EP 3
神速の魔剣『燕返し』と、マヨネーズ。
ゴブリンを退け、鬱蒼とした森を歩くこと半刻(約一時間)。
拙者は歩きながら、この『アナスタシア』という世界の空気を味わっていた。
日の本の山々よりも濃密な霊気――いや、リリスの言う『魔力』なるものが満ちている。そのせいか、拙者の内に眠る闘気までもが、かつてないほどに高まっていくのを感じていた。
「あのぅ、小次郎さん。さっきから『まぷ』を見てるんですけど……どっちが街か全然わからないですぅ」
リリスが神導板を逆さまに持ち、首を傾げている。頭上の若葉の紋様が、不安げにチカチカと点滅していた。
「案ずるな、リリス殿。道などはどこへでも通じているものよ」
拙者が煙管を燻らせ、歩みを止めようとした、その時だった。
「……ぬ? この香りは」
風に乗って、奇妙な匂いが鼻腔を突いた。
血の匂いではない。魔物の腐臭でもない。どこか酸味があり、それでいて芳醇な……拙者の知らない、未知の調味料の香りだ。
「あれ? くんくん……これ、マヨネーズの匂いですぅ! なんでこんな森の中に!?」
「まよねえず、とな?」
拙者たちは匂いの主を求めて、茂みをかき分けた。
そこは小さな川のほとりにある、日当たりの良い野原だった。
そこに、拙者の常識を覆す光景が広がっていた。
「……あむ。……もぐもぐ。うーん、この辺の雑草は、ちょっと苦味があって『まよ・はーぶ』に合いますねぇ」
そこにいたのは、腰まである青い髪をなびかせた、年端も行かぬ美少女だった。
驚くべきことに、その娘は日の本の農民も着ぬような『いもじゃーじ』なる紫色の衣に身を包み、道端の草をむしっては、片手に持った白い容器から絞り出される謎の練り物――マヨネーズを塗りたくって食らっていたのだ。
「む、娘……何をしている」
拙者の問いかけに、その娘は「ひゃぅっ!?」と肩を揺らして振り返った。
よく見れば、耳の横には魚の鰭のようなものがある。
「あ、あの……不法侵入じゃないです! ここは公共のサラダバー……じゃなくて、ただの野原ですよね!?」
娘は慌ててマヨネーズの容器を隠したが、口元には白濁した液体がべったりと付いている。
「リリス殿、この世界では、美しき女子が野の草を食むのが流行りなのか?」
「違いますぅ! リーザちゃん!? シーラン国の王女様なのに、なんでそんなところで雑草サラダバーを……!?」
リリスが驚愕の声を上げた、その瞬間だった。
上空から、空気を引き裂くような鋭い羽音が降り注ぐ。
「ギィイイイイイイイイッ!!」
現れたのは、巨大な蜂の姿をした魔物――『死蜂』。
鋼鉄をも貫く毒針を突き出し、雑草を食んでいた娘を目掛けて、神速の急降下を仕掛けてきたのだ。
「ひ、ひぎゃああああ! 食べられるー! マヨネーズ味の私なんて美味しくないですよぉぉぉ!!」
娘――リーザが頭を抱えてうずくまる。
「リリス殿、下がっていろ」
拙者は愛刀『備前長光』の柄に手をかけた。
相手は空を飛ぶ魔物。それも、矢よりも速い。
だが。
「……燕に比べれば、止まって見える」
拙者は一歩も動かず、ただ自然体で佇む。
死蜂がリーザの首筋に毒針を突き立てようとした、コンマ数秒の刹那。
「――秘剣。燕返し」
シュッ、と。
三方向から同時に銀光が奔った。
本来の燕返しは、上段からの斬撃、そして即座に切り返す二太刀目、三太刀目によって、逃げ道を塞ぐ三連撃。
だが、この異世界の霊気によって進化した拙者の剣は、その理すらも超えていた。
ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ!!
三つの斬撃が、文字通り『同時に』死蜂を襲う。
それは三方向からの同時攻撃。空間そのものを三分割し、逃げ場を絶つ次元の断絶。
「……お見事」
拙者が刀を鞘に納めた時、巨大な蜂の身体は、空中で一瞬にして四つの塊へと分断されていた。
切断面からは体液が吹き出す暇すらなく、重力に従ってドサドサと草の上に落ちる。
「……え?」
うずくまっていたリーザが、恐る恐る目を開けた。
そこには、煙管の煙を静かに吐き出す、着流しの剣豪が立っている。
「……斬られたの? あの巨大蜂が、一瞬で? 魔法も使わずに……?」
呆然とするリーザに、リリスが駆け寄る。
「リーザちゃん! 大丈夫ですかぁ!? 今のは小次郎さんの燕返しですよ! 空間ごと斬っちゃったみたいですけど!」
「く……空間ごと……」
リーザは拙者を見上げ、そして手元のマヨネーズを見つめた。
「あの……お侍様。助けてもらったお礼に……これ、一口いりますか? 結構、いけますよ?」
差し出されたのは、マヨネーズがべったりと付いた『ペンペン草』だった。
「……拙者は遠慮しておこう。リリス殿、行くぞ」
「あわわ、待ってください小次郎さん! リーザちゃんも一人じゃ危ないですから、連れて行きましょうよぉ!」
こうして、敗北剣豪の背後には、ポンコツ女神に続き、雑草をマヨネーズで食らう地下アイドル人魚が加わることとなった。
拙者の前途は、多難を通り越して、もはや混沌の極みであった。




