EP 2
異世界の地と、初心者マークの奇跡
純白の空間が光に包まれたかと思うと、次の瞬間、拙者たちの足元は柔らかな土と草に変わっていた。
鼻を突くのは、むせ返るような緑の匂い。
見渡す限り、鬱蒼と生い茂る巨木。日の本の山林とは明らかに植生が違う、未知の森であった。
「とうちゃーく! ですぅ!」
隣で、桃色のじゃあじ姿の女神・リリスが、両手を挙げてぴょんっと跳ねた。
頭上の若葉マークも、元気よく揺れている。
「ここが異世界、アナスタシア……。ふむ、空気は悪くないな」
拙者は煙管を咥え、細く息を吐いた。
武蔵との決闘の熱が、まだ僅かに体に残っている。だが、不思議と体は軽く、五感はこれまでにないほど澄み切っていた。
「あのですね、小次郎さん! まずは近くの街に行って、冒険者として登録して、お金を稼いで、それからお団子を……」
ガサガサッ!!
リリスが今後の算段(主におやつの事)を語り始めた矢先、周囲の茂みがけたたましく揺れた。
「ギャギャッ!」
「ギルルルルッ!」
下草を掻き分けて現れたのは、身の丈ほどもある緑色の小鬼たちだった。
手には錆びた鉈や棍棒を握り、黄色く濁った目でこちらを品定めするように見つめ、下品な涎を垂らしている。
「ひゃっ!? ご、ゴブリンですぅ!!」
リリスは悲鳴を上げ、咄嗟に拙者の背後に隠れてじゃあじの裾をギュッと握りしめてきた。
「ごぶりん、とな? 異国の鬼か。なるほど、確かに醜悪な面構えよな」
拙者は動じず、腰に差した三尺余りの大太刀『備前長光』の柄に静かに手を添えた。
数は五匹。取るに足らぬ有象無象だ。
「こ、小次郎さん! 私が神聖なる女神の力で、支援をかけます! 腕力がドバーンと上がりますからね!」
リリスが震える手で懐から取り出したのは、妙に分厚く、巨大な文字の書かれた奇妙な板――『神導らくらくスマートフォン』だった。
彼女はその板の画面にある『筋力特大アップ』と書かれたデカ文字の印を、力強く指で叩いた。
「女神の加護よ、対象に力をっ……ああっ!?」
ピロリン♪ という間抜けな音と共に、リリスが素っ頓狂な声を上げる。
板を叩く際、手元が狂って少しズレたらしい。
「す、す、すみません! 対象を間違えて、『小次郎さんの煙管』に特大バフをかけちゃいましたぁぁぁ!」
「……なに?」
シュゴオオオオオオオッ!!
リリスが叫んだ直後、拙者が咥えていた煙管から、火山の噴火のごとき勢いで尋常ではない量の紫煙が噴き出した。
「ゴホッ! ゲホッ!?」
「ギャギャッ!?」
辺り一面、半径十間(約十八メートル)が、一瞬にして濃密な煙に包まれる。
自分の手のひらすら見えない、完全なる視界不良。ゴブリンたちも予期せぬ煙幕にパニックに陥り、同士討ちを始めるような叫び声を上げている。
「あわわわ! ごめんなさいごめんなさい! 初陣から私、やらかしちゃいましたぁぁ! 何も見えないですぅ!」
背後でリリスが半泣きでしゃがみ込む気配がした。
「……案ずるな、リリス殿」
拙者は目を閉じ、紫煙の中で低く呟いた。
視界が塞がれた程度で鈍る剣なら、とうの昔に巌流島に辿り着く前に死んでいる。
(……一、二、三、四、五。右から二、左から三か)
研ぎ澄まされた感覚が、煙の中で蠢く五つの殺意を完全に捉えていた。
武蔵よ。お主の櫂の木刀は、この程度より遥かに速く、そして重かったぞ。
「ギャアアアッ!」
煙に紛れ、焦ったゴブリンの一匹が拙者に向けて棍棒を振り下ろそうと飛びかかってくる。
――チャキ。
鯉口を切る、微かな音。
「――遅い」
シュアッ!
煙の中を一閃の銀光が走る。
刃渡り三尺の『物干し竿』。その異常なまでの長さを、小次郎の神速の太刀筋が完全に制御していた。
「ギ、ギャ……?」
飛びかかってきたゴブリンは、自分が斬られたことすら理解できないまま、空中で綺麗に両断され、ドサリと地面に落ちた。
「ギィッ!?」
「グルルッ!」
仲間の死の気配に気づき、残る四匹が同時に四方から襲いかかってくる。
(ふっ――)
拙者は静かに息を吸い、ただその場で、独楽のように身を翻して長刀を振るった。
閃刃、二連。
円を描く神速の剣撃が、見えない煙ごと四匹のゴブリンの胴体を薙ぎ払う。
ザシュッ!! というおぞましい切断音と共に、四つの骸が同時に地に伏した。
「ふぅ……」
刀を振って血糊を払い、カチンと音を立てて鞘に納める。
やがて風が吹き抜け、もうもうと立ち込めていた煙管の紫煙が晴れていく。
そこには、無傷で佇む小次郎と、周囲に転がる五匹のゴブリンの無惨な亡骸があった。
「ええっ!?」
しゃがみ込んでいたリリスが、顔を上げて目を丸くする。
「こ、小次郎さん!? 魔法もスキルも使ってないのに……煙で何も見えなかったのに、どうやって倒したんですかぁ!?」
「何、ただ切っただけのこと。リリス殿の作ってくれた煙幕、見事な目眩ましであったぞ」
「あ、あれ……? 私、もしかして役に立ちました!?」
頭上の若葉マークをピコンと光らせて、リリスが誇らしげにえっへんと胸を張る。
その単純さに、拙者は思わず苦笑してしまった。
「ああ、大層な働きであった。さあ、日暮れ前に街を見つけねばな。団子の前に、腹ごしらえが必要であろう?」
「はいっ! ついて行きますぅ、小次郎さん!」
こうして、煙管を燻らせる敗北剣豪と、ドジっ子見習い女神の、異世界での第一歩が踏み出されたのであった。




