第十三話-1
「お疲れさまでしたーっ」
夜7時。
あたしのバイトが終わる時間。
ICカードをリーダーに通して、勤怠を終えたらバッグを持ってお店を後にする。
駅前のコンビニが、あたしのバイト先。
目の前には、バスのロータリー。
夏至に向かって日が進む今、西空には茜色が残っていて、駅も公園も周りの遊歩道も赤く染められている。
日中の僅かな暑気もこの時間には残っておらず、海へと流れる風が頬を撫でる。
人も少なく、緩やかな時間。
周囲に目を遣っても、歩いている人は僅か。
店に来る人も、この時間だけはほとんどいない。
皆、家路へと急ぐのだろうか。
自動ドアの電子音を背中に聞きながら、あたしは足を運ぶ。
ふと、店の前の車止めを見ても、そこには誰の姿もない。
当然・・・か。
如月くんだって、いつもいつもあたしの隣に居てくれるわけじゃない。
望んだ時に現れてくれるヒーローじゃないのは判ってる。
時々・・・本当に時々、近所の本屋さんに来た時だけ、ここに如月くんの姿がある。
コーヒーを飲みながら、あたしに笑顔を向けてくれる。そんな彼の隣に座って、バスが来るまでの間・・・10分ほどの時間を一緒に過ごすのが楽しみなんだけど・・・。
今日は、そんな彼の姿は無い。
いや、もし彼が居たとしても、今日は・・・。
少し俯き気味に・・・無意識に猫背になりながら、バスの乗り場へと足を向ける。
僅かな距離。
歩けば2分も掛からないほんの僅かな距離が、今日は随分遠い。
それでも、他に誰も座っていないベンチが、紫に染まって行く茜色が、今のあたしには心地良い。
・・・
「なーんにも出来なかったな・・・」
お昼の事を思い出すと、心が冷える。
瑠璃が、あんなにも如月くんに食って掛かるなんて・・・。
「・・・幼馴染なのに・・・」
少しだけ拳を握り、奥歯に力が入る。
伏せ気味な瞳でアスファルトを眺めながらも、そこじゃないどこかを眺めているような気分。
通りを行き交う車の音も、どこか遠くから聞こえるようだ。
小さく息を吐きながら、僅かに空を見上げる。
東の空に、いくつか見える小さな星。
昔、お父さんと一緒に見上げた空は、もっと星が多かっただろうか。
・・・あれはなんて星なのかな・・・。
ただ、ぼんやりと眺めつつも、少しだけ目を閉じる。
瞼の裏に広がるのは、嘗て見上げた夜空。
眩しい星々が天を埋め、時に流れる糸を引く星に心が躍った記憶。
憧れ、望み、そして手を伸ばした先にあったのは・・・なにも掴めないという現実だけだった。
『・・・どうして、あのお星さまには手が届かないの?』
幼いあたしの問いに、お父さんはなんて答えてくれただろうか?
微かに覚えているのは、優しい微笑みだけ。
『あたしは、あのお星さまが欲しいのに・・・』
お母さんは、どうあたしを諭したのだろうか?
もう覚えてもいない、昔々の記憶。
『・・・ちゃん、あたし、お星さまが欲しかったのに、手が届かなかったんだよ・・・』
幼稚園で仲の良かった子に、そんな事を言った記憶がある。
あれは・・・誰だったんだろう。もう、顔も思い出せない。
仲が良かったはずなのに、名前さえ覚えてはいない。
大人しく、本が好きだったあの子。
一緒に絵本を読んだ記憶はある。
でも・・・。
もう届かない、記憶の彼方。
届かない想い。
過ぎ去ってしまった過去。
手を伸ばせばすぐそこにあるのに、手を伸ばす事が許されない現実。
望む事は出来ても、あたしには手に入らない事実。
『ああ・・・苦しいなあ』
望んでも過去は変わらない。
過去からの連続としての現実だって変わらない。
でも、きっと変えられるものもあるはずなんだ。
きっと・・・。
手を伸ばせば届くところに・・・。
でも、あたしは望んで良いのだろうか?
望むことを許されるんだろうか・・・。
あたしは・・・。
何を望むの?
目を閉じたまま、大きく息を吸う。
ゆっくりと吐いてもう一度、今度は肩甲骨を動かしながら肺に空気を送り込む。
はあっ・・・と息を吐きながら、瞼の裏の望みに目を向ける。
・・・
思わず頬が緩む。
「そんなに簡単に、望みなんてわかんないよね・・・」
小さく呟きながら、ゆっくりとあたしの現実に戻ってくる。
遠くから近づくバスのエンジン音。
もう、近くまで来ている『現実』行きのバス。
手に伝わるバッグの重み。
『そうだ』と、そこから一冊の本を出す。
学校の行き帰りや、眠る前のベッドの中で読んでいる本。
如月くんが探していた本。
あたしにとっては初めての小説。
まだまだ全部は読んでないけど、好きなところをまた読もう。
『・・・窓際の一番後ろの席。
窓を開け放ち、風を浴びながら手元の本に向かう人の姿がある。
そう大きくない本を片手に持ちながら、隣の席側に置いたスマホに時折目をやる。
離れた場所からでも、彼のその仕草がわかる。
言葉は発してなくても、彼はその人とこころを通わせているのだろう。
そのスマホに誰が写っているかはわからない。
きっと私の知らない人。
彼の柔らかな表情が、まるで知らない人のようで・・・
あれ・・・?
わずかに涙が零れる・・・
前へと進むべき足が止まり動けない。
それどころか、逃げ出すべく、後ろに下がろうとする。
違う、違うよ・・・
私は、あなたに会いたかったの・・・』
ここから続く、主人公『あかり』の内面。独白。
苦しく、切なく、悲しく、愛しい・・・。
あたしとは違うはずなのに、彼女の心が染みて来る。
『彼』への想いが届くのか、それとも諦めて逃げるのか・・・。
何度読んでも苦しさが募る。
でも、だからこそ・・・。
バスが止まる。
『現実』が目の前にある。
その『現実』の中で、彼女の心に触れよう。
彼女が笑える未来が、きっとあたしの笑える未来だから・・・。




