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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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141話『正しさで削った居場所』

金曜の朝。


朝食の席に、詩織の姿はなかった。


いつもの顔ぶれは揃っている。

コユキ。ユキ丸。スーラ。今日は本体サイズのディア。


それなのに、席が一つ空いているだけで、テーブルの空気が少し薄い。


ディアがカップを置きながら、少しだけこちらを見る。


「詩織なら、94階にいるわ。昨日のあと、少し話したの」


「……そう」


詳しくは語らない。

それだけで、今はまだそのまま僕に渡さない方がいいと、ディアが判断したのだと分かった。


「体調が悪いみたい。午前中は向こうで休ませてる」


「分かった」


それ以上は聞かなかった。

聞いても、たぶん今ここで解ける話じゃない。


コユキが、珍しく何も刺してこない。

その静けさの方が、むしろ状況の重さをはっきりさせた。


帰ったら、詩織と話そう。

そう決めて、朝食を口に運ぶ。


ディアの作る朝食は、今日もちゃんと温かかった。

その温度に助けられながら、頭の方は仕事へ切り替える。


会社では、もう挨拶くらいしか仕事が残っていなかった。


10時。遠方のクライアントとWeb会議。

11時。もう一件。


どちらも、引き継ぎの確認と、最後の礼儀を置くための時間だ。


それ以外の仕事は、ほとんど残っていない。


資料を閉じて、少しだけ椅子にもたれる。

気持ちの置き場がない。


仕事が片付くのは良いことだ。

でも、きれいに片付きすぎると、自分の役目ごと薄くなっていく気がする。


午後に入る前、竹島さんへ声をかけた。


「月曜、一日休もうと思ってる」


「え、ほんとですか」


「送別会だけは行きます。ゆっくり休みをいただいて夜、参加します」


「分かりました」


それで話は終わる。

仕事の調整は、もうほとんど済んでいた。


午後半休で会社を出る。


駅へ向かう途中、スマホが震えた。

柊さんからのDMだった。


首輪千個の受け取りのお礼。

コユキが、もう発送していた。仕事が早い。


それに加えて、海外の続報も入っていた。


黒猫仮面との面会を希望する国が増えている。

中には、正式ルートを飛び越えて強引に接触してきそうな国もある、と。


(……面倒だな)


読み終える頃には、頭の中が少し“リスク管理”に寄っていた。


これから起こりそうなことを、頭の中で勝手に場合分けしていく。

何が起きるか。どこまで防げるか。何を先に潰すか。

そういう考え方が、もう癖みたいになっていた。


そして、帰宅した。


玄関を開けると、ユキ丸がいつものように出迎えた。


でも、詩織の姿はない。


靴を脱いでリビングへ入る。

そこでようやく、二階の方から足音がした。


詩織が降りてくる。


「おかえりなさい」


笑顔はある。

でも、やっぱり整っている。


「ただいま。……体調、どう?」


「はい。大丈夫です」


短い。丁寧で、薄い。

言葉としては正しいのに、そこに体温が乗っていない。


僕は一瞬だけ迷ってから、その場では深追いしない。

ここで身体の調子から入るより、まず空気を温めた方がいい気がした。


ソファに腰を下ろす。

コユキが影から出てきて、僕の方を見た。


「コユキ、会社設立準備の進捗は?」


「登記まわりはほぼ整理済み。書類の叩き台もある。場所と社名が決まったから、止まってた部分ももう進めてる」


コユキが聞いてくる。


「で、帰る途中、スマホ見て真剣な顔してたけど、何かあった?」


「柊さんから首輪の礼。コユキやキユ丸も発送ありがとう。あと、海外が少し面倒になってきた」


ディアもブレスレットから出てくる。


「海外も動いたの?」


「うん。黒猫仮面に会いたがってる国が増えてる。強行しそうなところもあるらしい」


「うん。完全にリスク管理の話だなって感じ」


「秀人の好きなやつ」


「好きではない」


その話をしている間、詩織は黙って聞いていた。

口を挟まない。

視線も静かだ。


その“引き方”が、今日はやけにきれいだった。


夕方。時計はまだ16時を少し回ったくらい。

そのタイミングで、詩織が口を開いた。


「……私、一つだけ。自分の言葉で、世間に出したいことがあります」


空気が少しだけ張る。


僕は詩織を見る。

整った表情。でも、その下にあるものは昨日よりはっきりしていた。


「引退の記事が……勝手に使われて、煽りに使われるのが嫌なんです」


詩織は一度息を吸ってから続けた。


「帰還者が怖い人の気持ちも、分かります。……でも、私の引退が、陰謀論みたいに使われるのは嫌で」


声は揺れていない。

でも、その静かさが逆に本気だと分かる。


「私が引退したのは、事務所の言いなりになるのが苦しくなったからで……今、ネットで言われている内容の大半は嘘です」


まだ投稿していない。

ただ、案として口にしているだけだ。


それでも、言葉の芯はもう決まっているのが分かる。


危ない、と思った。

炎上の流れも、今の詩織の状態も、頭の中ではすぐに繋がった。

だからこそ、思考より先に口が動いてしまった。


「……今はやめた方がいい」


自分でも、早いと思うくらい早かった。

詩織の目が、少しだけ揺れる。


「危ない。出した瞬間、味方も現れると思う。でも、それ以上に攻撃が来る」


「……」


「今、投稿が炎上した時、詩織が耐えられないと思う」


そこまで言ってから、一度止まる。

正論だとは思う。守りとしては、間違っていない。


詩織は一度、頷きかけた。

でも、そのまま踏みとどまった。


そこが、たぶん成長なんだろう。


「……また、止めるんですね」


「止めるじゃない。詩織を心配してる」


その言葉を、詩織はまっすぐ受けなかった。


「“心配”って言葉で……私の気持ちまで、処理しないでください」


言葉が詰まる。

でも、頭は焦って先に動いた。


「今のままだと炎上する」


言った瞬間、失敗だと分かった。


その言い方は、彼女の気持ちを受け止める声じゃなかった。

また、僕は“直す側”の声に戻っていた。


詩織の顔から、最後の温度が引いた。


「……やっぱり」


小さく笑う。

でも、その笑顔は完全に速水えりなだった。


「私は、ルミエルのスキル……兆光予見(オーメン・グリント)に導かれて、ここに来たんだと思います」


「詩織——」


「助けてほしくて……強くなりたくて」


その声は静かだった。静かだから、余計に刺さる。


「でも、ここでも“守られる檻”なんですね」


僕の喉が止まる。


「炎上するからやめた方がいいって……それ、事務所と同じです」


「……」


何も言えなかった。

違う、と言いたいのに、違うと言い切るだけの言葉が出てこない。


詩織が続ける。


「“言葉”まで奪われるなら……一人でいます」


その一言で、部屋の中の空気が決まってしまった。


詩織はそのまま物置部屋の方へ向かった。


止めるタイミングは、たぶんいくらでもあった。

でも僕は、どれも選べなかった。


少しして、詩織が戻ってくる。

鞄。帽子。マスク。最低限だけ持っている。


感情で飛び出すんじゃない。

ちゃんと外へ出る準備をしている。

だからこそ、余計に堪えた。


詩織は僕を見た。


「……これまで、お世話になりました。ありがとうございました」


丁寧すぎる言葉。

最後まで“正しい”。


「詩織——」


呼び止めた声が、思ったより弱い。

そして、その先がない。


詩織はそれ以上何も言わず、玄関へ向かった。

途中でスマホの電源を落とすのが見えた気がした。


玄関の扉が閉まる。


音は大きくないのに、やけに響いた。


しばらく、誰も何も言わなかった。


コユキも。

ディアも。


その沈黙の方が、何よりきつい。


僕はリビングに立ったまま、動けなかった。

追えばよかったのか。止めればよかったのか。謝ればよかったのか。


でも、そのどれも、今の僕には思いつかなかった。


何を言えばいいか分からなかった。

今のまま追っても、また正しさで囲い込むだけだと、自分でも分かってしまったから。


残ったのは、“正しいことを言ったつもりで、居場所を削った”という手触りだけだった。

それがいちばん、鈍く痛かった。


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自分勝手でわがままで失礼な見た目だけのひとだったな…
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