第十三話-4
誰もいない家。
あたしだけが動いてる、あたししかいない空間。
階段の板を踏む音が壁で響き、その余韻が消えぬ間に、次の板が音を奏でる。
そっと踏む。
少し強く。
軽やかに。
どれも違う音。
台所のドアノブに手を掛け、軽く回す時のバネの音。
家の外で吹く風が僅かに家の中を通り過ぎ、ドアをを引く手に力が籠る。
灯りも点いていない台所。
テーブルの上には、朝ごはんのベーコンエッグと野菜サラダ。
コンロには、あたしひとり分のお味噌汁。
そして、お昼のお弁当が、粗熱を取る為に蓋をされずに置かれている。
隣には、ランチクロスとお手拭き。
もう見慣れた、いつもの朝。
あたしひとりだけの朝食。
足を運ぶ都度スリッパが床を叩き、短く、ゆっくりと音が逃げていく。
台所から続く居間。その間を仕切るアコーディオンカーテン。
見なくても判る、誰もいない空間。
夜、団欒の時にはあれほどに音に溢れた空間なのに、今は時計の音すら響かない。
窓から入る光は淡く、テーブルの一隅を照らす。
あたしは、自らの身体に意識を向ける。
心臓の鼓動、骨の軋む音すら聞こえてきそうな静寂。
衣擦れの音、肌が触れる音が、振動としてあたしに伝わって来る。
ひとり。
『あかり』ちゃんの夜のように、あたしはひとり。
音のない世界は、全ての事柄からあたしを取り残しているのだろうか。
今、胸にあるのは不安じゃない。
ただの現実。
あたししかいない世界があるという現実が、胸の中に染みて来る。
それと同時に、喉が渇きを訴える。
ああ、と思い、コップを手に取る。
隣のコップに触れる時の感触、小さく響く音。
蛇口が跳ね、水が踊る。
手に掛かる重さ。
濡れる感触。
口をつけ、喉に流れる冷たさ。
ひと息に飲み、息を吐いた時に広がる熱。
身体の中に染み込んで来る水が、意識に流れて来る小さな音を、刺激を押し流す。
ひと際大きく息を吐くと、少しだけ気分が軽くなった気がする。
今日は、あたしはひとりで良い。
・・・
朝食を摂り、身嗜みを整える。
学校はサボるけど、だからと言って終日パジャマのままではいられない。
髪だって整えるし、メイクだって・・・いつもみたいにはしないけど。ナチュラルメイクくらいはしておく。
制服に着替えて、スカートは・・・もう折らなくて良いかな。・・・うん。
姿見鏡の前に立ってみれば、入学式の時以来だろうか、制服を着崩していないあたしがいた。
ふわり、ふわりと身体を左右に捻り、スカートを翻してみる。
いつもに比べれば裾が踊るような事も無く、まるで別人を見ているよう。
肩越しの鏡に見えるあたしは、もういつものあたしじゃない。
「・・・これなら、坂の吹き下ろす風でも安心かー・・・」
普段の可愛さを重視した折り丈だと、強い風が吹き下ろす時にスカートが捲れて『見えて』しまわないか不安があるけど、これなら・・・。
「この長さに慣れちゃおうかな」
鏡の前にまっすぐに立ちながら呟く。
少し額が出る様にしてる前髪も、もう落としたままにしようか。
目に掛からないくらいの長さに揃えて、サイドから後ろの髪も巻かないようにしようかな。
『誰からも可愛いって思われる柚葉ちゃん』になるのも、今は無理かもしれない。
うん。
良いんだ。
これもあたしなんだ。
だから・・・しばらくは、さよなら。『可愛い柚葉ちゃん』・・・。
鏡の中のあたしも、少しだけ微笑んでいる。
「・・・さて」
ちょっとだけ腕を広げて胸を開く。
大きく息を吸うと、少しだけ気持ちが晴れたように感じた。
息を止めないようにしながら上体を前後左右に振ると、強張っていた首から背中が解れるよう。
「ん~~~~・・・っ」
背中や肩回りが伸びるのが心地良い。
何度か深呼吸を繰り返してから、両手で軽く頬を叩く。
その手で口元を隠して、小さく・・・『今日は、あたしはあかりちゃん・・・』。
そう呟く。
学校には電話で休むことを伝える。
その後で、冷蔵庫から冷えたお茶を水筒に注ぎ、部屋に戻る。
勉強机の上の時計を見れば、始業時間まで少しだけ間があった。
だから・・・。
そっと・・・少し、5cmほど窓を開ける。
外からは見えないか、気付かれない程度。
でも、外の音と風をあたしの元に届けてくれる。
ふわりを髪が舞い、壁のカレンダーの裾が翻る。
遠くの県道を走るトラックのエンジンとタイヤの音が空気を揺らす。
2台・・・3台と、続けて走っているのか、揺れる音が途切れない。
家の前の道を走る自転車。
ベルを鳴らしているのは、近所のおばさんだろうか。
モーターのような音も、そこに交じる。
少し響いたかと思えば、エンジンの音に変わって、すぐに遠ざかる。
遠くから微かに聞こえる人の声。
出掛けたご近所さん同士の雑談だろうか。
・・・
あたしの部屋の中の静けさと違い、外の世界には音が溢れている。
誰かが誰かと会って話し、誰かの為に荷物は運ばれ、人々の生活を支えている。
家族の生活の為に買い物に行くのも、近所の人と連れだってレクリエーションに行くのも、それは大事な生活の一部。
社会との繋がり。
『あかり』ちゃんが望んだ、誰かと繋がる縁そのもの。
「『音』があるだけで、他人の声があるだけで、『自分はひとりではない』と思えた・・・。」
その言葉が、あたしの心に積もって行く。
目を閉じ、耳だけに意識を向ける。
風の囁きも、木々の騒めきも。
鳥の呼ぶ声も、飛び立つ羽音も。
アスファルトを噛む靴、小石を蹴るタイヤ。
トラックに踏まれ低く唸るような道の声。
坂を下る自転車と、止めようとするブレーキの軋み。
人も車も物も自然も、色々な音に溢れている。
いろんな音が、あたしの心の波を静めてくれる。
心地良い・・・。
もし、ここに雨が降ったなら、どんなハーモニーを奏でるのだろう?
少しだけ心の中で思い描き、頬が緩む。
ああ、雨音が聞きたい。
そんな気持ちに心が流れている時、スマホのアラームが始業時間を告げる。
途端に意識が現実に引き戻され、届いていた音たちが姿を消した。
あたしは大きく息を吐いてから、少しだけ頬を膨らませる。
何もこんなタイミングじゃなくても良いのに。
でも。
クスリと笑う。
アラームが鳴るこのタイミングに覚えがある。




