140話『正しさが遠ざける午後』
木曜の朝。
起きて、支度して、家を出る。
今日は直行だった。
朝のリビングに降りた時、詩織はもう起きていた。挨拶も返事も、きれいだった。きれいすぎるくらいに。
僕も同じように、必要な言葉だけ返す。
下手に触れるには、朝はまだ早い。仕事に入る前に感情まで揺らすと、そのまま仕事の手元まで鈍ることがある。
電車に揺られながら会社に向かう間も、詩織のことが残っていた。距離が開いた、という感覚だけが、薄く貼りついている。
9時半、肥後橋のお客様先。
お客様先での挨拶は、もう儀式に近い。
丁寧に、でも重くしすぎず。引き継ぎの要点だけを短く置いていく。
10時半、梅田のお客様先も同じだった。
どこも話す内容は、大きくは変わらない。
今後、誰が窓口になるか。
そして、僕はきちんと顔を出して、きちんと終える。それで相手の中でも区切りがつく。
同じ台詞を、相手ごとの温度に合わせて置いていく。
それが、たぶん社会人としての最後の礼儀なんだと思う。
11時過ぎに、新大阪のオフィスへ戻る。
席に着く前に、竹島さんが声をかけてきた。
「時任さん、ちょっといいですか」
「どうしました?」
竹島さんが、少しだけ言いにくそうに笑う。
「月曜の夜って、空いてます?」
一瞬、意味を測る。
その顔でだいたい分かった。
「ああ……送別会?」
「はい。大げさなやつじゃないですけど。みんなで軽く」
僕は少しだけ息を抜いた。
「ありがとう。行きますよ」
「ほんとですか。よかったです」
竹島さんが、明らかに安心した顔をする。
会社は回る。
人が一人抜けても、業務はだいたい回るようにできている。
でも、人の気持ちは残る。残るから、こういう声をかけてもらえる。
席に座ってから、頭の片隅で月曜の予定をめくる。
今のところ大きな予定はない。引き継ぎも、もうほとんど終わっている。
一日、有給にしてもいいかもしれない。
そう思ったけど、すぐには決めない。
……明日の様子を見てからでいい。
帰宅したのは、昼過ぎだった。
玄関を開けると、先にユキ丸が出迎えてくれる。
少し遅れて、詩織も出てきた。
「おかえりなさい」
笑っている。
でも、整いすぎている。
声の高さも、語尾の柔らかさも、頭の角度も、全部が少しずつ“アイドルとしての笑顔”に寄っている。
「ただいま。今日、どうだった?」
僕はできるだけ軽く聞いた。
詩織は、ほんの一拍だけ置いてから答える。
「はい。問題ありません」
その言葉が出た時点で、少し危ないと思った。
“問題ありません”って、便利だけど、感情を閉じる時にも使いやすい言葉だ。
でも、ここで踏み込むのは違う。
疲れている時に、正しさを確かめるみたいな会話を始めると、ろくなことにならない。
「そっか。じゃあ、少し休もう」
「はい」
返事も、きれいだった。
少し休憩してから、僕は詩織に声をかけた。
「そういえば。昨日言ってた振り返り、やろうか」
詩織の目が、少しだけ動いた。
待っていたのか、身構えたのか、その両方か。
「はい。お願いします」
詩織はすぐにノートを持ってきた。
準備してきたのが分かる。几帳面に書き込まれている。
一生懸命なのは、見れば分かる。
テーブルの向かいに座って、彼女が自分なりの整理を読み上げていく。
最初の答え自体は、悪くなかった。
要点もあるし、考えた跡もある。だからこそ、僕はつい“直し”に入ってしまう。
「言いたいこと自体は合ってる。ただ、話す順番を変えた方が伝わりやすいかな。」
「……順番、ですか」
「最初に“今日は何を確認したいのか”を言う。次に“誰がその場で答えを持ってるのか”を見る。そのあとに、自分の考えや条件を出す。最後に、今日決まらないなら“次にどうするか”まで置く。そこまで言えると、相手も整理しやすい」
詩織が、すぐにメモを入れる。
「はい」
「あと、語尾は少し強めた方がいい。“〜と思います”に寄せすぎると、判断を引き受けていないように見えるから」
「……はい」
「それと、“はい”は返事としてはいい。でも答えにはなってない。聞かれた時は、一回自分の言葉で置いた方がいい」
「……はい。すみません」
詩織は従順に直していく。
でも、途中から目が笑わなくなった。
でも僕も、詩織との距離を測りかねたまま余裕を失っていて、そのまま話を進めてしまった。
そして、余計な一言まで出る。
「このままだと、また“良い子”として、誰かの正解に寄せることになる」
言った瞬間、詩織の目が一度だけ止まった。
少し遅れて気づく。
それは言い方が悪い、というより、今の詩織に一番刺さる形だった。
大きな変化じゃない。
でも、明らかに刺さったのが分かる止まり方だった。
詩織は、すぐには何も言わなかった。
それから、きれいに笑った。
——きれいすぎるくらいに。
「……勉強になります。もっと頑張ります」
丁寧すぎる言葉。
整いすぎた笑顔。
逆に、距離が開いたのが分かる。
「……」
何か言い直した方がいい。
そう思うのに、うまく言葉が出てこない。
違う、そういう意味じゃない。
たぶん本当に言うべきなのはそこだったのに、それが一番難しい。
ノートを閉じる音だけが、小さく響いた。
少し間が空いてから、詩織が静かに言った。
「今日は、少し体調があまり良くないので……94階で休んでおきます」
「うん。無理しないで」
「はい」
それしか言えなかった。
「ありがとうございます」
詩織は丁寧に頭を下げて、そのまま二階へ上がっていった。
しばらくして、物置部屋の扉が閉まる音がした。
残ったのは、整いすぎた背中だった。
(……閉じたな)
リビングに、少し重たい静けさが落ちる。
僕がソファに沈むと、コユキが先に口を開いた。
「……やっちゃったね」
「……どれ?」
分かっていて聞く。
分かっていることを、誰かの口で確認したくなる時がある。
「“直す”は便利だけど、出来なかった時、相手が苦しくなる」
僕は目を閉じた。
「わかってる。仕事なら、あれでいい時もある。……でも、プライベートまでその考えを持ち込みすぎると、こうなるのも分かってる」
コユキが尻尾を一度だけ揺らす。
「やすらぐはずの場所で、それやると心が疲れちゃうからね」
その通りだった。
外で頑張って、家でまで“評価される側”に戻ったら、休む場所がなくなる。
ディアが静かに言う。
「詩織は、頑張り屋だからこそ壊れやすいのよ」
「……うん」
「秀人は悪くない。でも、言葉の刃ってね。“正しい形”をしてるほど刺さるの」
それも、分かる。
正しいことを言っても、人は救えない時がある。
むしろ、視座が違う相手に正しさを押し付けた瞬間、孤独が生まれる。
「私、少し94階で詩織と話してみる」
「頼める?」
「ええ」
そう言って、ディアはまたブレスレットの中へ戻っていった。
一人でリビングに残る。
正しいことを言った。
でも、正しい言葉が思いやりある言葉とは限らない。
自分でも分かっている。
だからこそ、離婚したあとに付き合った人たちも、それほど長くは続かなかった。
好き嫌いだけじゃない。
経験を積んで、見えるものが増えると、同じ話をしていても立っている場所がずれてくる。
そうなると、会話は少しずつ噛み合わなくなる。
相手に話を合わせるのが苦にならない人なら、もう少し上手くやれるのかもしれない。
でも僕は、プライベートまでそこまで気を使いたくない。
素でいたい。
そう思ってしまう。
その結果、僕の方が面倒になって距離を取るか、相手の方がしんどくなって離れていくか。
だいたい、いつもそのどちらかだった。
だからいつからか一人が楽だと思うようになった。
明日、どう動くか。
考えながら、僕はソファの背に頭を預けた。
木曜の午後は、そのあと何をするでもなく過ぎた。
気づいた時には、もう一日が終わりかけていた。




