152話『退職日と、子犬のワルツ』
水曜日。
朝、目が覚めた瞬間、まず思った。
――今日で最後か。
それだけのことなのに、胸の内側で妙に静かに響く。
大きな感慨があるわけじゃない。むしろ逆で、現実の方が事務的に進んでいくから、感情が少し遅れてついてくる感じだった。
二階の寝室を出て、階段を降りる。
リビングの空気は、いつも通りの匂いをしていた。コーヒーと、焼けたパンと、温いスープ。
でも今日は、その“いつも通り”の中に、監視がまだ残っているかもしれないという緊張が、薄く混ざっていた。
ディアが、テーブルに皿を置きながら言う。
「大丈夫よ。もう監視は消えてるわ」
その言葉に、僕も詩織もほとんど同時に肩の力を抜いた。
見張られていると分かっていて家にいるのは、思っていた以上に疲れる。
家が要塞でも、守りが厚くても、見られているという気配だけで心は削られる。
詩織も、それが抜けたのが分かった顔をしていた。
昨日までより、肩の角度が少しだけ柔らかい。
「よかった……」
小さく漏れたその声に、ディアが頷く。
「だから、今日は普通にしてていいわ」
“普通にしてていい”。
たぶん、今の詩織にはそういう言葉の方が効く。
そして僕にも。
コーヒーを一口飲んでから立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
いつもの声。
いつもの返事。
その“いつもの”を、今日は少しだけ大事に思った。
出社して、そのまま会議室へ向かった。
今日はもう、何かを進める日じゃない。
畳む日だ。
会議室には人事の担当が待っていて、最終の退職手続きが淡々と始まった。
返却物を一つずつ確認していく。
PC。社用携帯。名刺。入館証。ロッカーの鍵。
机の上の私物はほとんど残っていなかったから、物理的には軽い。
でも、返却物って不思議で、一つ渡すたびに“所属”が剥がれていく感じがある。
説明も受ける。
「離職票は、後日ご自宅へ郵送になります」
「はい」
「源泉徴収票も、後日に発行し郵送します」
「分かりました」
「確定拠出年金の移換手続きについては、別途ご案内が出ますので」
そこも、もう一度だけ確認する。
社会保険の喪失。任意継続か国保への切替。住民税の扱い。最終給与の控除。
一つ一つは理解している。
それでも、その場でもう一度確認する。こういう“理解しているつもり”を潰していくのが、たぶん社会人の癖なんだろう。
健康保険料の話も、頭の中で整理し直した。
今月二か月分引かれていた件。四月分が五月支給で引かれること。退職に伴って五月分も同時に乗ったこと。
分かってる。
でも、分かってることほど、その場で淡々と再確認してしまう。
手続きが終わって会議室を出ると、空気が少し変わった。
竹島さんが先に気づいて、声をかけてきた。
「お疲れさまでした」
「ありがとう」
そこへ、プロジェクトのメンバーが何人か集まってくる。
派手なことは要らない。そういう空気じゃないし、僕も求めていない。
「いろいろ、ありがとうございました」
「こちらこそ。……またどこかで会ったら、その時はよろしく」
それくらいでちょうどいい。
長くすると、言葉が少しずつ“別れ”を盛りすぎる。
最後に入館証は返却済みだから、自分一人ではもうこの扉を通れない。
人事の人にドアを開けてもらって、オフィスの外に出た。
その瞬間、ふと思う。
これでもう、このオフィスには来ない。
そう思った直後に、妙なことも浮かぶ。
……でも、新大阪にはゲートがある。
結局この街には、別の顔で何度でも戻ってくるんだろうなと思った。
移動中、スマホでプライベートのメールを確認する。
柊さんから返信が来ていた。
昨日の件――監視の件への返答だ。
文面自体は要点だけだった。
その末尾に、ひとことだけ追加がある。
【今週の金曜日(6月2日)、お時間いただけますか】
メールで返すより、こういうのは短く返した方が早い。内容も簡単だし、今の相手にはその方が伝わる。
僕はメッセージアプリを開いて、短く打つ。
【金曜14時、大丈夫です。伺います】
送信。
形式より速さ。
余計な文章って、丁寧さにもなるけど、時にはただのコストだ。
そのまま真っ直ぐ帰宅する。
玄関を開けた瞬間、うっすらとピアノの音が聞こえた。
最初は小さい。
でも、リビングへ入ると、二階の物置部屋――サブゲート部屋の方から、はっきり流れてくる。
ピアノ。
僕がたまに弾くのは、昔ネットで流行っていた曲とか、そのあたりだ。
でも今、聞こえているのは違う。もっと古典的で、粒立ちが綺麗で、跳ねるようなリズム。
ショパン。
子犬のワルツ。
鞄を置いて、足音を殺しすぎないくらいで二階へ上がる。
物置部屋の扉は開いていた。
その中で、詩織がピアノを弾いている。
集中していて、まだ僕に気づいていない。
いつの間にかコユキが横にいた。
ブレスレットから出たミニディアは、僕の肩にちょこんと座る。
子犬のワルツが終わる。
そのまま、今度は幻想即興曲に入った。
指が迷わない。
音も揺れない。
上手い、で済ませるには長く積んできた人の弾き方だった。
知らなかった、というより、まだ見えていなかった詩織の時間がそこにあった。
幻想即興曲が終わったところで、僕は小さく拍手した。
詩織がびくっと肩を震わせて振り返る。
「あっ、帰られてたんですね」
「うん。今」
詩織が少し慌てて立ち上がる。
「すみません、勝手にお借りしてました」
「いや、それは全然」
僕は素直に言った。
「ピアノ、弾けたんだね」
詩織が少し照れた顔をする。
「四歳からやってて……高校までは習ってました。大学でも、少しだけ」
「少し、のレベルじゃなかったけど」
「そんなこと、ないです」
少しの人がショパンを弾けない。
でも、その“ちょっと照れてる感じ”が、いまはいい。
和解した後の空気って、劇的に甘くなるわけじゃない。
でも、こうして前からそうだったみたいに日常へ戻っていく感じの方が、たぶん本物なんだろうと思った。
昼はみんなで食べた。
ディアが料理を出して、詩織も自然に皿を運ぶ。
もう“手伝わせてください”の温度じゃない。動く場所が分かっていて、そこに入っている感じだ。
退職日の重さも、そういう空気の中で少しずつ輪郭を失っていった。
コユキが、いつもの調子で言う。
「退職したのに、家の方が忙しそう」
「それは否定できない」
笑って受けると、詩織も少しだけ笑った。
午後、僕は詩織に声をかけた。
「今日は94階じゃなくて、小型ゲート行こうと思う」
詩織が顔を上げる。
「……詩織も来る?」
「はい」
「今の詩織の実力、ちゃんと見ておきたい」
そう言うと、詩織は少しだけ目を伏せた。
視線が少し落ちた。照れているのが、分かるくらいには。




