151話『家の外の視線』
新大阪ゲートを出た頃には、もう日が傾いていた。
海風と塩気がまだ肌に残っていて、身体の奥だけが少し遅れて現実へ戻ってくる。
疲労はある。でも、頭は妙に冴えている。
ゲート帰りって、いつも少しそうだ。危機を抜けた直後は、逆に外の気配に敏くなる。
駅を降りて、家のある住宅街へ入る。
その途中だった。
ブレスレットの奥から、ディアの念話が落ちてくる。
『気をつけて。家の周り、見られてるわ』
一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
でも、足は止めない。
視線も上げない。歩幅も変えない。
――気づいていないふりをする。
ここで反応したら、相手に“当たり”を教えるだけだ。
何も知らない顔で、いつも通り帰る。それが一番情報を渡さない。
角を曲がる。
自宅が見える距離まで来ても、僕は何も変えなかった。呼吸も、速度も、そのまま。
玄関を開ける。
ユキ丸のホログラムが、いつものようにふわりと浮かぶ。
【おかえりなさい】
「ただいま」
その少しあとで、詩織もリビングの方から顔を出した。
「おかえりなさい」
家の中の空気だけは、ちゃんといつも通りだった。
それが、今はありがたかった。
リビングへ入ると、詩織が先に口を開いた。
「今日、お買い物に出ようとしたら……ユキ丸さんに止められました」
言いながら、少し戸惑っている。
ユキ丸が帽子を外し、ホログラムに文字を出す。
【現在この家が監視されている可能性があるため、念のため詩織さんの外出を控えさせました】
「……監視、ですか」
詩織の表情が、一瞬だけ固くなる。
“見られている”という感覚が、前より直接的に刺さった顔だ。
僕はまず、そっちを落ち着かせることにした。
「大丈夫。少なくとも今は、家の中が一番安全だ」
詩織は僕を見て、少しだけ呼吸を整える。
「……はい」
それから、ユキ丸へ向き直る。
「分かってること、ある?」
ホログラムが、地図に切り替わった。
家の周辺。
道路。
隣家。
見通しのいい角。
そこに、赤いマーキングが三つ置かれる。
位置取りがいやに綺麗だった。
死角を潰す配置。交代ライン。退避ルートまで引かれている。
「素人じゃないな……」
次に、短いクリップが流れる。
カメラ映像みたいな角度。
三人。アジア系の顔立ち。日本人と断定はできない。服装は一般人寄り。でも、立ち位置と間合いが違う。
軍か、公安系か。
少なくとも“ただの張り込み素人”ではない。
アジア系。
でも、日本人なのか外国人なのか、まだ断定はしにくい。
僕が聞く。
「この映像、何?」
ユキ丸がホログラムに簡潔な説明を出した。
【スキル:微羽斥候】
【蚊ほどのサイズの斥候ドローンを多数放ち、映像・音・熱源・移動経路を収集】
【必要時は自爆し攻撃することも可能】
【破壊時はゲート産のため腐敗して消滅。証拠が残りにくい】
【都市部でも溶け込むように飛行し、発見が難しい】
「……ユキ丸、便利の域を超えてないか」
ユキ丸のほっぺの薄ピンクが少し明るくなる。
褒められた判定なんだろう。
そういえば、ユキ丸は92階の上位モンスターだった。
可愛い雪だるまロボットに見えても、今日の海の連中より格上だと思えば、だいぶおかしい。
コユキが影から出てきて、三本の尻尾をゆっくり揺らした。
「この家、ディアもいるしユキ丸もいる。普通の相手が何しても、そう簡単には崩れない」
「うすうす思ってたけど……防衛拠点として完成しつつあるな」
詩織はまだ完全には笑えないけど、それでも少しだけ肩の力が落ちた。
“守りがある”と実感できるだけで、人は少し戻る。
僕はソファに腰を下ろして、もう一度ホログラムの配置を見る。
ずっと見られているのは、不快だ。
それに、詩織が自由に外に出られない状態が続くのも良くない。
「……ずっと監視されるのも面倒だな」
コユキが目を細める。
「追い払う?」
「できるんですか?」
「やり方、考える」
僕は少しだけ思考を巡らせる。
相手の数、位置、視線の癖。こちらの強み。近所への影響。目立たないこと。
細かい手順は、口にしない。
「うん。最低限、分からせる」
ディアが僕を見る。
止めない。たぶん、止めるほど危ない動きじゃないと読んでいる。
「派手にしないでよ」
「分かってる」
「ほんとかしら」
「必要以上にはやらない」
「それならいいわ」
家を出る時も、あえて普通にした。
特別な気配を出さない。
ただ、近所へ少し歩いていく人間の顔。
歩きながら、ディアの念話が落ちる。
『監視、ついてるわね』
『……じゃあ始めますか』
言葉の温度は低い。
その方が、今はちょうどいい。
少し離れた、古いアパートの屋上だった。
向こうはまだ、家の方を見ている。
位置の優位を取ってから、僕は姿を見せた。
「監視するなら、もう少し上手くやった方がいい」
三人が同時に振り返る。
驚き方が揃っている。
「|怎么回事?刚才不是还在那边吗——《どういうことだ? さっきまであっちにいたはずじゃ——》」
「|他怎么会在这里……《彼がどうしてここに……》」
中国語、だと思う。
正確には分からない。でも、その程度には聞き覚えがあった。
僕は肩をすくめて、日本語で返した。
「何を話しているか分かりません。日本語でお願いします」
三人のうち、一人が一歩前に出た。
カタコトの日本語だった。
「時任……秀人さん、ですね」
「そうです」
感情は乗せない。
あくまで“窓口”の話に落とす。
「なぜ、私を監視しているのですか」
返事はない。
三人とも、視線だけで何かを確認している。
指示を待っている動きだった。
「話があるなら、日本政府を通してください」
少しだけ声を落とす。
「見張られるのは、不愉快です」
そこまで言ったところで、空気が変わった。
相手が、ほんの少し動く。
距離を詰める前触れ。手元の道具に触れる動き。何かを仕掛けるつもりだと分かる。
でも、そこで終わらせる。
威圧波。
空気が、一段だけ重く沈んだ。
音がなくなる。
喉が潰れるような感覚。息が上手く吸えない。
“恐い”より先に、本能が“逆らうな”と判断する類の圧だった。
三人の膝が落ちる。
一人は手をつき、もう一人はその場で崩れた。残った一人も立っていられない。
「っ……」
僕は冷たく言う。
「次は見逃さない」
そのまま、少しだけ視線を落とす。
「お引き取りください。近所迷惑です」
三人は何も返さなかった。
返せなかった、の方が正しいかもしれない。
互いに支え合うようにしながら、ふらついて下がっていく。
撤退。無言。速い。
十分だった。
家に戻る。
リビングへ入ると、コユキが影から出てきて短く言った。
「上手くやったね」
「何が」
「幻影標識で家の前に囮を置いて、無相潜伏で回り込んだやつ」
「……あれで良かったかは分からないけど」
「十分でしょ」
ディアがブレスレットから出てくる。
「少なくとも、監視は止めて引いたわ。威圧もちゃんと効いた」
詩織が、少しだけ不安そうに聞いた。
「……大丈夫なんでしょうか」
「とりあえず今夜は大丈夫」
僕はそう答えてから、ホログラムを出しているユキ丸を見る。
「ユキ丸。柊さんにメールで送っておいて。経緯も、相手の特徴も、こっちの対応も」
ホログラムに、メール作成中の表示が出る。
ソファに腰を下ろして、小さく息を吐く。
「これで終わってくれるといいんだけどな」
コユキが即座に刺した。
「それはフラグ」
「やめろ」
少しだけ、空気が軽くなった。
笑うほどじゃない。でも、張りつめた糸が一段だけ緩むくらいには。
家の中の灯りは温かい。
それでも、その外側ではまだ何かが動いている気配だけが残っていた。
火曜の夜は、その余韻を抱えたまま静かに更けていった。




