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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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145話『ほどけた夕方、その先へ』

朝、目が覚めた時点で、身体が鉛みたいに重かった。


昨夜はほとんど眠れていない。

心配で眠れない、というより、答えが出せないまま横になっていたせいだと思う。


寝室を出て、階段を降りる。

リビングに入った瞬間、いつもの朝の匂いがした。コーヒーと、焼けたパンと、温いスープ。


朝食の席に、詩織はいない。

その空席が静かに刺さる。


席に着くと、コユキが僕を見た。


「詩織、探すんでしょ」


「探す」


即答だった。

そこは、もう迷わなかった。


朝食を終えて、支度を済ませる。

それから、最初に電話をかけた。

呼び出し音が一回も鳴らずに切り替わる。


――電源が入っていないか、電波の届かない場所にいる可能性があります。


僕は通話を切った。


「……電源落としてるな」


「計画性あるね」


コユキが淡々と言う。


「追跡避けてる」


その通りだと思った。


ディアがカップを置く。


「ホテルに泊まっている可能性はあるけど……あの子、東京から急に大阪へ来たみたいに動ける子だもの。読み切るのは難しいわね」


「気配は?」


「半径5キロ圏内にはいないわ。そこは分かる。でも、それ以上はこの体では無理ね」


ユキ丸が帽子を外して、ホログラムを出す。

交通情報。公開SNS。宿泊予約サイトに残る断片。位置情報のないネット上の痕跡。

見える範囲だけで、“推定”に使えるものが並んでいく。


コユキが補足する。


「ユキ丸なら、公開情報ベースである程度の推定はできる。追跡ってほどじゃない。絞るだけ」


「お願い」


僕がそう言うと、ユキ丸のほっぺの薄ピンクが少し明るくなった。


コユキが聞いた。


「外、出て探す?」


僕は少しだけ迷った。

迷ったけど、すぐに答えは出た。


「今出ても、会えない気がする。まずはユキ丸の推定を待つ」


今やるべきことは、たぶん待つことだった。

でも、手を動かしている方がまだ楽だ。待っているだけの時間は、頭の中に余計な考えが増える。


そのまま午前中は、会社設立準備の確認に回した。

実務はもう、ほとんどコユキとユキ丸が進めている。僕がやるのは、確認して、判断して、順番を決めることだけだ。


やること自体はある。

でも今日は、今やるべきことと、今は手を出さなくてもよいことの境目が、妙に曖昧だった。


昼になって、食卓に並んだものを見ても、味が少し遠い気がした。

家庭の味って、調味料だけで決まるものじゃないんだなと思う。


食べながら、コユキが報告する。


「ユキ丸も見つけられなかった」


僕は箸を止めた。


「そっか」


「防犯カメラにハッキングすれば、見つけられると思う。でも、そこまではやってない。秀人、嫌がると思ったから」


「うん。そこまでしなくていい」


即答だった。


守るためでも、越えちゃいけない線がある。

そこを越えた時点で、たぶんもう“探してる”じゃなくなる。


落ち着かない時間が続く。


何かしていても、頭の奥がずっと薄く張っている感じがある。

そして、15時を少し回った頃だった。


理由は分からない。

でも、胸の奥が“そこへ行け”と押してきた。


景色のイメージだけが、先に浮かぶ。

緑。段差。街の光が少し遠くなる場所。


その瞬間に、腑に落ちた。


「……前兆直感(オーメン・センス)か」


僕が呟くと、ディアがこちらを見た。


「迎えに行くのね」


僕は短く頷く。


「……行く」


立ち上がる。


その時だった。


ミニサイズのディアが、僕の肩へ軽く飛び乗る。

歩き出す直前、顔を寄せてきた。


小さく、唇に触れる。


一瞬。

でも、十分すぎるくらいに刺さった。


「行ってらっしゃい。……今度は、ちゃんと言葉でね」


僕はその場で固まった。

照れたというより、不意打ちで思考が止まった。


コユキが、すぐに刺す。


「今の、必要?」


「必要」


ディアは涼しい顔でそう言って、ブレスレットの中へ戻っていった。


(……ずるい)


こういう時のディアは、ほんとうにずるい。


夕方。


辿り着いた先は、難波の複合施設の屋上庭園だった。


都会の真ん中なのに、高低差のある緑があって、段丘みたいに植え込みが重なっている。

街のざわめきは下にあるのに、ここまで上がると少し遠い。


人の気配はある。

でも、端の方まで来ると、急に少なくなる。


そこに、詩織はいた。


ベンチの近く。

植え込みと段差の影に半分隠れるみたいな場所。

人からも、視線からも、少しだけ退いた位置。


見つけた瞬間に、足が止まる。


近づく前に、一度だけ息を整える。


詩織が気づいて、顔を上げた。

目が合う。

でも、すぐに視線を外された。


まだ固い。


僕は少し離れたところで立ち止まって、最初の一言を探した。

ここで理由から入るのも、説明から入るのも、たぶん違う。


「……昨日は、ごめん」


声が、少しだけ掠れた。


詩織は何も言わない。

でも、逃げなかった。


「詩織が何を言おうとしてたかより先に、僕は止める方を選んだ」


それだけ言って、一回息を整える。


「心配してたのは本当。でも、その心配で、詩織の気持ちを押しつぶした」


言い訳は、後からいくらでも作れる。

でも今それをやったら、また同じことになる。


「あれは、僕が悪かった」


“でも”を飲み込む。

理由も、言い訳も飲み込む。


詩織はしばらく黙っていた。

整えようとして、でも整えきれないみたいに、呼吸だけが少し不安定だ。


やがて、ぽつりと出た。


「……炎上が、怖くないわけじゃなかったです」


僕は何も挟まない。

ただ、続きを待った。


「でも、自分の言葉を……自分で出したかったんです」


視線はまだ合わない。

でも、言葉はちゃんと出てくる。


「止められたことより……先に、管理された感じが苦しかった」


その言葉が、一番重かった。


「……分かってほしかった」


遮らない。

相槌も少なくする。

今は、僕が何か言うより、詩織の言葉が途切れない方が大事だ。


「うん」


それだけ返す。


少ししてから、僕は言った。


「投稿するな、じゃなくて、投稿したいなら一緒に出し方を考えるべきだった」


詩織が、ゆっくりこちらを見る。


「危ないから止める、じゃなくて……危ないなら、その中でどうやったら詩織の言葉を守れるかを考えるべきだった」


たぶん、そこをいちばん間違えた。


「僕はそこを間違えた」


風が少しだけ動いて、詩織の髪を揺らす。

でも彼女はもう視線を逸らさなかった。


「……今すぐ単独で出すのは、やっぱり危ないと思ってる」


そこは、嘘をつかない。


「でも、詩織の言葉を外に出したい気持ちは尊重したい」


少しだけ、間を置く。


「だから“出すな”じゃない。“どう出すか”を一緒に考えたい」


風が抜ける。

木々がわずかに鳴る。


詩織はすぐ肯定しなかった。

でも、拒否もしなかった。


その沈黙だけで、昨日とは違うと分かった。

強張っていた肩が、ほんの少しだけ落ちる。


「……秀人さん」


「うん」


「昨日、すごく嫌だったです」


「うん。ごめん」


「でも……」


そこで詩織は言葉を切って、少し困ったみたいに笑った。


「来てくれるとは、思ってました」


少しだけ、声を落とす。


その一言で、胸の奥の硬いところが少しだけほどける。


「……それは、信じてくれてたってこと?」


「半分くらいです」


「半分か」


「残り半分は、ルミエルです」


「なるほど」


そこで、やっと少しだけ空気がやわらぐ。


庭園の端だった。


人はいるけど、ここまでは来ない。

ちょうどいい距離がある。


僕は一度だけ息を整えて、短く聞いた。


「……触れてもいい?」


詩織の目が揺れる。

一拍、いや二拍くらい置いてから、小さく頷いた。


ゆっくり腕を伸ばす。

強すぎない。

でも、離さない。


ぎゅっと抱きしめる。


詩織の手は、最初は宙で迷っていた。

次に、少し遅れて僕の背中へ回る。


「……怖かった」


吐息みたいな声だった。


「うん。ごめん」


それしか言えない。

それでよかった気もする。


少しだけ身体を離して、でも腕はほどかずに呼ぶ。


「詩織」


詩織が、目を閉じたまま返す。


「……はい」


その“はい”は、ただの返事じゃなかった。呼ばれたことそのものを、受け取る声だった。


頭の中に、コユキの念話が落ちる。


『やっと』


『空気読め』


でも、その刺し方が少しだけいつもの感じで、逆に助かった。


抱きしめたあとも、詩織はすぐには戻ると言わなかった。


少し離れて、それでも完全には距離を取らないまま、ぽつりと言う。


「……少し、考えさせてください」


「うん」


追わない。

今はそれでいいと思った。


「明日、同じ時間、同じ場所に来る」


詩織が、こちらを見る。


「詩織が来なかったら……その時は、その時で受け止める」


脅しじゃない。

選択肢として置いたつもりだった。


詩織は、小さく頷いた。


「……分かりました」


それで十分だった。


僕はそれ以上は言わずに、一歩だけ下がる。

詩織も、無理に笑わなかった。


今日、ほどけた。

でも、結び直すのは、たぶんここからだ。


屋上庭園を一人で降りながら、僕は静かに息を吐いた。

夜の街が少しだけ近づいてきていた。


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