第一章 巌流島の敗北、ポンコツとの出会い、そして異世界の洗礼
巌流島の落日と、リストラ女神のカンペ
波の音が、ひどく遠くに聞こえた。
「――っ!」
遅かった。
拙者、佐々木小次郎が放った必殺の『燕返し』。
だが、それよりも一瞬早く、宮本武蔵の振るった櫂の木刀が、拙者の眉間を深々と打ち砕いていた。
ごしゃり、と頭蓋が軋む嫌な音が響く。
視界が反転し、巌流島の砂浜へと背中から崩れ落ちた。
(……負けたか。武蔵、見事なり)
不思議と、恨みはなかった。
ただ己の剣が、奴に届かなかった。それだけのことだ。
青い空が急速に色褪せ、どろりとした闇が視界を覆い尽くしていく。
ああ、これで冥府魔道行きか。
閻魔大王の裁きを受けるのも、また一興――。
そう思い、拙者は静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「あわわわわわわわわわわ!」
――やかましい。
「ど、どどど、どうしよう! 転生者さん、死んだみたいな顔して起きないですぅ! やっぱり私がドジだから、転生前に魂が消滅しちゃったんですかぁ!?」
声がする。
若い、娘の声だ。
それに、なんだかひどく狼狽している。
冥土の鬼にしては、随分と慌ただしいな。
拙者はゆっくりと目を開け、身を起こした。
「おおっ!?」
己の身体を確かめる。
割られたはずの頭は無傷。着流しの和装も、血の一滴すら付いていない。
傍らには、拙者の愛刀――三尺余りの大太刀『備前長光』、通称「物干し竿」が、何事もなかったかのように転がっていた。
「気が……気がつかれましたかぁ!?」
ふと前を見ると、そこには奇妙な娘がいた。
純白の空間の中、神々しさとは無縁の『桃色のじゃあじ』なる異国の衣を身に纏い、足元は気の抜けた『さんだる』。
そして何より目を引くのは、娘の頭上にプカプカと浮かんで光る、緑と黄色の若葉の紋様――いわゆる『初心者マーク』のような光の板だった。
「……娘。ここは地獄か?」
懐から愛用の煙管を取り出し、火をつけてゆっくりと紫煙を吹かす。
「ち、違いますぅ! 私は女神! 女神リリスと申します!」
娘――リリスは、ビシッと姿勢を正そうとしたが、足が震えているためプルプルと小動物のように揺れている。
その手には、何やら文字が書かれた紙が握られていた。
「えっと、えっとですね!」
リリスは拙者の顔と、手元の紙を交互に見比べながら、必死に文字を読み上げ始めた。
「リリスが、貴方の担当の女神になりましたので~! ……あの、えっと、本来なら偉い女神様が案内するんですけど……」
そこでリリスは、カンペから目を離し、なぜかポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「ル、ルチアナ先輩が私に、『チョウカイカイコ』って書かれた紙を渡してきましてぇ……! 『ジンケンヒ・サクゲン』? とか、よく分からないことを言われて……」
「ちょうかいかいこ。じんけんひ」
異国の呪文だろうか。拙者にはさっぱり分からん。
「そ、それで! 『異世界に行く人間について行って、養って貰え』って言われたんですぅ! 『そうすれば、向こうの世界で、お菓子やお団子が一杯食べられるぞ』って、ルチアナ先輩が……っ!」
「…………」
要するに、だ。
この自称・女神は、仕えている主君のような者(ルチアナ先輩とやら)からお役御免を言い渡され、放り出された挙げ句、拙者に「飯を食わせろ」と泣きついているらしい。
神とは、もっとこう、威厳に満ちて人を導くものではないのか。
目の前の娘は、どう見ても迷子になって泣きべそをかいている童である。
「うぅ……私みたいなどんくさい見習い女神じゃ、嫌ですよね……? でも、置いていかれたら私、飢え死にしちゃいますぅ……」
桃色のじゃあじの袖で、ぐしぐしと涙を拭うリリス。
彼女が落ち込むのに連動して、頭上の初心者マークもしょんぼりと萎れているように見える。
拙者は煙管の煙をふぅ、と吐き出した。
武蔵に敗れ、死を受け入れた身。
地獄の釜茹でか、針の山を覚悟していたというのに。
待っていたのは、菓子と団子に釣られて拙者に縋り付く、ひどく間の抜けたポンコツ女神であったか。
「ふ、ふふ……ははははは!」
思わず、大笑いしてしまった。
「ひゃうっ!? わ、笑われましたぁ!?」
「いや、済まん。閻魔の裁きよりは、いくらか愛嬌があって良いと思ったまでだ」
拙者はすっと立ち上がり、三尺の物干し竿を肩に担いだ。
「拙者は佐々木小次郎。巌流島にて敗れ去った、しがない剣客に過ぎぬ。そのような死人に『養ってくれ』とは、随分と物好きな女神殿よ」
「こ、こじろうさん……? あの、じゃあ、お団子、食べさせてくれるんですか……?」
期待に満ちた、キラキラとした瞳で見上げてくるリリス。
神の威厳など欠片もないが、まあ、放っておくのも寝覚めが悪い。
「よかろう」
拙者はニヤリと口角を上げ、力強く頷いた。
「冥土の土産代わりだ。その未知なる異世界とやら、この小次郎が己の剣一つで切り開いてやろう。腹一杯の団子くらい、いくらでも食わせてやる」
「ほ、ほんとですかぁ!! やったぁぁぁ!!」
リリスは万歳をして飛び跳ねた。
頭上の初心者マークが、感情に呼応するように嬉しそうにピカピカと明滅している。
「では案内せよ、リリス殿。――推して参る!」
こうして、敗北の剣豪・佐々木小次郎の二度目の人生は始まった。
のちに、雑草を主食とする更なるポンコツ(人魚)を拾う羽目になり、最強の保護者としてカオスな異世界を無双することになるのだが――。
この時の拙者は、まだ知る由もなかったのである。




