146話『ただいま、を言い直す日』
日曜の朝は、少し遅く始まった。
起きた時、身体は一応休んだことになっていた。
でも、頭の方はそうでもない。
昨夜は家に戻ってから、世界の帰還者の動きだの、設立後の段取りだのをコユキやディアと話しているうちに、気づけば夜が終わっていた。
眠れなかったわけじゃない。
でも、浅かった。
原因はたぶん心配だけじゃない。
昨日、庭園の端で抱きしめた感触が、変に残っている。落ち着くはずの記憶なのに、逆に少しだけ落ち着かない。ディアとの親密さとは違う種類の、妙な気恥ずかしさがあった。
朝食は淡々と進む。
会話はある。
でも、どこか全員が余計なことを言わないようにしている感じがあった。
今日は追わない。待つ。
そう決めていた。
朝食のあと、そのまま94階へ上がった。
今日は、昨日レグリスが見せてくれた精神干渉対策のネックレスを、もう少し冷静に見たいと思っていた。昨日は正直、頭に入ってこなかった。
城の中で待っていたレグリスは、いつも通り丁寧すぎる所作で頭を下げた。
「お待ちしておりました。試作品を改めてお持ちしました」
差し出されたケースの中には、細い鎖の先に小さな宝石を下げたペンダント。
青い石が、室内の光を受けて冷たく光っている。
僕は手に取って、留め具を見た。
昨日より頭が動く。そうなると、気になる点も見えてくる。
「留め具、もう少し強い方がいいかもしれないな」
「脱落防止、ですか」
「うん。一般人向けだけじゃなくて、帰還者が戦闘中に着ける前提なら、走ったり転んだりしても外れにくい方がいい」
「承知しました」
ディアが横から口を挟む。
「色の変化も、もう少し見やすい方がいいわね」
コユキも続ける。
「ぱっと見で残り回数が分かる方が売りやすい」
その一言で、少しだけ空気が実務に寄る。
「……販売するなら、ちゃんと事業になるな」
僕がそう言うと、コユキが尻尾を揺らす。
「売れる。“怖い”は需要になるから」
言い方はドライだけど、間違っていない。
そこから少しだけ、他の商品開発案も含めブレストみたいな時間になった。
防犯向けの仕様。
素材の品質保証。
偽造防止の仕組み。
どこまで一般向けに落とすか。
深掘りまではしない。
でも、“晩成アークが何をやる会社になるのか”は、少しずつ形になってきていた。
午後は設立準備作業に回した。
ユキ丸とコユキの作業が早すぎて、僕がやることはほとんどレビューだけだ。
書類の確認、今後のスケジュール、優先順位の並べ替え。
段取りは、もうかなり揃っている。
問題は、そこじゃなかった。
夕方が近づく。
約束の場所へ行く準備をしながら、僕はそれを何度も考えそうになって、何度もやめた。
答えを出すのは、向こうに行ってからでいい。
夕方。
難波の複合施設の屋上庭園へ向かった。
昨日と同じ道を歩いて、同じ端へ向かう。
高低差のある緑。段丘の影。
人目の薄い、あの場所。
先に着いて、少し離れたベンチの横で待つ。
来なければ、その時はその時だと思うしかない。
頭ではそう決めている。
でも、腹を括るのと、胸が痛まないのは別だ。
数分。
たぶん実際より長く感じた。
足音がして、視線を上げる。
詩織がいた。
帽子とマスク。軽い変装。
でも、歩き方で分かる。ためらいを含んだ、でも帰らない足取り。
目が合う。
昨日のことがあるから、空気は少し硬い。
僕は先に口を開いた。
「……来てくれて、ありがとう」
詩織は少しだけ視線を揺らしてから答えた。
「来るって言いましたから」
「……そうだね」
少し間が空く。
詩織が、自分から続けた。
「……でも、ちょっとだけ迷いました」
「うん」
「それでも、来たかったので、来ました」
その言い方で、十分だった。
誰かに引かれて来た声じゃなかった。
その一言で、ようやく胸の奥の何かが少しだけほどけた。
詩織は昨日より、少しだけちゃんと前を向いていた。
「……私、戻りたいです」
その言葉を言うまでに、どれだけ考えたのかが分かる顔だった。
「でも、前みたいに“分かりました”だけで戻るのは嫌です」
僕は何も挟まずに聞く。
詩織は、ゆっくり言葉を選んだ。
「嫌な時は、嫌って言いたいです」
「うん」
「怖い時は、怖いって言いたいです」
「うん」
「止めるにしても……先に、気持ちを聞いてほしい」
その一つ一つが、たぶん詩織にとっては“当たり前”じゃなかったんだと思う。
これまでの人生で、それを言う方が危なかったんだろう。
「最初から……私の言葉を消さないでほしいです」
僕は長く説明しなかった。
たぶん今日は、理由より受け止める方が先だ。
「うん」
一度だけ、はっきり頷く。
「今度は、先に聞く」
それから、言い切る。
「“止める”じゃなくて、一緒に考える」
詩織の表情が、そこで少しだけ変わる。
まだ完全にはほどけていない。でも、昨日よりずっと近い。
投稿の件は、まだ消えていない。
消したことにしたら、それはまた別の押しつけになる。
「投稿したい気持ちは、なくなってないよね」
詩織は小さく頷いた。
「……はい」
「その話は消してない。今すぐ出すかは別として、詩織の言葉を外に出す方法は一緒に考える」
詩織が少しだけ迷ってから聞く。
「それでも……危ない時は、止めますか?」
そこが核心だった。
僕は少しだけ考えてから答えた。
「止める前に、まず理由を一緒に考える」
詩織の目を見る。
「その上で、どう守るかを決めたい」
自由か管理か、そういう話じゃない。
相手の考えを尊重した上で、一緒に考える。
たぶん、そこまで来てようやく、一緒にいる意味が出る。
詩織が小さく頷く。
「……はい」
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙が、昨日より柔らかい。
だからこそ、逆に気まずいこともある。
僕は咳払いしてから言った。
「……昨日、その、急に抱きしめてごめん」
詩織の耳が、ほんの少しだけ赤くなる。
「……あれは、別に」
「別に?」
「嫌じゃ……なかったですけど」
そこだけ、声が少し小さくなった。
「……そっか」
何を返せばいいか分からなくて、短くなる。
詩織が少しだけ拗ねたように言う。
「でも、“触れてもいい?”は、ずるいとは思いました」
「ずるい?」
「……いきなりああいうことされると、ちゃんと考えてきたこと、少し飛びます」
それを聞いて、僕は本気で少しだけ困った。
困ったけど、嬉しくないわけでもないのが面倒だ。
「それは……ほんとにごめん」
詩織が、今度はちゃんと笑った。
整えた笑顔じゃない。困らせたのを分かってて、少し意地悪く笑う顔。
昨日より、ずっといい。
「謝らないでください」
そこで、一度だけ息を整える。
「だから、今日は私が言います」
そこで一拍。
「……手、つないでもいいですか」
その一言で、こっちの方が少し緊張した。
抱きしめた時より、むしろ今の方が変に緊張する。
「……うん」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
詩織の指先は少し冷たい。
でも、握り返す力は弱くない。
抱擁より、先のある近さだった。
手のひら一枚ぶんの距離で、ちゃんと繋がる。
念話が、頭の中に一発だけ落ちる。
『……うん。今日はそれでいい』
ディアの声だった。
優しいのに、少しだけ距離を置いて見守る声だった。
帰り道は、行きより静かだった。
でも、その静けさは悪くない。
無理に会話で埋めなくても、手が繋がっているだけで十分だった。
家に着く。
玄関を開けると、ユキ丸のホログラムが浮いた。
『おかえりなさい』
「ただいま」
影の端からコユキが出てきて、素っ気なく言う。
「遅い」
「いろいろあったんだよ」
「知ってる」
ディアもブレスレットから出てくる。
本体サイズになってキッチンでコーヒーを淹れていた。
何も聞かない。何も言わない。
ただ、その表情は“おかえり”と言っているみたいで、やわらかかった。
スーラがぴょんと跳ねて、僕の膝に乗る。
しばらくして、詩織が、小さく言った。
「……ただいま、です」
まだ少しぎこちない。
でも、それはちゃんと詩織自身の“ただいま”だった。
ここまで第八章、お読みいただきありがとうございました!
第八章は……頑張って恋愛、書いてみました。
ディアや一ノ瀬の時とはまた違って、気づけば一章まるごと「距離」と「言葉」と「感情」の話だった気がします。
上手く書けたかは正直わからないんですが、面白かったと思ってもらえたら嬉しいです。
あと、お知らせです。
第九章から投稿ペースを 平日投稿 → 週三(毎週 月・水・金) に変更します。すみません!
本業と執筆に寄りすぎて、最近インプットの時間がほぼゼロになってきてまして……ここで一度、息継ぎの時間を作らせてください。
第七章・第八章は詩織中心で現代寄りだったので、
第九章はもう少しファンタジー寄りにして、爽快感も上げていきたいと思ってます。
もしここまでで「続きも読みたい」と思っていただけたら、評価を入れてもらえると本当に励みになります。
次章も、よろしくお願いします!




