十三、百薬の谷(6)
十七歳になったチャイレンを連れて、薬王バイリは山を下りてきた。懐には当然、黄緑色の友がいる。岩の海岸を通って町へと向かう。切り立った崖の下は岩礁になっているが、この辺りまで来ると小舟を出せる場所もある。そうは言ってもやはり地の利が悪い。ここで漁をするのは江家の父子だけである。彼等とは何故かこれまで縁が無く、バイリ老人とも顔を合わせた事がない。ここに漁師小屋がポツンとひとつ建っており、貧しい父子が暮らしていることを聞き知っているだけだった。
「あっ!」
チャイレンの小さな叫び声と共に、薬王師弟が走り出す。二人の人間が海岸で倒れているのが見えたのだ。老若二人の医師は、デコボコの岩海岸を飛ぶように走った。倒れているのは、壮年の男と十七、八の若者だ。よく似た顔立ちである。親子だろう。この二人は、一人は横向きに、一人は仰向けになって血を流していた。
「ジャン家の親子だろう。小屋まで運ぼう」
「わかった」
バイリ老人の指示に応えたのは、バッボウである。人語を話すだけでなく、不思議な力を持つ存在だ。小さな首を怪我人に向けると、黄緑色の光が帯となって繰り出された。光の帯がクルクルとジャン親子に巻き付く。人気のない昼前の海岸には、荒磯に砕ける波の音が猛々しく響いていた。
「血が乾いてますね」
「長いこと気を失っていたのだろう。気の毒に」
バッボウの光で患者を運びつつ、師弟は言葉を交わす。太陽は天の真ん中まで近づいている。岩場は熱に晒されていた。
小屋の中は閑散としている。部屋の隅には母の位牌があり、線香の燃え滓がほのかな香りを漂わせていた。手作りの位牌はかなり古びている。よく手入れをされているのだろう。潮風が吹き込む粗末な小屋で、朽ちることなく文字もはっきりと読めた。
壁際には小さな卓。背のない椅子が二脚。訪ねて来る者もいないと見える。寝床は荒縄を組んだ縄床だ。地べたに直に敷かれていた。枕と掛布団は見当たらない。申し訳程度の炊事場は小屋の外にある。
「そっと下ろすんだよ」
「分かってるって」
バッボウとは長い付き合いだが、バイリ老人は毎回細かく指示を出す。
「息子のほうには刀疵があるな。リンアル、親父さんのほうを頼む」
「はい、師傅」
二人は怪我人を一人ずつ請け負って、素早く手当をした。今日山を下りたのは診察が目的ではない。祝いの食べ物や記念品を探しに来た。チャイレンが百薬の谷に来て十年。その祝いをする為だ。それでも二人はそれぞれに薬函を背負っていた。万が一に備えてのことである。それが今、まさしく役に立っていた。




