第一話-2(改)
あの日からずっと。
病院で目を覚ました時も。
左手のリハビリに通っていた時も。
剣道を諦めた時も。
瑠璃はいつだって、俺の隣にいた。
荷物を持とうとすれば先に持っていかれ、断れば逆に怒られる。
理不尽だと何度思ったかわからない。
けれどそのたびに、彼女の中に残っている傷の重さを思い知らされる。
俺の怪我を、自分の責任だと責め続けているのだろう。
だからこそ、離れない。
気づけば、メイクの手が止まっていた。
「どうしたの?」
瑠璃が鏡越しに俺を見る。
「まだ眠いとか言わないでよ? 遅刻しちゃうんだから」
「……わかってる」
「髪は終わったわよ。あとは?」
「……リップ、何色にしようか迷ってて」
「ふぅん」
瑠璃が小さく笑う。
それから、自分のポーチを開いた。
「じゃあ、新しい色試してみない?」
取り出されたのは、ほとんど使われていないリップ。
瑠璃がいつも使う色より、少し薄めの赤。
「真にはこっちのほうが似合うと思って、買っちゃった」
そう言って差し出されたそれには、わずかに使った跡が残っていた。
でも、俺はこの色をつけた瑠璃を見たことがない。
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
――俺以外の誰かと。
そんな考えが、一瞬よぎる。
いや。
それを望んでいるのは、俺自身じゃないのか。
瑠璃が俺から離れて、自分の人生を生きていくことを。
なのに、胸は痛む。
「……うん、じゃあ借りるね」
少しだけリップを繰り出し、ブラシを取ろうとすると、
「あ、山形ブラシ使ってね」
瑠璃がすぐに口を挟む。
「真は大人しい顔立ちだから、柔らかい感じ出したほうが可愛いよ?」
にっこりと笑いながら、さらりと言う。
可愛い――か。
「可愛いわよ?」
心を読んだみたいに、瑠璃が悪戯っぽく笑う。
言い返そうとして、言葉が喉で止まる。
可愛いのは、お前のほうだろ。
そう思っても、口には出せない。
俺は黙って、言われた通り山形ブラシで唇に色を乗せる。
鏡の中の顔が、少しだけ印象を変える。
たしかに、いつもよりやわらかい。
「うん、可愛い」
瑠璃が満足そうに頷く。
そして少し目を細めて、
「やっぱり、その色は真のほうが似合うわね。それ、あげるから使って?」
「え? でも買ったばっかりなんじゃ……」
「いいの。私にはあんまり似合わなかったから」
「でも……」
言いかけた俺を見て、瑠璃は肩をすくめた。
「私、色々試したくなるタイプだから。使わないで置いておくより、使ってくれる人にあげたほうがいいでしょ?」
軽い口調。
けれど、視線は鏡の中の俺に向かない。
少しだけ息を吐いて、俺は笑みを作る。
「……ありがとう。使わせてもらうね」
「……うん」
ようやく、瑠璃も少し照れたように笑った。
道具をポーチに戻しながら、彼女が言う。
「そろそろ行きましょ。急がなくてもバスには間に合うけど」
「……毎朝、ありがとう」
「いいのよ。私が好きでやってるんだから」
少し間を置いて、俺は小さく続ける。
「……瑠璃がいてくれなかったら、俺……」
そこで言葉が詰まる。
「女になってから、どうしていいかわからなかった」
瑠璃の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
けれどすぐに、いつもの笑顔に戻る。
細くしなやかな指が、そっと俺の頬に触れた。
そして――
ぷにっ。
「もうっ」
頬を摘ままれる。
「また俺って言った」
悪戯っぽく笑いながら、瑠璃は顔を寄せる。
「私、でしょ? 女の子なんだから」
その指先が頬を撫で、首筋から髪をすくい上げる。
「次また俺なんて言ったら――」
瑠璃は目を細めた。
「もっと可愛い髪型にして、いっぱい遊んじゃうから」
ふたりで部屋を出て、階段を下りる。
台所では、母がシンクに向かって朝食の後片付けをしていた。
食卓の上には、俺の弁当がきちんと包まれて置かれている。
男だった頃に使っていた大きな弁当箱は、もう物置の奥だ。
弁当箱だけじゃない。
服も、靴も。
男だった頃の記憶は、少しずつ物置の中へ押し込められていった。
今の弁当箱は小さい。
小食になった俺に合わせた、ひと回り小さなもの。
それでも可愛らしすぎないように気を遣ってくれているのか、包みは風呂敷風のランチクロスだ。
母なりに、俺の気持ちを考えてくれているのだろう。
その気遣いが嬉しくて――少しだけ、苦しい。
瑠璃はそれをひょいと摘まみ上げると、何も言わず自分のバッグに入れてしまった。
これも、もう毎朝のことだ。
何を言っても聞いてくれないとわかっているから、最近はもう諦めて頼るしかない。
「おば様。真のお弁当、お預かりしますね」
にこやかな声に、母が振り向く。
笑顔だった。
けれど、その奥にかすかな影が差しているようにも見えた。
一瞬だけ、洗い物の手が止まる。
瑠璃を見つめたあと、母の視線がわずかに逸れた。
きっと、思うところはあるのだろう。
毎朝こうして甲斐甲斐しく世話を焼きに来る幼馴染。
親同士も昔からの友人で、俺たちは兄妹のように育った。
そして、その相手の腕の自由を奪ってしまった。
――だからといって。
ずっと世話を焼き続けなければならない理由にはならない。
瑠璃には、瑠璃の人生を生きてほしい。
母も、きっとそう思っている。
少し困ったように眉を下げた表情を見るたびに、それが伝わってくる。
「ごめんね、瑠璃ちゃん。今日も、うちの……娘のこと、お願いね」
申し訳なさそうに言う母に、瑠璃はすぐ笑顔で答える。
「はい、お任せくださいっ。では、行ってきますね、おば様」
軽く頭を下げてから、玄関へ向かう。
俺も短く「行ってきます」と告げ、その後を追った。
バス停へ向かう道を、ふたり並んで歩く。
学校へ行くときは、いつも一緒だ。
小学校の頃から変わらない、当たり前の日常。
俺が女の身体になっても、それだけは変わらなかった。
隣を歩く瑠璃は、いつだって凛として眩しい。
風に靡く栗色の髪が、朝の光を纏ってきらめいている。
俺のほうを向いて、唇の端を少し上げて微笑むその顔に、昔のお転婆だった面影はほとんどない。
もし、俺に関わっていなければ。
きっと今頃、恋人がいて、その相手と青春を謳歌していたのかもしれない。
バスを待つ間も、バスの中でも、学校までの道でも。
瑠璃はずっと優しく笑ってくれる。
まるで恋人に向けるような、やわらかな笑顔で。
もし隣にいるのが俺じゃなく、本当の恋人だったら。
その笑顔は、もっと輝くのだろうか。
そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
俺はもう、女なのに。
それでも、瑠璃は隣にいてくれる。
そのことが嬉しくて、悲しくて、少し怖かった。




