147話『戻った朝と、次の役割』
月曜日。
朝、目が覚めた時、胸の奥に残っていた張りが少しだけ薄くなっているのが分かった。
昨日のことを思い出すと、痛みより先に体温が残る。
屋上庭園。
ぎこちない会話。
手のひら一枚ぶんの距離。
染みついた仕事の癖は、そう簡単には抜けない。
けど、意識して切り替えようとしている自覚があるだけ、昨日までよりは前にいる。
寝室を出て、二階から階段を降りる。
リビングには、もういつもの面子が揃っていた。
コユキ。
ディア。
スーラ。
ユキ丸。
そして、詩織。
詩織は、分かりやすく機嫌がいいというほどではないけど、空気の角が取れていた。
表情を整えてはいる。
でも、それが“速水えりな”の仕事の仮面じゃなくて、家の中で人と顔を合わせる時の整え方に戻っている。
その違いは、小さいのに、ちゃんと分かる違いだった。
「おはようございます」
「おはよう」
返しながら、詩織の声の温度を一瞬だけ確かめる。
うん。今日は大丈夫そうだ。
ディアが本体サイズのまま、朝食を並べながら言う。
「今日は、秀人は一日お休み。昼は94階で訓練。夜は送別会、だったわね」
「うん」
「詩織は94階中心でいいのよね?」
ディアが視線を向けると、詩織は素直に答える。
「はい、94階で訓練中心にしようと思っています」
一拍置いてから、少しだけ言い足した。
「……この前みたいに、空気を重くしないようにします」
その言い方が、少しだけ可笑しくて、でも詩織らしかった。
“引きずらないようにする”を、ちゃんと自分の言葉にしている。
コユキが、ソファの背から言う。
「殊勝」
「そういう言い方やめなさい」
ディアが刺し返す。
「事実」
「火を足さない」
僕が言うと、コユキが三本の尻尾を小さく揺らした。
「はーい」
家の空気が、ちゃんと戻っている。
戻っているからこそ、朝の会話は軽い方がいい。
朝食を食べ終えたあと、少しだけ間ができた。
今なら言える気がした。
圧をかけず、でも逃げない形で。
僕は詩織を見る。
「詩織って、今は94階で訓練を優先してるけど……先のことって、少しは考えてる?」
詩織が、マグカップを両手で持ったままこちらを見る。
「先、ですか」
「うん。働くこととか、その辺」
詩織はすぐには答えなかった。
でも、黙って逃げる感じでもない。ちゃんと考えてから言うための間だ。
「……貯金には、しばらく余裕があります」
そこから、言葉を選ぶ。
「なので、今は“強くなること”を優先したい気持ちの方が強いです」
妥当な答えだと思う。
感情で飛びつかないし、現実も見ている。
僕はそこで一拍置いてから、本題を出した。
「色々あって、言い出すタイミングを逃してたんだけど」
詩織が少しだけ背筋を伸ばす。
「新しく作る晩成アーク合同会社で、働いてみる気はある?」
今度は、詩織の返事が早かった。
「……ぜひ」
早い。
「まだ業務の説明、何もしてないんだけど……」
詩織が小さく瞬きをしたあと、少しだけ笑う。
「それでも、です」
その一瞬、胸の奥が小さく跳ねた。
困る。
こういう時に、ちゃんとドキッとする。
揉めて、性格の噛み合わなさも、ややこしさも、ちゃんと見たはずなのに。
それでも、こうして綺麗な人に柔らかく笑われると、男は驚くほど単純に揺れる。
……いや、単純なのは僕か。
だからこそ、そこで感情のまま受け取らない。
一拍だけ置いて、現実を先に置く。
「即答なんだ」
「はい、私……何ができるかは、まだちゃんと分かってないです。でも、役に立ちたいです」
「うん」
「帰還者アイドルだった経験が、何かに使えるなら……使いたいです」
そこまで言って、少しだけ言葉を探す。
「ただ、迷惑になるなら……」
「そこは違う」
短く切る。
「期待というより、任せたい仕事は既にある」
僕がそう言うと、詩織はすぐに真面目な顔に戻った。
「基本は、コユキの指示に従ってもらう形になると思う」
詩織が、コユキを見る。
コユキは偉そうに座ったまま、当然みたいな顔をした。
「ほとんどの裏方は、ボクとユキ丸とレグリスで終わらせる」
「最近ほんとにそうなんだよな……」
僕は苦笑しながら続ける。
「役所に行くとか、対面で説明するとか、人が表に出た方がいい場面は確実にある。そういうところは、詩織がいると助かる」
詩織の表情が少し変わる。
「対面……」
「うん。モンスターだと人前には出ることができない。詩織、交渉はまだ苦手でも、人前で役割をきちんとこなすのは得意」
詩織は少し照れたみたいに視線を落とした。
「……それなら、たぶん」
「だから、役に立つかどうかで言えば、かなり助かる」
詩織が小さく息を吐く。
その息に、安心と緊張が両方混ざっていた。
そこから先は、細かい確認になった。
何ができるか、というより、何を任せる形なら無理がないか。
どこまで仕事にして、どこからは“まだ保留”にするか。
やっていること自体は、業務の確認にすぎない。
でも、こういう確認の時間があるだけで、“期待”がちゃんと“役割”に変わる。
そこで、コユキが事務的に話を切り替えた。
「合同会社の設立日、6月1日で確定だよね」
「うん。1日に法務局に行って設立登記を行おうと思ってる。それ以外は、お願いできる?」
ユキ丸が帽子を外す。
ホログラムに、行政系の手続きがずらっと並ぶ。
e-Taxで税務署に出す法人設立届出書。
e-Govで社会保険関係。
eLTAXで府税関係。
ほかにも必要な届出の洗い出しや、提出タイミングの整理。並行でできるものと、後じゃないと無理なものまで、きっちり並んでいた。
「……オンラインでほとんどいけるの、便利だな」
僕が素直にそう言うと、コユキが即座に刺した。
「何で一つのシステムに統合されてないのか、意味が分からない」
正論だった。
「ほんとにね」
僕は笑って受け流しながら、次の話を出す。
「あと、不動産屋から信用調査が通ったって連絡が来てた。今日の夕方、本契約を進める」
詩織が、少し目を丸くする。
「設立前だから、最初は個人名義で契約。設立後に法人契約へ切り替えて、引き落とし口座も法人に変える予定」
そこまで説明してから、コユキを見る。
「その辺の帳簿、任せていける?」
コユキは当然みたいに答えた。
「レグリスもユキ丸も、日本の簿記知識は学習済み」
「最近、ほんとになんでもありだな……」
呆れて言うと、コユキは当然みたいな顔をした。
「今さら」




