145話『ほどけた夕方、その先へ』
朝、目が覚めた時点で、身体が鉛みたいに重かった。
昨夜はほとんど眠れていない。
心配で眠れない、というより、答えが出せないまま横になっていたせいだと思う。
寝室を出て、階段を降りる。
リビングに入った瞬間、いつもの朝の匂いがした。コーヒーと、焼けたパンと、温いスープ。
朝食の席に、詩織はいない。
その空席が静かに刺さる。
席に着くと、コユキが僕を見た。
「詩織、探すんでしょ」
「探す」
即答だった。
そこは、もう迷わなかった。
朝食を終えて、支度を済ませる。
それから、最初に電話をかけた。
呼び出し音が一回も鳴らずに切り替わる。
――電源が入っていないか、電波の届かない場所にいる可能性があります。
僕は通話を切った。
「……電源落としてるな」
「計画性あるね」
コユキが淡々と言う。
「追跡避けてる」
その通りだと思った。
ディアがカップを置く。
「ホテルに泊まっている可能性はあるけど……あの子、東京から急に大阪へ来たみたいに動ける子だもの。読み切るのは難しいわね」
「気配は?」
「半径5キロ圏内にはいないわ。そこは分かる。でも、それ以上はこの体では無理ね」
ユキ丸が帽子を外して、ホログラムを出す。
交通情報。公開SNS。宿泊予約サイトに残る断片。位置情報のないネット上の痕跡。
見える範囲だけで、“推定”に使えるものが並んでいく。
コユキが補足する。
「ユキ丸なら、公開情報ベースである程度の推定はできる。追跡ってほどじゃない。絞るだけ」
「お願い」
僕がそう言うと、ユキ丸のほっぺの薄ピンクが少し明るくなった。
コユキが聞いた。
「外、出て探す?」
僕は少しだけ迷った。
迷ったけど、すぐに答えは出た。
「今出ても、会えない気がする。まずはユキ丸の推定を待つ」
今やるべきことは、たぶん待つことだった。
でも、手を動かしている方がまだ楽だ。待っているだけの時間は、頭の中に余計な考えが増える。
そのまま午前中は、会社設立準備の確認に回した。
実務はもう、ほとんどコユキとユキ丸が進めている。僕がやるのは、確認して、判断して、順番を決めることだけだ。
やること自体はある。
でも今日は、今やるべきことと、今は手を出さなくてもよいことの境目が、妙に曖昧だった。
昼になって、食卓に並んだものを見ても、味が少し遠い気がした。
家庭の味って、調味料だけで決まるものじゃないんだなと思う。
食べながら、コユキが報告する。
「ユキ丸も見つけられなかった」
僕は箸を止めた。
「そっか」
「防犯カメラにハッキングすれば、見つけられると思う。でも、そこまではやってない。秀人、嫌がると思ったから」
「うん。そこまでしなくていい」
即答だった。
守るためでも、越えちゃいけない線がある。
そこを越えた時点で、たぶんもう“探してる”じゃなくなる。
落ち着かない時間が続く。
何かしていても、頭の奥がずっと薄く張っている感じがある。
そして、15時を少し回った頃だった。
理由は分からない。
でも、胸の奥が“そこへ行け”と押してきた。
景色のイメージだけが、先に浮かぶ。
緑。段差。街の光が少し遠くなる場所。
その瞬間に、腑に落ちた。
「……前兆直感か」
僕が呟くと、ディアがこちらを見た。
「迎えに行くのね」
僕は短く頷く。
「……行く」
立ち上がる。
その時だった。
ミニサイズのディアが、僕の肩へ軽く飛び乗る。
歩き出す直前、顔を寄せてきた。
小さく、唇に触れる。
一瞬。
でも、十分すぎるくらいに刺さった。
「行ってらっしゃい。……今度は、ちゃんと言葉でね」
僕はその場で固まった。
照れたというより、不意打ちで思考が止まった。
コユキが、すぐに刺す。
「今の、必要?」
「必要」
ディアは涼しい顔でそう言って、ブレスレットの中へ戻っていった。
(……ずるい)
こういう時のディアは、ほんとうにずるい。
夕方。
辿り着いた先は、難波の複合施設の屋上庭園だった。
都会の真ん中なのに、高低差のある緑があって、段丘みたいに植え込みが重なっている。
街のざわめきは下にあるのに、ここまで上がると少し遠い。
人の気配はある。
でも、端の方まで来ると、急に少なくなる。
そこに、詩織はいた。
ベンチの近く。
植え込みと段差の影に半分隠れるみたいな場所。
人からも、視線からも、少しだけ退いた位置。
見つけた瞬間に、足が止まる。
近づく前に、一度だけ息を整える。
詩織が気づいて、顔を上げた。
目が合う。
でも、すぐに視線を外された。
まだ固い。
僕は少し離れたところで立ち止まって、最初の一言を探した。
ここで理由から入るのも、説明から入るのも、たぶん違う。
「……昨日は、ごめん」
声が、少しだけ掠れた。
詩織は何も言わない。
でも、逃げなかった。
「詩織が何を言おうとしてたかより先に、僕は止める方を選んだ」
それだけ言って、一回息を整える。
「心配してたのは本当。でも、その心配で、詩織の気持ちを押しつぶした」
言い訳は、後からいくらでも作れる。
でも今それをやったら、また同じことになる。
「あれは、僕が悪かった」
“でも”を飲み込む。
理由も、言い訳も飲み込む。
詩織はしばらく黙っていた。
整えようとして、でも整えきれないみたいに、呼吸だけが少し不安定だ。
やがて、ぽつりと出た。
「……炎上が、怖くないわけじゃなかったです」
僕は何も挟まない。
ただ、続きを待った。
「でも、自分の言葉を……自分で出したかったんです」
視線はまだ合わない。
でも、言葉はちゃんと出てくる。
「止められたことより……先に、管理された感じが苦しかった」
その言葉が、一番重かった。
「……分かってほしかった」
遮らない。
相槌も少なくする。
今は、僕が何か言うより、詩織の言葉が途切れない方が大事だ。
「うん」
それだけ返す。
少ししてから、僕は言った。
「投稿するな、じゃなくて、投稿したいなら一緒に出し方を考えるべきだった」
詩織が、ゆっくりこちらを見る。
「危ないから止める、じゃなくて……危ないなら、その中でどうやったら詩織の言葉を守れるかを考えるべきだった」
たぶん、そこをいちばん間違えた。
「僕はそこを間違えた」
風が少しだけ動いて、詩織の髪を揺らす。
でも彼女はもう視線を逸らさなかった。
「……今すぐ単独で出すのは、やっぱり危ないと思ってる」
そこは、嘘をつかない。
「でも、詩織の言葉を外に出したい気持ちは尊重したい」
少しだけ、間を置く。
「だから“出すな”じゃない。“どう出すか”を一緒に考えたい」
風が抜ける。
木々がわずかに鳴る。
詩織はすぐ肯定しなかった。
でも、拒否もしなかった。
その沈黙だけで、昨日とは違うと分かった。
強張っていた肩が、ほんの少しだけ落ちる。
「……秀人さん」
「うん」
「昨日、すごく嫌だったです」
「うん。ごめん」
「でも……」
そこで詩織は言葉を切って、少し困ったみたいに笑った。
「来てくれるとは、思ってました」
少しだけ、声を落とす。
その一言で、胸の奥の硬いところが少しだけほどける。
「……それは、信じてくれてたってこと?」
「半分くらいです」
「半分か」
「残り半分は、ルミエルです」
「なるほど」
そこで、やっと少しだけ空気がやわらぐ。
庭園の端だった。
人はいるけど、ここまでは来ない。
ちょうどいい距離がある。
僕は一度だけ息を整えて、短く聞いた。
「……触れてもいい?」
詩織の目が揺れる。
一拍、いや二拍くらい置いてから、小さく頷いた。
ゆっくり腕を伸ばす。
強すぎない。
でも、離さない。
ぎゅっと抱きしめる。
詩織の手は、最初は宙で迷っていた。
次に、少し遅れて僕の背中へ回る。
「……怖かった」
吐息みたいな声だった。
「うん。ごめん」
それしか言えない。
それでよかった気もする。
少しだけ身体を離して、でも腕はほどかずに呼ぶ。
「詩織」
詩織が、目を閉じたまま返す。
「……はい」
その“はい”は、ただの返事じゃなかった。呼ばれたことそのものを、受け取る声だった。
頭の中に、コユキの念話が落ちる。
『やっと』
『空気読め』
でも、その刺し方が少しだけいつもの感じで、逆に助かった。
抱きしめたあとも、詩織はすぐには戻ると言わなかった。
少し離れて、それでも完全には距離を取らないまま、ぽつりと言う。
「……少し、考えさせてください」
「うん」
追わない。
今はそれでいいと思った。
「明日、同じ時間、同じ場所に来る」
詩織が、こちらを見る。
「詩織が来なかったら……その時は、その時で受け止める」
脅しじゃない。
選択肢として置いたつもりだった。
詩織は、小さく頷いた。
「……分かりました」
それで十分だった。
僕はそれ以上は言わずに、一歩だけ下がる。
詩織も、無理に笑わなかった。
今日、ほどけた。
でも、結び直すのは、たぶんここからだ。
屋上庭園を一人で降りながら、僕は静かに息を吐いた。
夜の街が少しだけ近づいてきていた。




