第九話-10
ふふっと笑いながら彼の横顔を愛で、「ありがとうっ」と短く伝える。
柔らかな小麦の香りと、さっくりとした口触り。
マカダミアの歯ごたえも軽く、そしてゆっくりと広がる脂分のしっとりとした甘み。
少し冷めたカフェ・オ・レを口に含むと、柔らかな甘さがクッキーの甘さと混じり合う。
ふわりと、甘さが身体に広がる。
「・・ん~~っ!」
軽いバターとマカダミアの香りが、カフェ・オ・レの淡い苦味の中に浮かぶようにあり、僅かな塩味がミルクの甘さを引き立てる。
じんわりと、染みるような味わい。
甘さがゆっくりと身体に広がるに連れて、気持ちも少し緩んでくる。
だからなのか、あたしの中の変化に目が向いた。
バイト中、声を出していたからか、喉には渇きがあった。
お昼のお弁当のあと、お菓子を食べたりしなかったから、お腹も空いていた。
でも・・・。
『あの人』の事で気持ちが切れていなかったからなのか、あたし自身は渇きにも空腹にも気が付いていなかった。
そっか・・・。
あたし、疲れてたんだ・・・。
少しだけ俯き、小さく息を吐く。
あたしは、疲れる程に気を張っていたんだな。
コンビニでバイトを頑張ったからかな?
いや、『あの人』に拒絶されたから?
それとも『いつもニコニコ元気な柚葉』でいたから?
『いい子』だから?
『良いお姉ちゃん』だから?
『ムードメーカーの柚葉ちゃん』だから?
・・・
『あたし』じゃないから。
『あたし』じゃない『役割』をずっと演じてたから、『疲れていない』フリも出来てたんだ。
そうか、そうなんだ。
あたしは『あたし』の時間を生きてなかったんだ。
『誰か』の為に、『役割』を演じていたんだ。
『元気な柚葉』を演じすぎて、『疲れていない柚葉』も気が付かないうちに演じていたんだ。
ああ・・・。
『本当』のあたしなんて、誰も見た事無いんだな・・・。
あたし自身が、『本当』のあたしを知らないもの・・・。
こんな薄っぺらなあたしなんて・・・誰が必要としてくれるんだろう。
『役割』のないあたしなんて・・・。
ふと見れば、隣の如月くんが心配そうにあたしを見ている。
・・・そうだろうな。
さっきまで、笑顔でいた女の子が、クッキーをひとつ食べただけなのに黙り込んで・・・あまつさえ、瞳を潤ませていれば・・・。
でも、彼は『大丈夫?』なんて聞かない。
聞いてくれない。
ただ黙ってあたしを見つめる。
そして、クッキーをひとつ摘まんで口に運び、それからあたしにクッキーのケースを差し出す。
何も言わず、ただ無言で。
・・・わざわざ、目線を逸らしてまで。
それはきっと、あたしに興味が無いからじゃない。
彼自身、とても聞きたいはず。
そして励ましたいとも思ってるんじゃないかな?
でも、それが逆効果なのも判ってるんだと思う。
だから・・・。
あたしは、差し出されたクッキーをひとつ摘まんで、口に運ぶ。
先ほどより淡い甘さが、今度は頭に届くよう。
元気が出るとかじゃなく、頭に栄養が届く?感じで、少しだけ気持ちを言葉に出来そう。
何でもない自分でいるのって、難しいんだな・・・。
冷めて来たカフェ・オ・レを口に含み、ゆっくりと飲み込む。
またひと口、もうひと口・・・。
そして、あたしは彼と向き合う。
きっと、今のあたしは『普段』みたいに笑えてない。薄い笑顔しか作れてない。
伏せ気味な目元に、そんな自覚が滲む。
でも、だからこそ。
彼の気遣いに感謝するからこそ、こころの内を伝えたい。
「如月くん、ありがとうね・・・。あたし、疲れてたんだ・・・」
「・・・」
「ずっと、誰かの為の『役割』を演じてきたの。『お姉ちゃん』『手間の掛からない良い子』『おせっかい』・・・いろんなあたしが居たけど、全部『役割』だもん。あたしじゃないもん・・・。疲れちゃったよ・・・」
「・・・」
「弟が部活を始めて、役割が無くなったのが不安でバイトを始めて・・・。ここには『みんなの役に立ってるあたし』があったの。でも・・・」
「・・・」
小さくひと口、ペットボトルを口に運ぶ。
少しだけ喉を潤して、言葉を続ける
「如月くんは、そんな『役割』のあたしじゃなく、ただのあたしに声を掛けてくれた。・・・凄く嬉しかったの。・・・ううん、それだけじゃない。こうして、待っててくれた。ただのあたしを待っててくれた」
彼に目に、驚きの光が灯る。
友達でもないのに、何故こんな事を話すのかって思ってくれてるのかな?
それは・・・。
多分、友達じゃないから話せるんだよ。
隣に居て欲しい人だから話せるんだよ・・・。
それって、どんな気持ちなんだろう。
この気持ちには、似合う言葉はあるんだろうか?
『友愛』?
『親愛』?
少し距離感が近い気がする。
小さく息を吐いてから、如月くんの瞳を見る。
その瞳に映るあたしは、今どんな顔をしているんだろう・・・。
『慈しみ』?
ああ、もうっ!
こんなに言葉が出て来ないなんてっ!
でも、学校の授業で使うテキストには出て来そうにない感情だし、これは勉強云々の問題じゃないのかな。
「如月くんが、今日ここに居てくれて良かった。・・・嬉しかったよっ」
・・・たったこれだけ?
これだけしか、あたしは彼に感謝を伝えられないの?
心の中にある気持ちが、言葉にするとたったこれだけの他愛もない言葉になるの?
今あたしの中にある気持ち全部を言葉にしたいのに、その為にはどれだけの言葉が必要になるか、判らないくらいなのに・・・。
あたしは・・・。
あたしには、あたしという核だけじゃなく、教養もあらゆるものが足りてないの・・・?




