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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第八章:割れる言葉、繋ぐ言葉

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140話『正しさが遠ざける午後』

木曜の朝。


起きて、支度して、家を出る。

今日は直行だった。


朝のリビングに降りた時、詩織はもう起きていた。挨拶も返事も、きれいだった。きれいすぎるくらいに。


僕も同じように、必要な言葉だけ返す。

下手に触れるには、朝はまだ早い。仕事に入る前に感情まで揺らすと、そのまま仕事の手元まで鈍ることがある。


電車に揺られながら会社に向かう間も、詩織のことが残っていた。距離が開いた、という感覚だけが、薄く貼りついている。


9時半、肥後橋のお客様先。


お客様先での挨拶は、もう儀式に近い。

丁寧に、でも重くしすぎず。引き継ぎの要点だけを短く置いていく。


10時半、梅田のお客様先も同じだった。


どこも話す内容は、大きくは変わらない。

今後、誰が窓口になるか。

そして、僕はきちんと顔を出して、きちんと終える。それで相手の中でも区切りがつく。


同じ台詞を、相手ごとの温度に合わせて置いていく。

それが、たぶん社会人としての最後の礼儀なんだと思う。


11時過ぎに、新大阪のオフィスへ戻る。


席に着く前に、竹島さんが声をかけてきた。


「時任さん、ちょっといいですか」


「どうしました?」


竹島さんが、少しだけ言いにくそうに笑う。


「月曜の夜って、空いてます?」


一瞬、意味を測る。

その顔でだいたい分かった。


「ああ……送別会?」


「はい。大げさなやつじゃないですけど。みんなで軽く」


僕は少しだけ息を抜いた。


「ありがとう。行きますよ」


「ほんとですか。よかったです」


竹島さんが、明らかに安心した顔をする。


会社は回る。

人が一人抜けても、業務はだいたい回るようにできている。

でも、人の気持ちは残る。残るから、こういう声をかけてもらえる。


席に座ってから、頭の片隅で月曜の予定をめくる。

今のところ大きな予定はない。引き継ぎも、もうほとんど終わっている。


一日、有給にしてもいいかもしれない。

そう思ったけど、すぐには決めない。


……明日の様子を見てからでいい。


帰宅したのは、昼過ぎだった。


玄関を開けると、先にユキ丸が出迎えてくれる。

少し遅れて、詩織も出てきた。


「おかえりなさい」


笑っている。

でも、整いすぎている。


声の高さも、語尾の柔らかさも、頭の角度も、全部が少しずつ“アイドルとしての笑顔”に寄っている。


「ただいま。今日、どうだった?」


僕はできるだけ軽く聞いた。


詩織は、ほんの一拍だけ置いてから答える。


「はい。問題ありません」


その言葉が出た時点で、少し危ないと思った。

“問題ありません”って、便利だけど、感情を閉じる時にも使いやすい言葉だ。


でも、ここで踏み込むのは違う。

疲れている時に、正しさを確かめるみたいな会話を始めると、ろくなことにならない。


「そっか。じゃあ、少し休もう」


「はい」


返事も、きれいだった。


少し休憩してから、僕は詩織に声をかけた。


「そういえば。昨日言ってた振り返り、やろうか」


詩織の目が、少しだけ動いた。

待っていたのか、身構えたのか、その両方か。


「はい。お願いします」


詩織はすぐにノートを持ってきた。

準備してきたのが分かる。几帳面に書き込まれている。

一生懸命なのは、見れば分かる。


テーブルの向かいに座って、彼女が自分なりの整理を読み上げていく。


最初の答え自体は、悪くなかった。

要点もあるし、考えた跡もある。だからこそ、僕はつい“直し”に入ってしまう。


「言いたいこと自体は合ってる。ただ、話す順番を変えた方が伝わりやすいかな。」


「……順番、ですか」


「最初に“今日は何を確認したいのか”を言う。次に“誰がその場で答えを持ってるのか”を見る。そのあとに、自分の考えや条件を出す。最後に、今日決まらないなら“次にどうするか”まで置く。そこまで言えると、相手も整理しやすい」


詩織が、すぐにメモを入れる。


「はい」


「あと、語尾は少し強めた方がいい。“〜と思います”に寄せすぎると、判断を引き受けていないように見えるから」


「……はい」


「それと、“はい”は返事としてはいい。でも答えにはなってない。聞かれた時は、一回自分の言葉で置いた方がいい」


「……はい。すみません」


詩織は従順に直していく。

でも、途中から目が笑わなくなった。


でも僕も、詩織との距離を測りかねたまま余裕を失っていて、そのまま話を進めてしまった。


そして、余計な一言まで出る。


「このままだと、また“良い子”として、誰かの正解に寄せることになる」


言った瞬間、詩織の目が一度だけ止まった。


少し遅れて気づく。

それは言い方が悪い、というより、今の詩織に一番刺さる形だった。


大きな変化じゃない。

でも、明らかに刺さったのが分かる止まり方だった。


詩織は、すぐには何も言わなかった。


それから、きれいに笑った。

——きれいすぎるくらいに。


「……勉強になります。もっと頑張ります」


丁寧すぎる言葉。

整いすぎた笑顔。


逆に、距離が開いたのが分かる。


「……」


何か言い直した方がいい。

そう思うのに、うまく言葉が出てこない。


違う、そういう意味じゃない。

たぶん本当に言うべきなのはそこだったのに、それが一番難しい。


ノートを閉じる音だけが、小さく響いた。


少し間が空いてから、詩織が静かに言った。


「今日は、少し体調があまり良くないので……94階で休んでおきます」


「うん。無理しないで」


「はい」


それしか言えなかった。


「ありがとうございます」


詩織は丁寧に頭を下げて、そのまま二階へ上がっていった。

しばらくして、物置部屋の扉が閉まる音がした。


残ったのは、整いすぎた背中だった。


(……閉じたな)


リビングに、少し重たい静けさが落ちる。


僕がソファに沈むと、コユキが先に口を開いた。


「……やっちゃったね」


「……どれ?」


分かっていて聞く。

分かっていることを、誰かの口で確認したくなる時がある。


「“直す”は便利だけど、出来なかった時、相手が苦しくなる」


僕は目を閉じた。


「わかってる。仕事なら、あれでいい時もある。……でも、プライベートまでその考えを持ち込みすぎると、こうなるのも分かってる」


コユキが尻尾を一度だけ揺らす。


「やすらぐはずの場所で、それやると心が疲れちゃうからね」


その通りだった。

外で頑張って、家でまで“評価される側”に戻ったら、休む場所がなくなる。


ディアが静かに言う。


「詩織は、頑張り屋だからこそ壊れやすいのよ」


「……うん」


「秀人は悪くない。でも、言葉の刃ってね。“正しい形”をしてるほど刺さるの」


それも、分かる。


正しいことを言っても、人は救えない時がある。

むしろ、視座が違う相手に正しさを押し付けた瞬間、孤独が生まれる。


「私、少し94階で詩織と話してみる」


「頼める?」


「ええ」


そう言って、ディアはまたブレスレットの中へ戻っていった。


一人でリビングに残る。


正しいことを言った。

でも、正しい言葉が思いやりある言葉とは限らない。


自分でも分かっている。

だからこそ、離婚したあとに付き合った人たちも、それほど長くは続かなかった。


好き嫌いだけじゃない。

経験を積んで、見えるものが増えると、同じ話をしていても立っている場所がずれてくる。

そうなると、会話は少しずつ噛み合わなくなる。

相手に話を合わせるのが苦にならない人なら、もう少し上手くやれるのかもしれない。


でも僕は、プライベートまでそこまで気を使いたくない。

素でいたい。

そう思ってしまう。


その結果、僕の方が面倒になって距離を取るか、相手の方がしんどくなって離れていくか。

だいたい、いつもそのどちらかだった。


だからいつからか一人が楽だと思うようになった。


明日、どう動くか。

考えながら、僕はソファの背に頭を預けた。


木曜の午後は、そのあと何をするでもなく過ぎた。

気づいた時には、もう一日が終わりかけていた。


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