157話『晩成アーク、最初の名刺』
朝、7時半。
一昨日まで6時起きだったせいか、一度そこで目が覚めかけた。
でも今日は、目を閉じてもう一度眠りへ沈んだ。
リビングへ降りると、全員起きている。
いつもの匂いと、いつもの声がある。そんな朝をひとつ挟んでから、朝食後に94階へ向かった。
エメルとグレンは、ひとまず94階で預かってもらうことにした。
城の方が広いし、スキル検証もしやすい。何より、あの二匹はああいう広い場所の方が落ち着く気がした。
「基本はこっちで過ごしてもらうけど、必要なら家の方にも来ていいから」
僕がそう言うと、翡翠緑のエメルが小さく首を傾げ、紅金のグレンは少しだけ胸を張った。
言葉は理解している。だから、このくらいの説明で十分伝わる。
コユキが偉そうに尻尾を揺らした。
「弟子なんだから、家にもちゃんと顔は出して」
その言い方に、エメルの羽の輪紋がふわりと残り、グレンのまわりに紅金の火花みたいな粒子が散る。
了承のつもりなんだろう。表現がいちいち綺麗でずるい。
訓練自体は、かなり安定していた。
僕とコユキとスーラの連携は、もう考えるより先に身体が動くところまで来ている。
索敵。初撃の受け。位置の固定。削る順番。全部が短く噛み合う。
一通りの確認を終えて、自宅へ戻った。
階段を降りてリビングへ戻りながらスマホを見ると、見慣れた名前が上に出ていた。
一ノ瀬 透花。
「あ」
思わず声が漏れた。
内容を開く。
【水曜日、大阪で仕事です。お会いできませんか?】
【この前のお礼に、美味しいご飯連れてってください】
【時任さんに協力して黒猫仮面拡散したら、八代さんに怒られたんですから】
「……ああ、覚えてたのか」
あの“ご飯”の約束。
忘れていたわけじゃない。約束したことは、僕もちゃんと覚えている。
ただ、一ノ瀬のこういう距離の詰め方は軽い。
いつの間にか肩に乗っていたミニディアが、さらっと言った。
「一ノ瀬さんからデートのお誘いね」
言い方。
完全にそっちへ寄せてる。
その瞬間、少し離れたところでお茶を淹れていた詩織の手が一拍だけ止まった。
「……一ノ瀬さんって、特務班のエースの方ですか?」
反応は露骨じゃない。
でも、言葉が半拍遅れた。そういうところで十分分かる。
「うん」
僕はそれ以上、余計なことは言わない。
ここで下手に言葉を足すと、たぶん空気がこじれる。
ディアが、面白そうに僕を見る。
「で、どうするの?」
「どうするも何も……礼は礼で返すよ」
スマホを見ながら答える。
「SNSの件もあるし。僕のせいで八代さんに怒られたみたいだしな」
詩織は何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落としてから、カップを置いた。
コユキが、意味ありげに言う。
「ちゃんとお礼を返すのは大事」
「そうだな」
「変な意味じゃなく」
「わざわざ言うと逆に怪しくなるからやめよう」
ディアが小さく笑う。
詩織も、少しだけ困ったように笑っていた。
今後、一ノ瀬と詩織が同じ場に立つこともある。
その時に変な空気にならないようにするのも、たぶん今の僕の役目だ。
仕事の調整に似ている。ただ、利害の代わりに感情が乗る分だけ厄介だ。
僕は一ノ瀬へ短く返事を打った。
会うこと。礼としてご飯は奢ること。日程は改めて合わせることだけを、簡潔に返した。
送信して、スマホを伏せる。
「昼から、詩織と一緒に出る」
「政府施設?」
ディアが聞く。
「うん。14時、淀屋橋」
詩織は黙って頷いた。
二回目ともなると、“同席すること”自体には少し慣れ始めている。
でも、緊張が消えたわけじゃない。背筋の伸び方に、まだ少しだけ硬さがある。
昼過ぎ。
詩織と一緒に家を出る。
今日は縮小なし。
認識阻害と、軽い変装だけだ。詩織も帽子とマスク、眼鏡で顔を散らしている。
淀屋橋の政府施設は、相変わらず妙に静かだった。
受付を通って、案内に従って進む。以前より詩織の足取りは安定していた。
空の会議室に通される。
席に座って、詩織が小さく息を整える。
しばらくして、ドアが開く。
入ってきたのは、九条さんと柊さんだった。
僕は立ち上がって、先に口を開く。
「お世話になります。先に名刺、お渡ししても大丈夫ですか?」
まずは名刺交換というビジネスの型を先に置く。
空気は、最初の一手でだいぶ整う。
九条さんが目を細めた。
「……会社の名刺か」
「はい」
僕はまず自分の名刺を差し出す。
続けて、詩織も名刺を出した。
柊さんが受け取りながら、目を落とす。
「晩成アーク……」
九条さんも、名刺を見たまま一言だけ言う。
「晩成アーク、か」
「会社を辞めて、新しく立ち上げました」
席について、僕は淡々と続ける。
「なので、今後の振込は、会社の方へお願いできればと」
柊さんがすぐに頷く。
「承知しました。変更手続きは、こちらで整理して改めてご連絡します」
九条さんが、そこで少しだけ口元を動かした。
「首輪で大きい金が入ったからか?」
からかい半分、本音半分みたいな言い方だった。
僕は首を振る。
「収入の問題というより、帰還者のまま会社に席を置く方が、会社側に負担が大きかったです」
一拍置いてから続ける。
「向こうも、扱いに困っていたと思います」
九条さんが頷いた。
「そうだろうな。帰還者になって辞めるやつは多い。腫れ物みたいに扱われて、首になるやつもいる」
「分かります」
そこは、本当に分かる。
扱いづらい異物を、組織は“特別扱い”で包む。それは優しさにも見えるけど、居場所の温度を下げることも多い。
九条さんの視線が、今度は詩織へ向いた。
「速水えりなじゃなくて、早見詩織なんだな」
詩織はまっすぐ答えた。
「はい。晩成アークでは、早見詩織として働きます」
“守られている子”の答え方じゃなかった。
自分で席を選んで、そこに座る人の声だった。
九条さんも、それはちゃんと受け取った顔をした。
そして、余計な前置きなく本題を置いた。
「今日来てもらったのは二つだ」
まず一つ目。
「あの見張りの件だが、中国には抗議を送っている。だが、向こうは知らないの一点張りだ」
柊さんが、補足みたいに資料をめくる。
「街中の防犯カメラも追っています。ただ、政府が直接絡んでいるのか、どこかが雇ったのか、まだ断定はできません」
九条さんが続ける。
「ただ、十中八九、狙いは首輪の製造技術だろうな」
僕は黙って聞く。
本当は、ユキ丸の微羽斥候で、もう少し踏み込んだ情報は持っている。
でも、ここでそれを出すのは違う。出した瞬間に、自分が別の意味で危険人物になる。
だから答えは、絞る。
「分かりました。少なくとも、あの日以降は監視の気配はありません」
九条さんが短く頷いた。
「そうか。なら、ひとまずはいい」




