十一、百薬の谷(4)
バイリ老人は、ただの医者ではなかった。呪術に対抗する手段もある程度は持つ者だった。この人に拾われたのは、七歳の不運な王女にとって幸運な出来事である。実在しないと思われている国の奇毒と呪詛に侵された子供だ。バイリ老人に出会わなければ、生き延びる見込みは零だったであろう。
そのうえ、バイリ老人は半分隠棲者だ。村や町に出向きはするが、本拠地は人跡未踏の幽谷である。そのような生活を送る人物だ。無用な好奇心で他人の事情を聞き出そうとはしない。
「お師匠さま、どうか拝師の礼をお受けください」
老人と亀は、床に額を擦り付けている子供を見下ろしていた。ひとりと一匹は、その住まいとする百薬の谷と同様に静逸な双眸でチャイレンを眺めた。老医がチャイレンの出自を問いただすことはなかった。彼は、数奇な星の元に生まれた子供を憐れに思った。そして、チャイレンの全身から醸し出される真剣な雰囲気を好ましく感じた。
「立ちなさい、小さな弟子よ。師にお茶を淹れてはくれまいか?」
微かな笑みを浮かべて、バイリ老人は腰を屈めた。黄緑色の亀を肩に乗せたまま、老人はゆったりとした動作で子供の両腕に手を添えた。チャイレンは促されるままに立ち上がった。
小ぶりな茶器で三杯の茶を飲み干すと、老人は慈父の眼差しを新しい弟子に投げかけた。
「一日師となれば親も同じと言うではないか。そう硬くならずともよいぞ。これから困ったことがあったならば、爺と亀を頼りなさい」
「はい。ありがとうございます。弟子めは精一杯修行に励みます。お師匠さま、霊亀さま、これからよろしくお願い致します」
生真面目に挨拶するチャイレンに、亀はくすぐったそうに首をすくめた。
「やだなあ。八宝でいいよう」
「そう?それじゃバッボウ、よろしく頼むね」
チャイレンはようやく表情を緩めた。
「うん、バク・レンイ。ねえ、レンイの名前はどんな字書くの?」
細く明るい声でバッボウが聞いてきた。チャイレンは小卓の上にあった筆を取ると、さらさらと自分の名前を記す。子供ながらに力強い筆遣いであった。
「ほほう、良き字を書くの。武の道に天賦がありそうだ。どうりで奇毒の禍いを生き延びた筈よのう」
チャイレンは照れ笑いをして、褒める老人を見上げた。亀はチャイレンの書いた文字を不思議そうに見つめて、こう尋ねた。
「ん?僕たちの言葉だと、この字はバイ・リンアルって読むよ」
「バッボウ、それじゃあ、リンアルでもいいよ」
「どうする?寒辰?」
亀に問われた老医は少し考えてから、リンアルと呼ぶことにした。弟子として人中を連れ歩くなら、謂ありげな素性は出来る限り隠したいと思ったからである。
それから10年という歳月があっという間に過ぎ去った。山奥で師匠と暮らしながら、時にはチャイレンも俗世を巡る。師匠について歩き、町の噂に聞き耳を立てる日々だ。10年も経てば、かつて九死に一生を得た子供も、神医の弟子として知られるようになっていた。




