第五話-1
潮騒。
俺の立つ港は、この町の海沿いに古くからある。
今では10隻ほどの漁船が係留されている程度の、小さな港。そこに人の姿はなく、野良猫の影がぽつんと落ちている。
薄い雲に隠れた朝日を斜めに受け、目の前の揺れる波が煌めく。
陽光を受けた強い輝きが光の帯を作り、輪が広がるように徐々に青が強くなる。
潮の香りを含んだ風が船を揺らし、軋むような音が耳に届く。
少し聞こえは悪いが、まるでゆっくりとしたリズムの子守歌。
リズムを合わせるかのように靡く髪は、時に流れるように、時に巻くようにふわりふわりと舞い踊り、頬に掛かる髪は風が撫でる様に梳いてくれる。
時折大きな波が来るのか、砕けた波先が俺の足元に跳ね、コンクリートに黒い跡を残す。
珍しいな。
いつもは穏やかな海が、今日は風に煽られて少し波を高くしている。
こんな日は、年に何度もはない。
いや、俺が知らないだけかもしれない。
俺の知っている海は静かでどこまでも青が深く、黒くあるかのような青空の元に広がっている。
何処までも青い。
濃く深い青を切り取った空間。
全てが青で染まった世界。
俺は小さく息を吐く。
左目に受ける陽光が、懐かしいあの頃を思い出させる。
港の先、波消し堤防の上を歩く幼い頃の姿。
真夏の強い日差しの中、大輪の向日葵のような笑顔を見せる君。
瑠璃。
子供の頃から快活で、山に海に、いろんなところで一緒に遊んだ。
いつも元気で、足が速くて、走り回るのが大好きだった。
気が強くてお転婆で、気に入らなければ男の子相手でも一歩も引かず、喧嘩っぱやいところもあったけれど、明るくて友達想いな女の子。
そんな君の隣に居たかった。
君に相応しい男になりたかった。
その笑顔を、守れるようになりたかった。
涙なんか、流させたくなかった。
大人しくなんてならなくていい。
輝くような笑顔を、ずっと見ていたかった。
俺の隣で、ずっと笑っていて欲しかった。
その笑顔を守る為なら、何でも差し出して良いとさえ思った。思っていた。
それは間違いじゃない。
今でも間違いだったなんて思っていない。
俺の左手の自由と引き換えに瑠璃を守れたのなら、俺に後悔なんてない。
・・・
後悔なんてない。
瑠璃以上に大事なものなんて、俺にはない。
俺の未来も、夢も、瑠璃が居なければ何の意味もないんだ。
瑠璃が元気なら、それで良い。
良いんだ。
でも・・・。
俺は小さく息を吐き、左手に目を遣る。
握ろうとしても、満足に力の入らない薬指と小指。
右手のように五指に力を入れて、しっかりと握る事は出来ないけれど、日常生活ではそう不自由はない。
コップだって、お茶碗だって持てる。
幸い利き手ではないから、そこまで困る事は日常にはない。
ただ、大きく力を入れる必要のある事は出来ない。
瞬間的に、力を込める事も出来ない。
そういう意味では、仕事を選ぶ際には困るかもしれないな。
仕事か・・・。
ぼんやりと未来に思いを馳せる。
高校生活もあと2年で終わる。
その後はどうする?
大学に進学するか?それとも就職する?
何かやりたい事や学びたい事はあるのか?
取りたい資格でもあるのか?
俺の未来はどうありたいか、それを漠然とでも考えているのか?
瑠璃の事が大事と言いながら、俺は瑠璃が傍に居てくれることだけを望んでいるのか?
瑠璃に自分の人生を歩いて欲しいと願いながら、自分が自らの足で立って進むことは考えているのか?
経済的に自立して、俺の人生を歩くことを真面目に考えた事があるのか?
・・・
いくらでも考えなければならない事は出てくる。
その全てに対して、何かしらの答えを出す必要があり、それが俺の未来への道になるんだ。
何度も何度も自問して、その都度答えを探している。
判ってる。
判ってるんだ。
瑠璃を守って大怪我をしたあの日から、俺は前に進めてないって判っているんだ。
大好きだった剣道を辞めた後、趣味らしい趣味もないまま過ごしている事も、目指すべき目標を見つけられてない事も判っているんだ。
突然女の身になって、女として見られるのがまだ慣れなくて、鏡を見るのも躊躇してしまう。周りの視線が気になって、今では人混みも避けてる。男の視線が嫌で、どうしても逃げたくなってしまう。
こんな俺が瑠璃に相応しくないって事は、誰よりも判っているんだ。
「どうすれば良いんだろうな・・・」
小さく呟く声が耳に届くと、途端に現実の景色が目に飛び込んでくる。




