表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第九章:盤上は世界へ、扉は奪還へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

156/159

152話『退職日と、子犬のワルツ』

水曜日。


朝、目が覚めた瞬間、まず思った。

――今日で最後か。


それだけのことなのに、胸の内側で妙に静かに響く。

大きな感慨があるわけじゃない。むしろ逆で、現実の方が事務的に進んでいくから、感情が少し遅れてついてくる感じだった。


二階の寝室を出て、階段を降りる。

リビングの空気は、いつも通りの匂いをしていた。コーヒーと、焼けたパンと、温いスープ。


でも今日は、その“いつも通り”の中に、監視がまだ残っているかもしれないという緊張が、薄く混ざっていた。


ディアが、テーブルに皿を置きながら言う。


「大丈夫よ。もう監視は消えてるわ」


その言葉に、僕も詩織もほとんど同時に肩の力を抜いた。


見張られていると分かっていて家にいるのは、思っていた以上に疲れる。

家が要塞でも、守りが厚くても、見られているという気配だけで心は削られる。


詩織も、それが抜けたのが分かった顔をしていた。

昨日までより、肩の角度が少しだけ柔らかい。


「よかった……」


小さく漏れたその声に、ディアが頷く。


「だから、今日は普通にしてていいわ」


“普通にしてていい”。

たぶん、今の詩織にはそういう言葉の方が効く。

そして僕にも。


コーヒーを一口飲んでから立ち上がった。


「じゃあ、行ってくる」


「いってらっしゃい」


いつもの声。

いつもの返事。


その“いつもの”を、今日は少しだけ大事に思った。


出社して、そのまま会議室へ向かった。


今日はもう、何かを進める日じゃない。

畳む日だ。


会議室には人事の担当が待っていて、最終の退職手続きが淡々と始まった。


返却物を一つずつ確認していく。

PC。社用携帯。名刺。入館証。ロッカーの鍵。


机の上の私物はほとんど残っていなかったから、物理的には軽い。

でも、返却物って不思議で、一つ渡すたびに“所属”が剥がれていく感じがある。


説明も受ける。


「離職票は、後日ご自宅へ郵送になります」


「はい」


「源泉徴収票も、後日に発行し郵送します」


「分かりました」


「確定拠出年金の移換手続きについては、別途ご案内が出ますので」


そこも、もう一度だけ確認する。

社会保険の喪失。任意継続か国保への切替。住民税の扱い。最終給与の控除。


一つ一つは理解している。

それでも、その場でもう一度確認する。こういう“理解しているつもり”を潰していくのが、たぶん社会人の癖なんだろう。


健康保険料の話も、頭の中で整理し直した。

今月二か月分引かれていた件。四月分が五月支給で引かれること。退職に伴って五月分も同時に乗ったこと。


分かってる。

でも、分かってることほど、その場で淡々と再確認してしまう。


手続きが終わって会議室を出ると、空気が少し変わった。


竹島さんが先に気づいて、声をかけてきた。


「お疲れさまでした」


「ありがとう」


そこへ、プロジェクトのメンバーが何人か集まってくる。

派手なことは要らない。そういう空気じゃないし、僕も求めていない。


「いろいろ、ありがとうございました」


「こちらこそ。……またどこかで会ったら、その時はよろしく」


それくらいでちょうどいい。

長くすると、言葉が少しずつ“別れ”を盛りすぎる。


最後に入館証は返却済みだから、自分一人ではもうこの扉を通れない。

人事の人にドアを開けてもらって、オフィスの外に出た。


その瞬間、ふと思う。


これでもう、このオフィスには来ない。

そう思った直後に、妙なことも浮かぶ。

……でも、新大阪にはゲートがある。


結局この街には、別の顔で何度でも戻ってくるんだろうなと思った。


移動中、スマホでプライベートのメールを確認する。


柊さんから返信が来ていた。

昨日の件――監視の件への返答だ。


文面自体は要点だけだった。

その末尾に、ひとことだけ追加がある。


【今週の金曜日(6月2日)、お時間いただけますか】


メールで返すより、こういうのは短く返した方が早い。内容も簡単だし、今の相手にはその方が伝わる。

僕はメッセージアプリを開いて、短く打つ。


【金曜14時、大丈夫です。伺います】


送信。


形式より速さ。

余計な文章って、丁寧さにもなるけど、時にはただのコストだ。


そのまま真っ直ぐ帰宅する。


玄関を開けた瞬間、うっすらとピアノの音が聞こえた。


最初は小さい。

でも、リビングへ入ると、二階の物置部屋――サブゲート部屋の方から、はっきり流れてくる。


ピアノ。


僕がたまに弾くのは、昔ネットで流行っていた曲とか、そのあたりだ。

でも今、聞こえているのは違う。もっと古典的で、粒立ちが綺麗で、跳ねるようなリズム。


ショパン。

子犬のワルツ。


鞄を置いて、足音を殺しすぎないくらいで二階へ上がる。


物置部屋の扉は開いていた。


その中で、詩織がピアノを弾いている。

集中していて、まだ僕に気づいていない。


いつの間にかコユキが横にいた。

ブレスレットから出たミニディアは、僕の肩にちょこんと座る。


子犬のワルツが終わる。

そのまま、今度は幻想即興曲に入った。


指が迷わない。

音も揺れない。

上手い、で済ませるには長く積んできた人の弾き方だった。

知らなかった、というより、まだ見えていなかった詩織の時間がそこにあった。


幻想即興曲が終わったところで、僕は小さく拍手した。


詩織がびくっと肩を震わせて振り返る。


「あっ、帰られてたんですね」


「うん。今」


詩織が少し慌てて立ち上がる。


「すみません、勝手にお借りしてました」


「いや、それは全然」


僕は素直に言った。


「ピアノ、弾けたんだね」


詩織が少し照れた顔をする。


「四歳からやってて……高校までは習ってました。大学でも、少しだけ」


「少し、のレベルじゃなかったけど」


「そんなこと、ないです」


少しの人がショパンを弾けない。

でも、その“ちょっと照れてる感じ”が、いまはいい。


和解した後の空気って、劇的に甘くなるわけじゃない。

でも、こうして前からそうだったみたいに日常へ戻っていく感じの方が、たぶん本物なんだろうと思った。


昼はみんなで食べた。


ディアが料理を出して、詩織も自然に皿を運ぶ。

もう“手伝わせてください”の温度じゃない。動く場所が分かっていて、そこに入っている感じだ。


退職日の重さも、そういう空気の中で少しずつ輪郭を失っていった。


コユキが、いつもの調子で言う。


「退職したのに、家の方が忙しそう」


「それは否定できない」


笑って受けると、詩織も少しだけ笑った。


午後、僕は詩織に声をかけた。


「今日は94階じゃなくて、小型ゲート行こうと思う」


詩織が顔を上げる。


「……詩織も来る?」


「はい」


「今の詩織の実力、ちゃんと見ておきたい」


そう言うと、詩織は少しだけ目を伏せた。

視線が少し落ちた。照れているのが、分かるくらいには。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ