153話『仕事の掛け直し』
小型ゲート。
19階から先は、今の詩織にとってもう“怖い場所”ではなくなっていた。
その日の最初の階層を抜ける時点で、それが分かった。
判断が速い。
足が止まらない。
罠も、ほとんど見切って避けている。
ルミエルの支援も厚い。
索敵、危険予兆、足止め。どれも前より明らかに洗練されていた。
僕はほとんど手を出さなかった。
僕はほとんど手を出さなかった。
それで足りること自体が、少し驚きだった。
19階。
20階。
21階。
22階。
気づけば、五時間で4階層を抜けていた。
来た頃とは、もう動きの質が違っていた。
戦闘力だけじゃない。判断の速さと、罠回避の精度が目に見えて伸びている。
詩織の顔は明るかった。
「……自分でも、前より見える感じがします」
「うん。見てて分かった」
短く返す。
でも、ちゃんと伝わったらしく、詩織の口元が少しだけ緩んだ。
「じゃあ、戻る前に」
詩織もすぐに意図を察したらしい。小さく頷く。
「はい。お願いします」
ディアが、少しだけ楽しそうに言う。
「今日も中ではおとなしくしてるのよ」
「……はい」
「それ、言い方が完全に持ち運び荷物なんだよな」
僕が言うと、コユキが横から刺す。
「精密機器より扱い慎重なくせに」
「当たり前だろ」
ディアの 縮小化身 が発動する。
詩織の輪郭がふっと縮んで、手のひらに乗るくらいのサイズになる。
何度見ても、この光景にはまだ慣れない。
『……よろしくお願いします』
「うん。できるだけ揺らさない」
そう返して、僕はカバンの中の定位置へそっと収めた。
移動手段としては合理的だ。
合理的なんだけど、やっぱり少しだけ落ち着かない。
人をこういう形で運ぶことに、まだ感覚が追いついていない。
帰宅して、先にシャワーを浴びる。
湯気の中で、今日一日の輪郭がようやく整う。
退職のこと。詩織のピアノ。ゲート。
全部別の話みたいなのに、ちゃんと同じ一日の中に入っていた。
夕食の席では、会話は軽かった。
「今日のゲート、良かったよ」
詩織が箸を止める。
「……どこがでしょうか」
「焦ってないところ。判断も早かったし、あと、迷っても自分で戻れてた」
褒めすぎない。
でも、届かない言い方にもしたくなかった。
「……ありがとうございます」
詩織は小さく頷いて、少しだけ嬉しそうに笑った。
夜、ニュースをつける。
世界の到達階層が流れていた。
アメリカ、31階。
中国、30階。
日本、24階。
数字だけ見ると、世界が一斉に加速しているのが分かる。
帰還者関連のニュースも、もはや特集じゃなく日常の一部だ。
その中に、一つだけ引っかかるものがあった。
一階クリアでスキルを得た一般人が、単独で10階へ入った。
その先で契約モンスターが現れた。
無事に10階をクリアし、二つ目のスキルと契約モンスターを得た。
さらにフランスでは、ウンチク好きのフクロウ型モンスターが“仕様”を語り出した、なんて話まで流れている。
条件を満たせば、誰でも契約モンスターを得られる。そんな解説が拡散していた。
「……これは、変わるな」
僕がそう呟くと、詩織が隣で少しだけ身じろぎした。
「街で……モンスターを連れて歩く人、増えますよね」
「直ぐってことはないだろうけど、時間とともに増えると思う」
契約モンスターが特別じゃなくなる国も出てくる。
でも、混乱も増える。扱い方が分からないまま日常へ持ち込まれるものって、たいてい最初は摩擦を生む。
詩織が、少しだけ不安そうに言う。
「……ちょっと、怖いです」
前なら、その不安を消そうとしていたかもしれない。
でも今は少し違う。
「うん。怖いなら、怖いって言っていい」
僕はそう返した。
「その上で、一緒に考えよう」
詩織は僕を見て、それから小さく頷いた。
「……はい」
その返事は、前みたいに薄くなかった。
今日で、退職手続きは終わった。
明日からは、晩成アークとしてのスタートになる。
退職は終わりじゃない。
役割の看板を、自分の手で掛け直しただけだ。
そう思うと、不思議なくらい、気持ちは前を向いていた。




