に、少し困ったような顔をする柚葉ちゃん。
「うん。・・・あんまり食欲無かったから、今日はサンドイッチだけでね・・・。あはは・・・」
いつも元気で、お母さんの作ってくれたお弁当を楽しみにしてた柚葉ちゃんなのに?
やっぱり、思う事があるんでしょうか。
「じゃあ、お言葉に甘えて。・・・でも、その間、柚葉ちゃんは?」
「あたしは、ほら・・・小説読んでるから、気にしないで?」
そう言って、手元にある小説を見せてくれる。
先日から、時々教室でも読んでるその小説は、確か如月くんも読んでいたような・・・?
見れば、カバーの前側は所々に歪みがある。
きっと何度も何度も、繰り返し読んでいるのでしょう。
でも、その割に後ろの方は新しいまま・・・?
最後までは読み切ってないの?




