十二、百薬の谷(5)
七王女彩鈴は、百薬の谷で休むことなく修行の日々を送っていた。薬王・百里寒辰と黄緑色の喋る亀・八宝と共に過ごす学びの時は、チャイレンの性に合っていた。故郷の城で過ごした武芸と王宮作法の修練も、生真面目かつ伸び伸びと学んだ子供である。生命の危機から弟子入りに至ったとはいえ、悲痛なところは少しも見えないのだった。
「鈴児、ここに来てから、今日でもう十年じゃない?」
黄緑色の亀が、突然鼻先に現れて話しかけてきた。バッボウは、練功中のチャイレンがビュウと払った竹竿に乗っていた。チャイレンは、小さな亀を吹き飛ばさないように、ピタリと動きを止めた。
「十年かぁ」
幼い頃から修行してきたチャイレン王女は、見知った気配のバッボウに動ずることはなかった。バッボウも驚かせるつもりは毛頭ない。互いに素早く音もなく移動するため、それが普通だったのである。武林、即ち武芸者の世界では軽功と呼ばれている動きだ。達人になると、まるで空を飛んでいるような距離と高さで跳ぶことも出来る。あまりに素早くて、誰にも気取られない者もいる。大昔には、腕試しに皇帝の宝を宮殿から盗み出したという達人もいたという。
「師傅もバッボウも、まるで変わんないから、実感沸かないなぁ」
チャイレンは、竹竿を壁に立てかけながら言った。バッボウは、チャイレンのしなやかな武人の腕に移りながら応じた。
「僕たち、のんびり生きてるからね。ここの時間はゆっくり動いてるんだよ」
それは違う。
「ふふっ、弟子めの時間は、俗世の流れであるようですよ?」
チャイレンは、ちゃんと成長しているのだ。変わらないのは,師匠である百里の谷の主バイリ老人と、その友バッボウである。あまりにも出会ったその日と同じ姿なので、チャイレンは自分の変化にも気づかないほどだった。師匠であるバイリ老人につき従って山を下りた時、老医の患者に、
「お弟子ちゃん、ずいぶん大きくなったなぁ!いやあ、別嬪さんになって。老先生と一緒じゃなきゃ、分かんなかったねぇ」
と、言われて認識したのである。
「小父さん、すっかりお元気になられて、ようございましたね」
「うん。あれからぶり返すこともないよ。老先生、ほんとにありがとうござんした。それにしても、お弟子ちゃんは、相変わらず丁寧だねぇ。流石、神医のお弟子ともなりゃ、違うもんだねぇ」
チャイレンは、清廉な笑みを浮かべた。王女とも武人とも違った佇まいである。すっきりと伸ばした背筋には、堅苦しさが微塵もない。威圧感も見えず、青竹の林を過ぎる風のようであった。




