144話『SideStory 早見 詩織 ― 帰れない夜に、帰りたい場所を知る』
玄関の扉が閉まった音は、大きくなかった。
それなのに、やけに長く響いた気がした。
閉まったのは扉だけじゃない。
何か別のものまで、きれいに区切られてしまったような感覚が、胸の奥に残る。
私は一度だけ、立ち止まりそうになった。
ここで振り返れば、まだ間に合うかもしれない。
秀人さんがまだ玄関の近くにいて、私が戻って、「すみませんでした」と言えば、きっとあの人は困った顔をしながらも受け入れてくれる。
でも、振り返れなかった。
今戻ったら、たぶんまた同じことをする。
きれいに笑って、迷惑をかけない顔をして、「大丈夫です」と言って、自分の中身を後回しにする。
それはもう、嫌だった。
夕方の住宅街は静かだった。
少し離れた通りを車が抜ける音だけが、薄く届く。
ついさっきまでいた家が、背中のすぐ後ろにあるのに、もう遠い場所みたいに感じた。
歩き出しながら、閉まった店のガラスに映る自分が見えた。
帽子。マスク。最低限の荷物。
泣いてはいない。取り乱してもいない。
感情のまま飛び出した人には、見えないだろう。
だからこそ、余計に苦しかった。
ちゃんと外へ出る準備までしてきた自分が、まるで前からこうすることを決めていたみたいで。
でも、本当はそんなわけじゃない。
「今はやめた方がいい」
あの言葉を聞いた瞬間、ただ怖くなっただけだ。
ここにいたら、また自分の気持ちより“正しい形”の方が優先される。
そう思ってしまっただけだった。
駅へ向かう道は、人が多かった。
金曜の夕方。誰もがそれぞれの予定のために急ぎ、それぞれの場所へ帰っていく。
その流れの中で、私だけが少しずれていた。
帰る場所がないわけじゃない。
ある。ちゃんとある。
でも今は、そこへ帰れなかった。
人混みの中を歩きながら、不意に月曜日のことを思い出す。
オフィスの内覧。
受付の明るい空気。
秀人さんが運用や動線を見ていて、私は入口の光や受付の人の印象を見ていた。
同じ場所を見ているのに、見ているものが違った。
それでも、あの時間は不思議と心地よかった。
そして、あの時。
「……一緒に立ち上げるパートナー、みたいなものです」
咄嗟に出た言葉だったのだと分かっている。
分かっているのに、その一言がずっと胸の奥に残っていた。
嬉しかった。
嬉しいなんて思ってはいけない気もした。
でも、あの時の私はたしかに、これから先の景色の中にいていいと、少しだけ言ってもらえた気がしたのだ。
屋上庭園のことも思い出す。
緑が揺れて、街のざわめきが少し遠くて。
困った時に来られる場所があると、落ち着く気がする、と私が言った時、秀人さんは否定しなかった。
あの時間は、私の中で小さな救いになっていた。
火曜の夜、あの記事を見るまでは。
《帰還者アイドル、突然の引退――その真相判明!体調不良の裏の“何か”》
あの見出しを見た瞬間の冷たさを、私はまだ身体のどこかに残している。
速水えりなとして、また勝手に消費される感覚。
引退すら、自分の言葉ではなく、他人の都合のいい物語に変えられていく感覚。
苦しかった。
でも、その苦しさをあの家に持ち込みたくなくて、私は笑った。整えた。ちゃんとした。
ちゃんとしていれば、迷惑をかけないで済むと思った。
木曜の振り返りも、そうだった。
ノートは、自分なりに何度も書き直した。
九条さんたちとの会話を思い返して、何が足りなくて、何を聞かれて、どう返せばよかったのか。
自分で考えた跡を、ちゃんと見てもらいたかった。
でも秀人さんは、自然に“もっと伝わる形”へ直していった。
それ自体は間違っていない。
むしろ、正しい。実際、勉強にもなる。
ただ、あの時の私には、それが別の意味で刺さってしまった。
――そのままの私では足りない。
――ここにいるには、もっと上手くならないといけない。
――また、“正しい誰か”に近づかなければいけない。
「また“良い子”として誰かの正解に寄せることになる」
あの一言が、ずっと抜けなかった。
事務所で求められていた速水えりなと、何が違うんだろう。
見た目も、言葉も、答え方も。
間違えないように、空気に沿うように、期待を外さないように。
助けてほしくて、強くなりたくて、あそこへ行ったはずだった。
それなのに、また“ちゃんとしなきゃ”に戻っていく感じがした。
金曜、勇気を出して「自分の言葉で世間に出したい」と言った時、私は本当に、最後の抵抗のつもりだった。
炎上したいわけじゃない。
勝ちたいわけでもない。
ただ一度だけ、自分の人生の説明を、自分の言葉でしてみたかった。
なのに返ってきたのは、やめた方がいい、危ない、耐えられないと思う、という、全部もっともな言葉だった。
正しい。
分かっている。
分かっているから、逃げ場がない。
“心配”という名前で包まれてしまうと、そこから先、自分の気持ちは全部幼く見えてしまう気がした。
秀人さんを嫌いになったわけじゃない。
むしろ逆だった。
分かってほしかった。
受け止めてほしかった。
止める前に、怖かったねとか、言いたかったんだねとか、そういう言葉を少しだけ欲しかった。
そんなものを求めてしまった自分が、情けなかった。
駅前のカフェを一度見た。
でも、明るすぎたし、人が多すぎた。
ネットカフェも頭をよぎったが、知らない人の気配が近すぎる場所で休める気がしない。
結局、駅から少し離れたビジネスホテルに入った。
無機質な受付。
事務的なやりとり。
誰も私に興味を持たない。
今は、そのことがありがたかった。
案内された部屋は、狭いシングルだった。
白い壁、薄いベッド、小さな机。窓の外には、隣のビルの壁が半分見えるだけ。
でも、鍵がかかる。
誰も入ってこない。
何も言われない。
荷物を置いた瞬間、張っていたものが切れた。
帽子を外す。
マスクを外す。
そのままベッドの端に座り込む。
静かだった。
静かすぎて、逆に、自分の呼吸だけがうるさく聞こえる。
数秒遅れて、涙が落ちた。
「……っ」
泣くつもりなんて、なかったのに。
怒っているんじゃない。
たぶん、それだけじゃない。
秀人さんが嫌いになったわけでもない。
それも違う。
苦しいのは、秀人さんの言っていたことが、正しいと自分でも分かってしまうからだ。
今の私が一人で発信したら、炎上するかもしれない。
攻撃されるかもしれない。
耐えられないかもしれない。
そんなこと、私自身が一番分かっている。
でも、それでも言いたかった。
間違っていても、自分の声で。
危なくても、自分の意志で。
そこまで思っていた自分を、先に“危ないからやめよう”と処理されたことが、ひどく苦しかった。
「……また、勝手に期待して……」
自分で呟いた声が、ひどく小さかった。
期待してしまっていたのだ。
あの家なら。
あの人たちのそばなら。
速水えりなではなく、早見詩織として、少しずつやり直していけるかもしれないと。
ディアさんは嫉妬しながらも、ちゃんと見てくれていた。
コユキさんは刺すけれど、誤魔化しを見逃さないでくれていた。
レグリスさんやユキ丸さん、スーラさんまで含めて、あの家の空気は思っていたよりずっと温かかった。
火曜に小さくなった秀人さんを見て笑った時、私はたしかに楽しかった。
コーヒーの砂糖を少なめでいいかと聞かれた時も、ああいう小さな気遣いが嬉しかった。
だから余計に痛い。
いたかった場所から、自分で出てきてしまったことが。
ベッドに倒れ込み、私は顔を枕に押しつけた。
泣き方まで、うまくできない。
声を出さないようにする癖だけが残っている。
ひとしきり泣いて、少し落ち着いたあと、机の上に置いたスマホを見た。
電源は切れたままだ。
つけようかと思う。
やめようかとも思う。
つけたら、連絡が入っているかもしれない。
でも、もし何もなかったら、もっと傷つく。
もし連絡が来ていても、今は読める気がしない。
手を伸ばして、やめた。
代わりに目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、月曜の屋上庭園だった。
高低差のある緑。やわらかい光。下の街の遠いざわめき。
困った時に来られる場所があると、落ち着く気がする。
そう言った時の、自分の声。
あれは、あの場所のことだけを言っていたわけじゃなかったのかもしれない。
気づいてしまう。
本当はもう、あの家のことを少しずつ“戻る場所”だと思い始めていたのだと。
だから、帰れない今夜がこんなに長い。
狭いビジネスホテルの部屋は、安全だった。
誰にも踏み込まれない。
何も言われない。
何も直されない。
でも――寂しくないわけじゃない。
守られないことと、自由であることは、同じじゃなかった。
深夜、私は一度だけベッドから起き上がり、カーテンの隙間から外を見た。
見えるのはビルの明かりだけだ。
誰かが今も働いていて、誰かが誰かと食事をしていて、誰かが帰る場所へ帰っていく。
私だけが、途中で止まっているみたいだった。
「……帰りたい」
口にした瞬間、また少し泣きたくなる。
でも、今はまだ帰れない。
簡単に戻ったら、自分の苦しさまで軽くなる気がする。
何もなかったことにしたくはない。
だから、朝まではここにいる。
ほとんど眠れないまま迎えた朝、鏡の中の自分は、少しひどい顔をしていた。
それでも、ルミエルのスキルのお陰で整っていた。
速水えりなでもなければ、あの家で必死に“ちゃんとしていた”私でもない。
ただ、少し弱って、少し拗ねて、ちゃんと傷ついているだけの自分。
その顔を見て、私はようやく少しだけ息を吐いた。
ああ、と心の中で思う。
私は、守られたくなかったわけじゃない。
閉じ込められたくなかっただけだ。
そして、秀人さんもきっと、閉じ込めるつもりで言ったわけじゃない。
ただ守ろうとして、いつものように正しさの順番で話してしまっただけだ。
それも分かる。
分かるけれど、傷つかなかったことにはならない。
たぶん、そこを飛ばして戻ったら、また同じになる。
だから、今はまだ帰らない。
でも、帰りたくないわけでもない。
その中途半端な気持ちのまま、私はホテルの小さな机に置いたスマホへ、もう一度だけ視線を向けた。
電源はまだ入れない。
ただ、昨日の夜よりは少しだけ、その向こうを見るのが怖くなくなっていた。
帰りたい場所ができたからこそ、帰れない夜はこんなに長いのだと、私はようやく知った。




