第二話-2(改)
玄関には、昨日のうちに買っておいた仏花がバケツに生けられている。
靴箱の上には帆布の手提げ袋。中には線香とライターが。
それを手に台所へ向かい、ペットボトルに水を汲む。
冷蔵庫からお茶の入ったボトルと、おはぎが二つ入ったパックを取り出し、割りばしと小さなごみ袋も袋に入れる。
準備を終えると、仏花を抱えて家を出た。
まだ東の山の尾根から、太陽がわずかに顔をのぞかせたばかりだ。
家の前の細い小道を、蜜柑山へ向かって歩き出す。
人が二人並ぶのも難しいほどの細道。
向こうから誰かが来れば、互いに身を寄せ合って譲り合わなければならない。
背後に長い影を引きながら、吹き下ろしてくる朝の風を頬に受けて歩く。
左手の空き地には、誰が蒔いたのか季節の花が咲き誇り、目を楽しませてくれる。
古く、細い道。
蜜柑山へ続く道。
真と一緒に駆けた、思い出の道。
あたりの家々も、そろそろ起き出す時間なのだろう。
あちこちからテレビの音が漏れ聞こえる中を、私はひとり歩く。
しばらく進むと、蜜柑山へ続く登り口に着く。
地域の人たちが手入れしてくれているおかげで、下草は短く刈り込まれ、芽吹いたばかりの若い草が青い香りを漂わせていた。
大きく息を吸い込むと、草の匂いが肺を満たし、少しだけ心が落ち着く。
少し広くなった道の脇には、小さく古びた社があり、その前に石造りのお地蔵様が祀られている。
夏休み、お盆の頃になると、地域の子どもたちが集まって手を合わせる地蔵盆が開かれる。
私も子どもの頃は参加したし、父もそうだったと言っていた。
祖母の代から続いていたらしいから、きっと長くこの土地に根づいた習わしなのだろう。
私はお地蔵様の前に跪き、仏花を両脇の花立てに。
水を注ぎ、線香に火を灯して供える。
おはぎもそっと置き、背筋を伸ばして両手を合わせた。
毎週、日曜日には必ずここへ来る。
雨の日も、雪の日も、元旦であっても日曜なら欠かさない。
私の願いが叶うまで、何度でも。
もし叶ったなら、そのお礼のために。
きっとこれから先も、ずっと。
私はここに跪き続けるのだろう。
「真の左手が、良くなりますように……」
何度願っただろう。
私のすべてと引き換えでもいいと、何度も。
神様にも仏様にも縋るしかない自分の無力さを思い知らされながら、それでも祈ることしかできなかった。
しばらく手を合わせたあと、おはぎを下げて一礼し、立ち上がる。
昇り始めた陽がお地蔵様を照らしていた。
山道へ踏み出そうとした、その時。
背後で、砂利を踏む音がした。
一歩、また一歩。
ためらいがちな足音が近づいてくる。
そして、小さな声。
もう聞き慣れた声だった。
「……瑠璃?」
背後から呼ばれ、ゆっくり振り返る。
そこには真が立っていた。
わかっている。
もう何度も見ている。
それでも、その姿を見るたびに胸が痛む。
私を守るために左腕の自由を失い、その傷も癒えないまま、理不尽に女の身体へ変わってしまった真。
その顔を見るたび、今でも泣きそうになる。
気づかれないように、胸の奥で必死に押し殺す。
……とはいえ。
長袖のTシャツにショートパンツ、スニーカーという無防備な格好に、思わず眉を寄せそうになる。
真は、自分がどれだけ可愛くなったのか、自覚が足りなさすぎる。
もし私以外の誰かに告白でもされたら、どうするつもりなのだろう。
……もし。
私以外の誰かが、真の隣に立つ日が来たら。
その想像だけで、胸の奥に影が差す。
それでも、なるべくいつも通りに。
何でもない顔で。
「真? こんな朝早くからどうしたの? いつもなら、まだ寝てるくせに」
少しだけ素っ気なく。
けれど笑顔は崩さずに。
「あぁ、ちょっと目が覚めて……外を見たら瑠璃が見えたから……」
「なぁに? それでここまで来たの? 私じゃなかったら、ストーカーだって騒がれてたかもしれないのに?」
少し意地悪く言ってみる。
本当は、そんなことを言いたいわけじゃないのに。
「うん……なんだろ……瑠璃が泣いてる気がして、ちょっと慌てちゃって……」
その言葉に、胸が止まりそうになる。
……私が泣いていたことまで、わかるの?
確かに家を出る前は泣いていた。
でも、涙は拭いた。目元も隠した。
それなのに。
線香の煙が目に沁みて、また泣きそうになる。
そんな顔を見せたくなくて、私は視線を逸らし、山道の方へ向き直った。
数歩、先へ進む。
「私が泣くわけないじゃない。今日は少し、蜜柑山を散歩しようと思って出てきたのよ」
「散歩?」
私は腰に手を当て、わざと背筋を伸ばしてみせる。
「そうよ? このスタイルだって、日々の努力の賜物なんだから」
少し笑ってから、振り返る。
「……そうだ、真も一緒に歩きましょう? 朝の山って、気持ちいいわよ」
返事を待たずに近づき、真の左手を取る。
半ば強引に、そのまま山道へ歩き出した。
昔みたいに。
「え? ちょ……ちょっと、瑠璃!?」
戸惑った声が背中から追いかけてくる。
その響きが、幼い頃に一緒に山を駆け回った記憶を、懐かしく連れてきた。




