142話『思考を切るための戦い』
呼び止める言葉が出ない。
追っても、たぶん今は届かない。
その結論だけを、何度か自分の中で確かめてから、ようやく口を開いた。
「……ディア。94階で訓練してくれないか」
ディアはすぐに答えた。
「分かったわ」
短い返事。
余計な慰めがないのが、逆に助かった。
逃げるためじゃない。
今のまま部屋にいたら、悪い方向に考え続けるのが分かる。そういう時、自分がどう沈むかは、もう知っている。
物置部屋のサブゲート。
赤黒い縁の向こうへ足を踏み入れると、空気の密度が変わった。
94階。
ディアの城。
夜の気配を含んだ静かな空気。
現実の部屋より、今はこっちの方が心が安らぐのが皮肉だった。
城の外縁に広がる緑が視界に入る。
林の輪郭。葉の揺れ。風に擦れる音。
それを見た瞬間、なぜか少しだけ呼吸が戻った。
葉の揺れも、風の音も、そこにあるものをそのまま返してくる。
詩織の“整いすぎた笑顔”が頭に残っていたから、余計にそう思ったのかもしれない。
「今日は、考えなくていいようにするわ」
ディアが言って、僕の前に魔力陣を展開した。
訓練は、最初から迷う暇のない相手だった。
一戦目は、霧そのものが敵みたいだった。
白い靄が低く流れ、視界を細く削る。
湿った空気が肌にまとわりつき、足元の輪郭まで曖昧になる。
その奥で、何かが高速で動いている。見えているのは、削れた輪郭だけだ。音も、風も、遅れて来る。
考えたくない夜には、ちょうどいい。
戦闘のことだけ考えていればいい相手は、余計な思考を切ってくれる。
「右」
コユキの声。
反射で、時間視界を開く。
世界が、わずかに沈む。
霧の流れが鈍くなる。跳び込んでくる影の肩が先に沈み、爪が来る軌道だけが、細く見えた。
捻る。
肩口を掠める一撃を、スーラ装甲がぬるりと受け流す。
その反動のまま、跳躍強化で地面を蹴り、半身ずらす。
「後ろ、二つ」
影の中で、コユキの三本尾が揺れた。
次の瞬間、霧の中に炎が走る。
「炎弾連射」
小さな炎弾が、雨みたいに連なる。
一発一発は軽い。でも圧がある。敵の進路を縫い止めるには十分だった。
僕は着地と同時に、空間斬糸を展開する。
極細の魔力糸が、足元から前方へ、音もなく張り巡らされる。
霧の中に見えない斬撃網を置く感覚。
踏んだ。
前から来た一体の前脚が、糸に触れてわずかに止まる。
切断まではいかない。でも、その“一瞬の引っかかり”で十分だ。
「そこ」
黒想鋳具起動。
右手に漆黒の短槍を即時鋳造。
狙うのは胴じゃない。霧で速度を殺せていない個体に正面火力を打つのは悪手だ。
喉元。
踏み込みと同時に突き込み、引き抜く。
さらに横から来る二体目へ、振り向きざまに闇焔刃を放つ。
黒煙みたいな刃が、うねりながら飛ぶ。
軌道が嫌らしい。避けようとした相手の進路を、逆に切る。
そこへコユキが重ねた。
「光幻身」
白銀の残像が何本も走る。
本体と残像の境目が消え、敵の視線がぶれた瞬間、コユキの本体は横へ滑り込んでいた。
「水糸拘束」
水が糸になって弾ける。
二体目の前脚と首元へ絡みつき、そのまま地面へ引き落とした。
拘束は一瞬。
でも、その一瞬で十分だ。
黒槍を、落ちた頭部へ叩き込む。
最初の霧戦を抜けたところで、ようやく息を吐いた。
霧の冷たさより、頭の中が戦闘に寄っていく感覚の方が強い。詩織の背中が、少しだけ遠のく。
二体目の相手は、真正面から圧で押し潰してくるタイプだった。
巨体。
咆哮。
空気が震えて、胸骨に直接叩きつけられるみたいな重い音。
避けるか。受けるか。
一拍で決める。
受ける。
スーラ装甲を厚くする。胸、肩、前腕。
正面から来る衝撃を抱え込ませ、僕は半歩だけ残る。
重い。腕じゃなく、骨に来る。
でも、押し切られずに残れば、相手の質量はそのまま隙になる。
「左、浅い」
コユキが即座に通す。
僕は左へ流れながら、時間視界をもう一段深くする。
突進の終わり際、巨体の首が戻る前の“遅れ”だけが、はっきり見えた。
そこへ、黒想鋳具で黒い大剣を鋳る。
重い刃。
でも振り切る必要はない。
スーラが外側へ薄く滲んで、相手の顎を覆う外殻だけを溶かす。
装甲の継ぎ目が露出する。
そこへ、大剣を斜めに差し込む。
さらに咆哮の余波が返ってくる。
魔力の圧が混ざっている。
「秀人」
ディアの声。
魔力撥弾を反射で起動する。
目に見えない衝撃の層が、僕の前でわずかに弾けた。
全部は返せない。けれど、軌道をずらすだけで十分だった。
逸れた圧の横をすり抜け、最後は喉へ一閃。
巨体が崩れる。
地面が揺れた。
次は、複数で連携してくる相手だった。
前に見せて、横で取る。
連携で包むタイプ。しかも速い。
正面を意識させて、死角を噛む。
嫌な相手だ。でも、こういうのは連携で崩す方が早い。
「ボクが散らす」
コユキが低く言った。
次の瞬間には、もう影の中を走っていた。
白銀の毛並みが一度消えて、次の瞬間には別の位置にいる。
無相潜伏まで乗せているのか、視線が追いつかない。
そこからさらに、黒い刃がうねる。
「闇焔刃」
左右に揺れながら飛ぶ刃が、前衛二体の注意を分断する。
さらに追い打ちみたいに炎弾。
「炎弾連射」
火線が面になる。
正面突破を諦めた個体が横へ散る。
その散る先を、僕は先に切っていた。
空間斬糸を木々の根元と足場の高低差に沿わせ、見えない檻みたいに張る。
連携する相手は、好きに動かせない形にした方が早い。
右の個体が、糸に脚を取られる。
左の個体が跳ぶ。
影移動発動。
自分の影を踏み、横の木陰へ短距離跳躍。
一瞬で位置を消して、跳んできた個体の真横へ出る。
「近いなら――」
黒想鋳具で、今度は黒い双刃を両手に鋳造。
片方で受け、片方で入れる。
肘、脇腹、首元。三手で落とす。
背後から牙。
でも、その前にコユキが割り込んだ。
「結界防壁」
半球状の魔力障壁が、僕の背中側で弾ける。
噛みつきが止まり、刃先みたいな歯が壁に滑る。
「助かる」
「集中」
「はいはい」
「はいは、一回」
言いながら、最後の一体へ黒槍を投げる。
避けた先に、コユキの水糸が待っていた。
「水糸拘束」
足首を取る。
体勢が落ちる。
その首筋へ、僕の闇焔刃がうねりながら入った。
全部が止まったあと、ようやく息を吐いた。
汗が遅れて落ちる。
心拍だけが、まだ高い。
コユキが影から出てきて、短く言う。
「今の、綺麗」
「ありがとう」
その一言が、思ったより深く残った。
さっきまで頭にこびりついていた重さが、ようやく戦闘の汗と一緒に、少しだけ外へ抜けていく気がした。




