第二話-1(改)
日曜日、朝六時前。
初夏へ向かうこの時期、山の端が淡く輝き始めるその瞬間を、私は窓辺で静かに眺めるのが好きだった。
もやの中を、羽を伸ばして縦横に駆ける鳥を目で追うのも好きだ。
山を越えて吹き下ろしてくる風が肌を撫でる感触も。
まだ何も決まっていない一日の始まりに、真っ先に飛び込んでいくような高揚感が好きだった。
窓を大きく開け、背筋を伸ばして肺いっぱいに朝の空気を吸い込む。
わずかに残っていた眠気が、霧が晴れるように消えていく。
東の山際、木々の隙間を朝の光が貫き、風が運ぶ緑の匂いが鼻をくすぐった。
昇り始めた陽に照らされて、海の水面が輝く。
目の前に広がる海は、風に撫でられて細かく波立ち、まるで宝石を散りばめたように光を乱反射していた。
もう一度、大きく両腕を伸ばす。
肺を朝の空気と光で満たしきってから、小さく「よし」と気合を入れる。
――その前に、カーテンを閉めて。
着替えたのは、中学時代のジャージだった。
学校名も入っていない、ごく普通のもの。
今では父の手伝いで蜜柑山に入る時の作業着になっている。
子どもの頃から遊び場だった蜜柑山。
祖母が管理していたのも、もうずいぶん昔のことだ。
真が私を庇って左腕の自由を失って、ほどなくして祖母は病で亡くなった。
けれど、ふたつの大きな喪失に沈んでいる時間を、蜜柑は与えてくれなかった。
雨の少ない夏には水を汲み上げ、木々に与えて回る。
虫がつかないように薬を撒き、収穫期になれば土日を丸ごと山で過ごす。
父も母も妹も、家族みんなで広い山を手入れしていた。
あの頃は、何かしていなければ心が砕けてしまいそうだった。
その中でも私は、時間がある限り真の隣にいた。
あの夏から数年が経った今も、蜜柑山の朝は私を呼ぶ。
――お前の罪を忘れるな。
そう、言外に囁くように。
忘れるわけがない。
真の左腕が自由を失った日、私は初めて、自分の無力さに震えた。
真が入院していた頃は、時間が許す限り病室へ通った。
学校へ行けないあいだ勉強が遅れないように、授業のノートを見せながら、一緒に勉強した。
左手のリハビリの時も、私は隣にいた。
傷ついた神経のせいで、半分しか動かない左手。
真は歯を食いしばって、何度も何度も訓練を繰り返した。
最初の頃は、指先をわずかに動かすだけで疲れ果てていた。
それでも数か月かけて、日常生活に困らない程度までは回復させた。
そのあいだに見続けた涙。
あれがどれほどの痛みで、どれほどの絶望だったのか、私には想像もできない。
私にできたのは、ただ隣で励ますことだけだった。
せいぜい、荷物を持つくらい。
無力。
どれだけ訓練を重ねても、真の左手は力を失ったままだった。
薬指と小指は、以前の半分ほどしか動かない。
どれだけ力を込めても、子どもの手ほどの力しか出ない。
瞬間的に握り込むこともできない。
その時、思い出した。
剣道では、竹刀は左手の小指で握る感覚が大事なんだと、真が笑いながら話していたことを。
その記憶が蘇った瞬間、目の前が真っ暗になった。
手も足も震えが止まらず、眩暈と耳鳴りが襲う。
心臓が壊れそうなほど打ち続ける。
涙も鼻水もぐちゃぐちゃのまま、私は真に縋りついて謝り続けた。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
あの日、左手を失った時の、真の呻くような声が今でも耳に残っている。
私が。
私が真の夢も、未来も、希望も、全部壊してしまった。
私は、真の力になれていない。
真は私のために左腕の自由を失ったのに、私は何ひとつ返せていない。
彼は、どれほどのものを差し出してくれたのだろう。
左手の自由。
それは本来進めたはずの道。
好きだった剣道。
それは彼の夢であり、目標であり、未来そのものだった。
そのすべてを投げ出して、真は私を守ってくれた。
自分の未来より、私の身体を選んでくれた。
――私は、その彼に相応しいのだろうか。
答えは、最初から出ている。
相応しいわけがない。
私に返せるものなんて、何もない。
ただ親に食べさせてもらっているだけの、無力な子どもだ。
心のどこかで、いつも声がする。
お前の存在が、彼の不幸だ。
お前がいるから、彼は過去に縛られている。
お前さえいなければ。
彼の左手は無事だった。
未来は、もっと輝いていた。
全部、お前のせいだ。
「……私の、せいだ……」
言葉が零れた瞬間、胸が締めつけられる。
動悸が激しくなり、呼吸が浅くなる。
その場にしゃがみ込み、肩を震わせながら息を吐く。
何度も、何度も。
肺の奥を締め上げられるように。
脂汗が額を伝い、涙が次々と溢れた。
私はタオルに顔を埋め、声を押し殺して泣く。
自己嫌悪と罪悪感が心を責め立てる。
誰にも話せない。
家族にすら。
こんな感情を知られたら、真に申し訳ない。
だから全部、自分の中に押し込めるしかない。
しばらくして。
荒い呼吸がようやく落ち着き始める。
涙で赤くなった目元を隠すように、少しだけメイクをした。
いつの間にか陽は高くなり、閉じたカーテンを淡く照らしている。
やわらかな明るさが、少しだけ胸のつかえをほどいてくれる。
そして、ふと左手を見る。
……この腕を、彼に差し出せたら。
もちろん、不可能だとわかっている。
それでも考えてしまう。
左手を胸に当てる。
柔らかな感触に触れた瞬間、別の考えが頭をよぎった。
この身体を差し出せば。
彼の痛みを、少しは癒せるのだろうか。
愛されなくてもいい。
ただ、彼の失ったものの代わりに、ほんの少しでもなれるなら。
「……馬鹿も休み休み考えなさいよ……」
思わず自分に吐き捨てる。
頭を振って、その考えを追い払う。
真がそんなことを望むはずがない。
もし口にしたら、きっと軽蔑される。
自分の未来と引き換えに守った相手が、こんな愚かなことを考えていたと知れば。
だから。
私は背筋を伸ばす。
真の隣にいて恥ずかしくない女になる。
選ばれなくてもいい。
誰よりも彼のことを考えられる女になる。
そうしなければならない。
心の中で強く言い聞かせ、両手で頬を叩く。
そして私は、部屋を後にした。




