第八話-3
カタン・・・カタン
俺の背後で、下駄箱前の簀子を踏む音がする。
ゆっくりとした音。
その音が耳に届いたおかげか、俺の思考の中に居た油脂が解けたように姿を眩ます。
消えたわけじゃない。
ただ、今はそこに意識が行かなくなっただけだ。
俺の中には、まだあの黒いモノが居る・・・。
でも、それは俺の意識が引き上げたのだろう。
瑠璃と離れたくない・・・と叫ぶように。
校内に残る生徒は少ない時間、簀子を踏む音を立てる人に心当たりはある。
俺は喜色を浮かべた顔で、身を捩って、背後で靴を履いているであろう人に向かう。
そして、『瑠璃っ』と声を掛けようとしたところで、声が止まった。
「あれ?真ちゃん??」
そこに姿があったのは、柚葉ちゃんだった。
下駄場から取り出したローファーを手に、ニコニコとして俺の方に足を運ぶ。
簀子がガタガタと軋むけれど、彼女は気にした様子もない。
ただただ明るく、人懐っこい女の子。彼女が近くに居てくれて、本当にありがたい。
俺の事となるとどうしても気を張ってしまう瑠璃も、柚葉ちゃんと一緒の時は肩の力が抜けるようだし、彼女の気さくさは、俺と瑠璃の心を癒してくれる。
まあ、恋バナ好きやおせっかい(彼氏探し)は・・・うん、まあ。
でも、彼女は好意からやってくれてる。多分。
俺が瑠璃がいつもふたりで居るから、『他の人との交流も大事だよ?』ってグループに誘ってくれたり、バイト先のコンビニで新作スイーツが出たら、『これっ!!美味しいから食べてみてっ!』って持って来てくれたりもする。
女の子のファッションとか興味の無かった事への入り口になってくれたり、俺だけだったら行きそうにないスイーツバイキングに連れて行ってくれたり(瑠璃付き)と、何かにつけてお世話になってる。
そういえば、少女漫画なんて読んだ事無かったけど、柚葉ちゃんが貸してくれたり、紹介してくれたりも
した。
音楽やアイドルなんかも、薦めてはくれるけど・・・そっちはあまり興味が無いかな。
何時だったか、『どうしてこんなに世話を焼いてくれるのか』と、理由を聞いたこともあるけれど、
『んー・・・。まあ、自分が楽しいから?』と、ケラケラ笑いながら答えられた事もあった。ただ、小さな声で、『・・・なんとなく、ほっとけない感じがあるんだよね。ガラス細工みたいに壊れそうで』と呟いたのが、俺の耳には届いていた。
もちろん、柚葉ちゃんにも瑠璃にも、その事は告げていない。
俺が聞いていた事は、悟られてはいない・・・と思う。
きっと、彼女は彼女なりに、俺の事を心配してくれているんだろう。
柚葉ちゃんの笑顔は、俺の心を癒してくれる。気の置けない友達として、傍に居てくれるのが本当に嬉しい。
だから、俺も自然と笑顔になる。
下ろして間もない新しいローファーに履き替えて、俺の隣に跳ねる様にやってくる柚葉ちゃん。
軽やかなステップはまるで踊るようで、折ったスカートや着崩した制服の裾が、バレエのチュチュよろしく翻る。
『可愛いな』と素直に思う。
瑠璃の様に自分を律し常に良くあろうとする姿は、大好きだし尊敬もする。
でも、少しくらいは息抜きをして欲しい、とも常々感じている。
瑠璃にも、柚葉ちゃんの様に少し砕けたところがあれば、もっと可愛いだろうにな。
「真ちゃんがひとりって珍しいねー・・・って、そっか、瑠璃は呼び出しの手紙貰ってたっけ」
昇降口の柱に肩を預け、俺の顔を覗きつつ微笑む。
さらりとした髪が頬に掛かり、微かな風がその髪を揺らす。
「うん、屋上で相手と会ってるはずだよ。柚葉ちゃんは、これからバイト?」
「そうだよーっ、コンビニでバイト。・・・面倒だけど、まあ、楽しいかな?」
あははと笑ってから、少し遠い目をする。
少し目を細めたからか、瞳が空の茜色を拾い僅かに赤みを増す。
ふと、その笑顔に、普段の柚葉ちゃんとは別人であるかのように、少しだけ影のようなものが見えた気がした。
いつもの明るい笑顔とは違う、何か・・・。
少しだけ下がり気味な眉?
小さく吐いた溜息?
それとも、黒目がちな瞳に映した茜色の空?
それを言葉にして良いものか、その逡巡が表情か態度に出たのだろうか。
少し悪戯っぽく微笑みながら、
「あれー?真ちゃん、あたしに興味あるー??・・・ふっふーん、やっとあたしの可愛さに気が付いたとかー?」
なんて、ちょっと勘違いしそうな距離感で、その可愛らしい顔を近づけて来る。
瑠璃とは違う、少し甘い椿のような香り。
大きな瞳を少し細めた悪戯顔は、この上なく愛らしい。
正直、こんな風に迫られたら、大抵の男は柚葉ちゃんの事が好きになるだろうし、一念発起して告白しようかって気になるに違いない。
俺だって、瑠璃と幼馴染でなければ、柚葉ちゃんに恋していたかもしれない。
男とか女とか関係なく、柚葉ちゃんは可愛い。
近くに居たいと感じさせてくれる。
でも。
俺には瑠璃が居る。
ずっと昔から、瑠璃だけを見ている。




