141話『正しさで削った居場所』
金曜の朝。
朝食の席に、詩織の姿はなかった。
いつもの顔ぶれは揃っている。
コユキ。ユキ丸。スーラ。今日は本体サイズのディア。
それなのに、席が一つ空いているだけで、テーブルの空気が少し薄い。
ディアがカップを置きながら、少しだけこちらを見る。
「詩織なら、94階にいるわ。昨日のあと、少し話したの」
「……そう」
詳しくは語らない。
それだけで、今はまだそのまま僕に渡さない方がいいと、ディアが判断したのだと分かった。
「体調が悪いみたい。午前中は向こうで休ませてる」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
聞いても、たぶん今ここで解ける話じゃない。
コユキが、珍しく何も刺してこない。
その静けさの方が、むしろ状況の重さをはっきりさせた。
帰ったら、詩織と話そう。
そう決めて、朝食を口に運ぶ。
ディアの作る朝食は、今日もちゃんと温かかった。
その温度に助けられながら、頭の方は仕事へ切り替える。
会社では、もう挨拶くらいしか仕事が残っていなかった。
10時。遠方のクライアントとWeb会議。
11時。もう一件。
どちらも、引き継ぎの確認と、最後の礼儀を置くための時間だ。
それ以外の仕事は、ほとんど残っていない。
資料を閉じて、少しだけ椅子にもたれる。
気持ちの置き場がない。
仕事が片付くのは良いことだ。
でも、きれいに片付きすぎると、自分の役目ごと薄くなっていく気がする。
午後に入る前、竹島さんへ声をかけた。
「月曜、一日休もうと思ってる」
「え、ほんとですか」
「送別会だけは行きます。ゆっくり休みをいただいて夜、参加します」
「分かりました」
それで話は終わる。
仕事の調整は、もうほとんど済んでいた。
午後半休で会社を出る。
駅へ向かう途中、スマホが震えた。
柊さんからのDMだった。
首輪千個の受け取りのお礼。
コユキが、もう発送していた。仕事が早い。
それに加えて、海外の続報も入っていた。
黒猫仮面との面会を希望する国が増えている。
中には、正式ルートを飛び越えて強引に接触してきそうな国もある、と。
(……面倒だな)
読み終える頃には、頭の中が少し“リスク管理”に寄っていた。
これから起こりそうなことを、頭の中で勝手に場合分けしていく。
何が起きるか。どこまで防げるか。何を先に潰すか。
そういう考え方が、もう癖みたいになっていた。
そして、帰宅した。
玄関を開けると、ユキ丸がいつものように出迎えた。
でも、詩織の姿はない。
靴を脱いでリビングへ入る。
そこでようやく、二階の方から足音がした。
詩織が降りてくる。
「おかえりなさい」
笑顔はある。
でも、やっぱり整っている。
「ただいま。……体調、どう?」
「はい。大丈夫です」
短い。丁寧で、薄い。
言葉としては正しいのに、そこに体温が乗っていない。
僕は一瞬だけ迷ってから、その場では深追いしない。
ここで身体の調子から入るより、まず空気を温めた方がいい気がした。
ソファに腰を下ろす。
コユキが影から出てきて、僕の方を見た。
「コユキ、会社設立準備の進捗は?」
「登記まわりはほぼ整理済み。書類の叩き台もある。場所と社名が決まったから、止まってた部分ももう進めてる」
コユキが聞いてくる。
「で、帰る途中、スマホ見て真剣な顔してたけど、何かあった?」
「柊さんから首輪の礼。コユキやキユ丸も発送ありがとう。あと、海外が少し面倒になってきた」
ディアもブレスレットから出てくる。
「海外も動いたの?」
「うん。黒猫仮面に会いたがってる国が増えてる。強行しそうなところもあるらしい」
「うん。完全にリスク管理の話だなって感じ」
「秀人の好きなやつ」
「好きではない」
その話をしている間、詩織は黙って聞いていた。
口を挟まない。
視線も静かだ。
その“引き方”が、今日はやけにきれいだった。
夕方。時計はまだ16時を少し回ったくらい。
そのタイミングで、詩織が口を開いた。
「……私、一つだけ。自分の言葉で、世間に出したいことがあります」
空気が少しだけ張る。
僕は詩織を見る。
整った表情。でも、その下にあるものは昨日よりはっきりしていた。
「引退の記事が……勝手に使われて、煽りに使われるのが嫌なんです」
詩織は一度息を吸ってから続けた。
「帰還者が怖い人の気持ちも、分かります。……でも、私の引退が、陰謀論みたいに使われるのは嫌で」
声は揺れていない。
でも、その静かさが逆に本気だと分かる。
「私が引退したのは、事務所の言いなりになるのが苦しくなったからで……今、ネットで言われている内容の大半は嘘です」
まだ投稿していない。
ただ、案として口にしているだけだ。
それでも、言葉の芯はもう決まっているのが分かる。
危ない、と思った。
炎上の流れも、今の詩織の状態も、頭の中ではすぐに繋がった。
だからこそ、思考より先に口が動いてしまった。
「……今はやめた方がいい」
自分でも、早いと思うくらい早かった。
詩織の目が、少しだけ揺れる。
「危ない。出した瞬間、味方も現れると思う。でも、それ以上に攻撃が来る」
「……」
「今、投稿が炎上した時、詩織が耐えられないと思う」
そこまで言ってから、一度止まる。
正論だとは思う。守りとしては、間違っていない。
詩織は一度、頷きかけた。
でも、そのまま踏みとどまった。
そこが、たぶん成長なんだろう。
「……また、止めるんですね」
「止めるじゃない。詩織を心配してる」
その言葉を、詩織はまっすぐ受けなかった。
「“心配”って言葉で……私の気持ちまで、処理しないでください」
言葉が詰まる。
でも、頭は焦って先に動いた。
「今のままだと炎上する」
言った瞬間、失敗だと分かった。
その言い方は、彼女の気持ちを受け止める声じゃなかった。
また、僕は“直す側”の声に戻っていた。
詩織の顔から、最後の温度が引いた。
「……やっぱり」
小さく笑う。
でも、その笑顔は完全に速水えりなだった。
「私は、ルミエルのスキル……兆光予見に導かれて、ここに来たんだと思います」
「詩織——」
「助けてほしくて……強くなりたくて」
その声は静かだった。静かだから、余計に刺さる。
「でも、ここでも“守られる檻”なんですね」
僕の喉が止まる。
「炎上するからやめた方がいいって……それ、事務所と同じです」
「……」
何も言えなかった。
違う、と言いたいのに、違うと言い切るだけの言葉が出てこない。
詩織が続ける。
「“言葉”まで奪われるなら……一人でいます」
その一言で、部屋の中の空気が決まってしまった。
詩織はそのまま物置部屋の方へ向かった。
止めるタイミングは、たぶんいくらでもあった。
でも僕は、どれも選べなかった。
少しして、詩織が戻ってくる。
鞄。帽子。マスク。最低限だけ持っている。
感情で飛び出すんじゃない。
ちゃんと外へ出る準備をしている。
だからこそ、余計に堪えた。
詩織は僕を見た。
「……これまで、お世話になりました。ありがとうございました」
丁寧すぎる言葉。
最後まで“正しい”。
「詩織——」
呼び止めた声が、思ったより弱い。
そして、その先がない。
詩織はそれ以上何も言わず、玄関へ向かった。
途中でスマホの電源を落とすのが見えた気がした。
玄関の扉が閉まる。
音は大きくないのに、やけに響いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
コユキも。
ディアも。
その沈黙の方が、何よりきつい。
僕はリビングに立ったまま、動けなかった。
追えばよかったのか。止めればよかったのか。謝ればよかったのか。
でも、そのどれも、今の僕には思いつかなかった。
何を言えばいいか分からなかった。
今のまま追っても、また正しさで囲い込むだけだと、自分でも分かってしまったから。
残ったのは、“正しいことを言ったつもりで、居場所を削った”という手触りだけだった。
それがいちばん、鈍く痛かった。




