第一話-1(改)
幼い頃の事故で怪我を負い、さらに原因不明の変化によって「私」は女の身体になった。すべてを失ったように感じる日々の中、幼馴染の瑠璃だけが変わらず隣に立ち、世話を焼き続けてくれる。優しさの裏に滲む罪悪感と、離れられない互いの想い。瑠璃の人生を願いながらも手放せない不安が、静かな日常を少しずつ歪ませていく。瑠璃色の瞳が見つめる先にあるのは、救いか、それとも——。
夢――。
夢だとわかっている。
昔、小学生の頃の夏休みの夢だ。
蝉の声が、まるで激しい夕立のように降りしきる中、俺は懸命に走っている。
前から飛んでくる声を追って。
「真っ! こっちだよっ!」
可愛らしい声。
けれど彼女の姿は、曲がった山道に影を落とす藪の向こうに隠れて見えない。
同い年の幼馴染、瑠璃。
俺よりほんの少し早く生まれただけなのに、いつも姉ぶる女の子だった。
愛らしい見た目に似合わず、お転婆で騒がしく、男子相手でも気に入らなければ平気で喧嘩をする。
傍にいれば、こっちがハラハラしてしまう。
そんな彼女が、俺を呼んでいる。
「こっちだよっ!」
「待って! 待ってってば!」
俺の声が聞こえているのかいないのか、瑠璃は先へ先へと駆けていく。
荒い息を吐きながら、俺も山道を走る。
左右には蜜柑の木が山頂近くまで植えられ、厚みのある葉が濃い緑を艶やかに光らせていた。
丁寧に刈られた下草と、道を支える石垣。
この山は、幼い頃から俺たちの遊び場だった。
ふたりで駆け回り、泥だらけになって遊んだ記憶が、今も鮮やかに残っている。
この道も、勝手知ったる道だった。
――なのに。
「こっちだよっ! 早くっ!」
瑠璃が振り向き、栗色の髪を揺らしながら手を振る。
次の瞬間。
地面から突き出た石に足を取られ、彼女の身体が大きく傾いた。
「きゃ……っ」
小さな悲鳴。
心臓が激しく跳ねる。
「瑠璃っ!!」
叫ぶと同時に、彼女の身体が道の端から蜜柑畑へ投げ出される。
時間が引き延ばされたようだった。
恐怖に見開かれた瑠璃の瞳が、胸に棘のように刺さる。
俺は石垣を蹴り、夢中で宙へ身を躍らせた。
その身体を抱き留めることはできた。
けれど――
できたのは、彼女を庇うことだけだった。
俺たちはひとつの塊になって、石垣の下へ落ちていく。
節くれだった太い枝が迫る。
高さは大したことない。
せいぜい三メートルほど。
それでも、折れた枝が俺の左腕を深く抉った。
肘の先を裂き、肉を削り取る。
噴き出した血が、瑠璃の顔に、そして俺の左目に飛び散る。
鉄の匂い。
焼けるような激痛。
視界が紅に染まり――
夢は、いつもそこで終わる。
・・・
自室のベッドの上。
仰向けのまま、俺は左腕を目の前に持ち上げる。
まだ焦点の定まらない目で、ぼんやりと傷跡を見つめた。
肘のすぐ先。
肉が抉れ、神経を傷つけた傷痕が、今も残っている。
何もない空間で手を握ってみても、左の小指は半分ほどしか動かない。
力を込めることもできない。
「はぁ……」
大きく息を吐く。
激しく打ち続ける心臓は、すぐには落ち着いてくれない。
寝汗もひどかった。
窓から差し込む朝日が、今日は一段と胸を締めつける。
そして、もうひとつの現実が目の前にある。
細くなった指。
小さくなった掌。
柔らかな肌。
かつて剣道に打ち込み、荒れていた手の記憶を嘲笑うようだった。
小さくなったのは手だけじゃない。
腕も脚も、身体のすべてが細く、小さく変わってしまった。
俺が女になって、もう一年以上が経つ。
理由はわからない。
大きな病院で隅々まで調べても、原因は不明。
男だった痕跡は何ひとつ残っていないらしい。
鏡に映るのは、もう過去の俺ではない。
長く伸びた髪。
膨らんだ胸。
写真の中にしか、昔の俺は残っていない。
もう一度深く息を吐いて、俺はベッドを降りた。
洗面所へ向かう階段を、トタトタと下りる。
少し大きく感じる洗面台の前に立ち、前髪を濡らさないようヘアバンドで髪を上げる。
クレンジングで顔を洗い、化粧水、乳液で肌を整える。
もうすっかり、朝の習慣になってしまった。
「あら、おはよう。今日もゆっくりね」
洗濯機を回しに来た母が顔を覗かせる。
けれど汗で濡れた背中を見たのか、それ以上は何も言わなかった。
「……学校に行く前に、汗は拭いておきなさい。瑠璃ちゃんにまた怒られるわよ?」
「……うん」
短く返事をして、パジャマを脱いで洗濯機に入れる。
身体を軽く拭き、新しい下着に替える。
朝食を取る気にはなれず、冷蔵庫からゼリー飲料を取り出す。
それをコーヒーで流し込むように済ませた。
部屋に戻って制服に着替えていると、玄関のチャイムが鳴った。
パタパタと、母が小走りで玄関へ向かう足音が聞こえる。
「おはよう、瑠璃ちゃん。ごめんね、うちの……息子、じゃなくて娘が迷惑かけちゃって」
「おはようございます、おば様。私が勝手にお世話焼いてるだけですから、気にしないでください」
聞き慣れた、柔らかな声。
それからしばらくして、廊下を近づいてくる足音がした。
昔みたいにバタバタと騒がしく駆け込んでくることはない。
けれど、その歩幅とリズムだけで、瑠璃だとわかる。
コンコン。
控えめなノックのあと、すぐに声が続く。
「真、入るわよ」
返事を待つ気なんて、最初からない。
ドアが開き、瑠璃が部屋に入ってくる。
……こういうところは、昔から変わらない。
パリッとした制服に包まれた細い身体。
ふわりと揺れる栗色の長い髪。
少しだけ施したメイクが、彼女の顔立ちをやわらかく際立たせていた。
派手ではない。
けれど、アイラインもチークも丁寧で、唇には少し濃いめのピンク。
昔、俺が贈った色だ。
今でも使ってくれていることに、胸の奥がかすかに疼く。
「なぁに? まだメイクしてないじゃない」
瑠璃は呆れたように笑い、すっと俺の背後に回る。
「ほら、手伝ってあげるから。早くしましょ。学校に遅れるわよ?」
「……うん。頼む」
「頼む、じゃなくてお願い、でしょ? もう女の子なんだから」
からかうように笑いながら、瑠璃の指先が俺の髪に触れる。
その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。
杏のような、やわらかい香り。
背中越しに伝わる体温と、かすかな柔らかさに、思わず視線を落とす。
照れくさいのと、鏡に映る現実から目を逸らしたい気持ちと、その両方で。
「……ごめん」
「……うん」
短いやり取りのあと、部屋は静かになる。
俺は鏡に向かってメイク道具を手に取り、瑠璃は後ろで髪を整えてくれる。
これももう、いつもの朝だ




