表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第九章:盤上は世界へ、扉は奪還へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

151/158

147話『戻った朝と、次の役割』

月曜日。


朝、目が覚めた時、胸の奥に残っていた張りが少しだけ薄くなっているのが分かった。


昨日のことを思い出すと、痛みより先に体温が残る。


屋上庭園。

ぎこちない会話。

手のひら一枚ぶんの距離。


染みついた仕事の癖は、そう簡単には抜けない。

けど、意識して切り替えようとしている自覚があるだけ、昨日までよりは前にいる。


寝室を出て、二階から階段を降りる。

リビングには、もういつもの面子が揃っていた。


コユキ。

ディア。

スーラ。

ユキ丸。

そして、詩織。


詩織は、分かりやすく機嫌がいいというほどではないけど、空気の角が取れていた。

表情を整えてはいる。

でも、それが“速水えりな”の仕事の仮面じゃなくて、家の中で人と顔を合わせる時の整え方に戻っている。


その違いは、小さいのに、ちゃんと分かる違いだった。


「おはようございます」


「おはよう」


返しながら、詩織の声の温度を一瞬だけ確かめる。

うん。今日は大丈夫そうだ。


ディアが本体サイズのまま、朝食を並べながら言う。


「今日は、秀人は一日お休み。昼は94階で訓練。夜は送別会、だったわね」


「うん」


「詩織は94階中心でいいのよね?」


ディアが視線を向けると、詩織は素直に答える。


「はい、94階で訓練中心にしようと思っています」


一拍置いてから、少しだけ言い足した。


「……この前みたいに、空気を重くしないようにします」


その言い方が、少しだけ可笑しくて、でも詩織らしかった。

“引きずらないようにする”を、ちゃんと自分の言葉にしている。


コユキが、ソファの背から言う。


「殊勝」


「そういう言い方やめなさい」


ディアが刺し返す。


「事実」


「火を足さない」


僕が言うと、コユキが三本の尻尾を小さく揺らした。


「はーい」


家の空気が、ちゃんと戻っている。

戻っているからこそ、朝の会話は軽い方がいい。


朝食を食べ終えたあと、少しだけ間ができた。


今なら言える気がした。

圧をかけず、でも逃げない形で。


僕は詩織を見る。


「詩織って、今は94階で訓練を優先してるけど……先のことって、少しは考えてる?」


詩織が、マグカップを両手で持ったままこちらを見る。


「先、ですか」


「うん。働くこととか、その辺」


詩織はすぐには答えなかった。

でも、黙って逃げる感じでもない。ちゃんと考えてから言うための間だ。


「……貯金には、しばらく余裕があります」


そこから、言葉を選ぶ。


「なので、今は“強くなること”を優先したい気持ちの方が強いです」


妥当な答えだと思う。

感情で飛びつかないし、現実も見ている。


僕はそこで一拍置いてから、本題を出した。


「色々あって、言い出すタイミングを逃してたんだけど」


詩織が少しだけ背筋を伸ばす。


「新しく作る晩成アーク合同会社で、働いてみる気はある?」


今度は、詩織の返事が早かった。


「……ぜひ」


早い。


「まだ業務の説明、何もしてないんだけど……」


詩織が小さく瞬きをしたあと、少しだけ笑う。


「それでも、です」


その一瞬、胸の奥が小さく跳ねた。


困る。

こういう時に、ちゃんとドキッとする。


揉めて、性格の噛み合わなさも、ややこしさも、ちゃんと見たはずなのに。

それでも、こうして綺麗な人に柔らかく笑われると、男は驚くほど単純に揺れる。


……いや、単純なのは僕か。


だからこそ、そこで感情のまま受け取らない。

一拍だけ置いて、現実を先に置く。


「即答なんだ」


「はい、私……何ができるかは、まだちゃんと分かってないです。でも、役に立ちたいです」


「うん」


「帰還者アイドルだった経験が、何かに使えるなら……使いたいです」


そこまで言って、少しだけ言葉を探す。


「ただ、迷惑になるなら……」


「そこは違う」


短く切る。


「期待というより、任せたい仕事は既にある」


僕がそう言うと、詩織はすぐに真面目な顔に戻った。


「基本は、コユキの指示に従ってもらう形になると思う」


詩織が、コユキを見る。

コユキは偉そうに座ったまま、当然みたいな顔をした。


「ほとんどの裏方は、ボクとユキ丸とレグリスで終わらせる」


「最近ほんとにそうなんだよな……」


僕は苦笑しながら続ける。


「役所に行くとか、対面で説明するとか、人が表に出た方がいい場面は確実にある。そういうところは、詩織がいると助かる」


詩織の表情が少し変わる。


「対面……」


「うん。モンスターだと人前には出ることができない。詩織、交渉はまだ苦手でも、人前で役割をきちんとこなすのは得意」


詩織は少し照れたみたいに視線を落とした。


「……それなら、たぶん」


「だから、役に立つかどうかで言えば、かなり助かる」


詩織が小さく息を吐く。

その息に、安心と緊張が両方混ざっていた。


そこから先は、細かい確認になった。

何ができるか、というより、何を任せる形なら無理がないか。

どこまで仕事にして、どこからは“まだ保留”にするか。


やっていること自体は、業務の確認にすぎない。

でも、こういう確認の時間があるだけで、“期待”がちゃんと“役割”に変わる。


そこで、コユキが事務的に話を切り替えた。


「合同会社の設立日、6月1日で確定だよね」


「うん。1日に法務局に行って設立登記を行おうと思ってる。それ以外は、お願いできる?」


ユキ丸が帽子を外す。

ホログラムに、行政系の手続きがずらっと並ぶ。


e-Taxで税務署に出す法人設立届出書。

e-Govで社会保険関係。

eLTAXで府税関係。

ほかにも必要な届出の洗い出しや、提出タイミングの整理。並行でできるものと、後じゃないと無理なものまで、きっちり並んでいた。


「……オンラインでほとんどいけるの、便利だな」


僕が素直にそう言うと、コユキが即座に刺した。


「何で一つのシステムに統合されてないのか、意味が分からない」


正論だった。


「ほんとにね」


僕は笑って受け流しながら、次の話を出す。


「あと、不動産屋から信用調査が通ったって連絡が来てた。今日の夕方、本契約を進める」


詩織が、少し目を丸くする。


「設立前だから、最初は個人名義で契約。設立後に法人契約へ切り替えて、引き落とし口座も法人に変える予定」


そこまで説明してから、コユキを見る。


「その辺の帳簿、任せていける?」


コユキは当然みたいに答えた。


「レグリスもユキ丸も、日本の簿記知識は学習済み」


「最近、ほんとになんでもありだな……」


呆れて言うと、コユキは当然みたいな顔をした。


「今さら」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ